****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第一次伝道旅行 (3) ルステラでの出来事

文字サイズ:

20. 第一次伝道旅行 (3) ルステラでの出来事

【聖書箇所】 14章1節~20節

画像の説明

ベレーシート

  • ピシデヤのアンテオケでの迫害によって追い出されたパウロとバルナバは、「足のちりを払い落として」、次の宣教地となるイコニオムへと向かいました。そこでも多くのユダヤ人とギリシャ人が信仰に入りましたが、そこでも迫害の手は伸び、難を避けて、二人はルステラという町に行きました。今回は、このルステラの町で起こった二つのことについて注目したいと思います。

(1) 二つの 「アニステーミ」
(2) 異邦人に対するパウロの説教

1. 二つの「アニステーミ」

  • 復活用語である「アニステーミ」はルカ文書(福音書と使徒の働き)において重要な語彙です。新約全体では108回ですが、ルカ文書の「福音書」は27回、「使徒の働き」は45回です。
  • 「使徒の働き」14章に二つの出来事の中にその語彙が登場しています。

    (1) 生まれつき足の不自由だった者に対する「アニステーミ」

    14:8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。
    14:9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
    14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

    ※使徒の働き3章にも同様に、生まれつき足のきかない男が使徒ペテロの「ナザレのイエスの名によって、歩きなさい」と右手を取ってたたせると、たちまち彼の足のくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出すという奇蹟があります。生まれつき足のきかない者がまっすぐに立ち上がるというしるしと不思議なわざは、復活のいのちの力を証しする最も説得力の出来事だったと言えます。ちなみに、3章8節の「たねたりする」と16章10節の「飛び上って」と訳される語彙の原語は「ハッロマイ」(άλλομαι)で、ヨハネ福音書4章14節では「湧き上がる」と訳されています。尽きることのない源泉からほとばしる力のイメージを感じさせます。まさに復活のいのちは人間的な限界を打ち破る力であり、無尽蔵の力が秘められています。

    (2) 石打ちにされたパウロの「アニステーミ」

    14:20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。

    石打ちにあって死んだと思われたパウロが、自ら「立ち上がって」、再び町の中に入って行ったことは、どんな苦しみや迫害にも決して屈しない不屈の力を感じさせます。まさにこれがキリストの復活の力と言えます。パウロとバルナバの第一回伝道旅行はまさに苦しみの多い旅行でした。そんな苦しみを見れば、だれもがつまずき、引いてしまいそうですが、そうしたパウロの苦難をじっと見つめていたひとりの青年がいたのです。それが第二回伝道旅行で再開し、しかもパウロと同行することになるテモテです。おそらくテモテはパウロの中に生きた信仰の力を見たのかもしれません。ルステラの町で、母ユニケと祖母ルイスによって純粋な信仰を育まれたテモテは、パウロを通して父性的な信仰をまざまざと見せられたのかもしれません。パウロはこのテモテを「私の子」「愛する子」と呼んでいます(Ⅰテモテ1:18、Ⅱテモテ1:2)。

    かつて殉教したステパノの傍らに青年サウロがいたように、ルステラで石打にあったパウロの傍らにも青年テモテがいたのです。苦難の中にいる主の弟子たちの傍らに次の世代を担う若者が主によって備えられていることはなんとも大いなる望みです。


2. 使徒パウロの異邦人向けの伝道メッセージ

  • 生まれつきの足なえが飛び上って、歩き出したいやしをそこにいた人々にかなりのインパクトを与えました。そして人々は「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と声を張り上げて、神に祭り上げられそうになったとき、バルナバとパウロは「衣を裂いて」メッセージを語りました。おそらくパウロが語ったものと思われます。
  • ここで語られたメッセージは、ビシデヤのアンテオケでユダヤ人に向けて語ったものとはかなり異っています。旧約の土台のない異邦人に対してパウロが語ったメッセージのポイント二つあります。

    (1) 神は天地の創造者であるということ

    パウロが伝えたメッセージの第一は、聖書の神観です。神は天と地を造られた創造主であること。そして神と人とは本質を全く異にしているということです。つまり、人間は決して神にはなりえない存在であるということでした。

    日本において、神は創造主であるという神観を持って生きることは容易ではありません。高度の先端技術を迎えた現代でも、建物を建造するときには神社の神主が地鎮祭を取り仕切ります。経済界を担う大企業もさまざまな神社をもって祭っています。そして企業の安全と繁栄を祈願入しています。社会におけるさまざまな祝い事、祭り事には、必ず宗教的なものが絡んでいます。こうした日本の宗教的状況において、神は天地を造られた唯一の神であるという信仰を貫き通すことは決して容易ではありません。「自分の足でまっすぐに立つ(アニステーミ)」ためには、信仰の戦いを要するのです。

    (2) 神は自然の営みの中にご自身を現わしていること

    使徒パウロは異邦人に対して語ったメッセージは、自然の中に神が啓示されていることです。自然のさまざまな営みの中に、神の存在やメッセージが語られているということです。

    使徒パウロは、自分たちのことを「あなたがたが、このような空しいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を伝えている者たち」だと紹介しています。ここでは「福音」の内容については一切語られていませんが、異邦人に福音を伝える前提として、彼が聖書の神観と自然における神の啓示についてふれていたことは、私たちにとって学ぶべきことが多くあります。


2013.5.9


a:10300 t:1 y:3

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional