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私の杯は、あふれています。

瞑想(14) 「私の杯は、あふれています。」(v.5-c)

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「私の杯(כּוֹסִי)は、あふれています(רְוָיָה)。」

  • この分節には動詞はありません。「レヴァーヤー」(רְוָיָה)とは満ちあふれる飽和状態をあらわす言葉です。旧約では2回しか使われていません。しかもその2回はいずれも詩篇で、23:5と66:12に使われています。
  • 文語訳では「わが酒杯(さかずき)はあふるるなり」とあり、「杯」を「酒杯」と訳しています。70人訳聖書では「あなたの杯はしたたかに私を酔わせる」と訳されているようで、それを意識した訳かもしれません。とても満たされた歓迎を受けた喜びが伝わってきます。とても興味深い訳です。
  • 使徒パウロはピリピ4章でこう述べています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」パウロという人は、「富」とか、「豊かさ」といった言葉を好んで用いた人です。また「あらゆる」「どんなことでも」「さらに」「はるかに」「すべて」「・・を越えて」「測り知ることのできない」「余すところなく」という最上級のことばをよく用いています。
  • 私たちは「必要のかたまり」のような存在です。赤子、幼児、少年少女、青年、壮年、老年に至るまで、それそれの時期に与えられるべき必要があります。それが満たされなければ、次の時期に持ちこしていきます。人の必要は生きている限りとどまることを知りません。そのような必要に対して、神は、私たちの人生に最善の杯ー神の祝福、ご計画、賜物、訓練等ーを備えておらます。現状ではそのように思えないように見えても、主を信頼していく時に、近視眼では見ることの出来なかった「あふれる杯」を味わえるようになるのです。そしてその杯は決して尽きることなく、無尽蔵で、みなみなと注がれる杯なのです。まさにパウロが言うように、「神は、私の必要をすべて満たしてくださる」方なのです。けちな神ではなく、並はずれてリッチな神です。
  • しかも、その満たし方が尋常ではありません。「キリスト・イエスご自身にある栄光の富をもって」の「・・をもって」とは、「・・の中から」という意味ではありません。「・・に従って」「・・に応じて」という意味です。私たちはキリストにあってこのような神の歓迎にあずかっているのです。まさに神の歓迎は、私たちをして、「私の杯はあふれています」と告白させることのできる方なのです。
  • ところで、23篇の中で「私」が主語となっているのは四つの文節です。
    1節b「私は乏しいことがありません」
    4節a「私は災いを恐れません」
    5節c「私の杯はあふれています」
    6節b「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」
  • 最後のものを除いて、先の三つはすべてBeingの告白となっており、最後の節だけがDoingの告白となっています。このことはきわめて注目すべき点です。なぜなら、神が自分にとっていかなる方であるか、そして自分がどのような心の状態にされているかがとても重要なこととされているからです。裏を返して言うならば、「私は乏しい」、「私は災いを恐れる」という現実が、私たちのすべての行動を決定づけ、それに対処する方向へと向う傾向があるからです。その意味では、この詩篇23篇の作者はそれを主体的・自覚的、意識的にはっきりと否定しています。


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