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神の箱をエルサレムへ運び上るダビデ

32. 神の箱をエルサレムへ運び上るダビデ

【聖書箇所】6章1節~25節

はじめに

  • サムエル記と歴代誌には同じ出来事が記さていますが、歴史を見ている視点が異なります。サムエル記の場合は、ダヒでの政治的(軍事的)な面が詳しく記されまずが、歴代誌の場合はダビデの宗教的な面、とりわけ礼拝者としての面を詳しく記しています。とはいえ、Ⅱサムエル6章では、ダビデのこれまでにない礼拝者としての霊性についても記されています
  • ダビデはエルサレムを全イスラエルの中心地とするために、各部族の長老たちとの合議の上で、神の箱を「ダヒでの町」へ携え上ろうとします。軍事的な戦いの方法についてダビデはしばしば主に伺っていますが、宗教的、礼拝的な面においては、特別に「主に伺った」という表現は出て来ません。音楽を伴う新しい礼拝はまさにダビデの独自の発想で、神もそれについては一切の指示がありません。まさにダビデがしたいようにさせているといった感じです。
  • ダビデが楽器を奏する者でなければ決して出て来ない発想がこの章には見られます。この章は、しばしは「ウザの死」という出来事の方に思いがつい行ってしまいやすいのですが、ダビデの霊性の新たな面、つまり「礼拝者としてのダビデの霊性」が色濃く記されている章です。そうした面を取り上げて思いを巡らしたいと思います

1. レビ人、および祭司たちに神をたたえるための楽器を奏させたダビデ

  • 主の箱を運び上げるために、ダビデがしたことは、レビ人、及び祭司たちに歌を歌わせただけでなく、しかも楽器をもたせています。楽器の準備もそうですが、彼らが楽器(立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバル、あとで角笛も加わります)を奏する準備をどのように、そしていつさせたのか、それについては一切記されていません。かつて進軍や戦いに用いられた角笛が、ここでは主を賛美するための楽器に変わっていることです。重要なことは、ダビデははじめて音楽を用いて、神をたたえる賛美をさせたことです。これはイスラエルの礼拝の歴史の中で画期的な、革命的な出来事だったのです。Ⅰ歴代誌16章には歌われた歌の内容、そのテーマまでもが記されています。
  • 本来、礼拝は祭司の務めですが、ダビデは王という務めのみならず、「ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた」とあるように(6:14)、祭司の務めもしているのです。サウル王の場合はゆるされませんでしたが、ダビデの場合はおとがめなしです。「礼拝者としてのダビデとその改革」は、20世紀に入ってから、特に、イスラエルの国が再建されてから、次第に見直されるようになって来ています。

2. 主の前で踊ったダビデ

  • もうひとつ画期的な出来事は、ダビデが主の前で踊ったということです。祭りの時に食べたり、飲んだりした時に「踊る」ということはどんな文化でも普通にあることです。しかし、「主の前で」とは、神を礼拝の行為の一つして「踊った」ということが重要です。
  • 6章には「踊り」に関する語彙が二つあります。一つは「カーラル」(כָּרַר 、あるいは「ハーラル」כָרַר)」、もう一つは「ハーガグ」(חָגַג)です。前者は「踊りまわる」、後者は「飛び跳ねる」の意味です。前者は14節と16節に出てきます。こればダビデにしか使われていない重要な動詞です。また後者は16節に出てきますが、聖書では3回、しかしその中で「踊り」に関する意味としてはここ(6:16)のみです。16節に重ねられた二つの踊りに関する用語を、口語訳では「舞い踊る」、新改訳では「はねたり、踊ったり」、岩波訳も「跳ねたり、踊ったり」、新共同訳では「跳ね踊る」、フランシスコ会訳は「跳ねたりくるくると踊ったりして」と訳しています。いずれにしても、ダビデの特愛用語なのです。
  • 礼拝のひとつの表現として、「踊り」を取り入れたのはダビデなのです。今日、ダビデに対する注目が高まり、メシアニック・ジューの人々の礼拝には「踊り」が回復されています。「メシアニック・ダンス」とも、「メシアニック・ジューイッシュ・ダンス」とも、あるいは「ディヴィック・ダンス」(ダビデの踊り)とも呼ばれています。ミカルのように「踊り」に対する偏見を持つことがないように、聖書からの正しい理解が求められます。

2012.7.18


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