****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第三次伝道旅行 (4) エペソ教会への訣別説教

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34. 第三次伝道旅行 (4) エペソ教会への訣別説教

【聖書箇所】 20章17節~38節

ベレーシート

  • エペソから始まった第三次伝道旅行を終えてエルサレムに向けて急いでいたパウロは、ミレトからエペソに最後の別れをしようとエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せました。パウロは五旬節の日には必ずエルサレムに着いていたいと思っていたようです。主の例祭を守ろうとするパウロはまさにユダヤ人そのものです。伝道のために数年間を教会建設のために日々費やしながらも、主の例祭を守ることはユダヤ人としてのアィデンティティのあかしです。そのような事情から、パウロはエペソの教会の長老(教会の指導的立場にある者たち)に対して語った訣別説教、それが20章17~35節に記されています。パウロはもう二度と会うことはないと思って語った最後の説教ですから、きわめて重要な内容となっています。
  • 訣別説教の中には、パウロがどのようにしてエペソの教会を建て上げて来たのかを知ることができます。パウロの主に対する基本的姿勢のみならず、パウロの伝道論、聖霊論、聖書論、救済論、終末論、牧会論、教会行政、教会教育・・などを知ることが出来ます。そのひとつひとつは私たちがキリストの教会を建て上げていく上で模範としなければならないことばかりです。その中から今回は、二つのことを取り上げます。一つは、決別説教の「キーワード」は何か。もう一つは、「謙遜の限りを尽くして主に仕えたパウロの姿勢」についてです。

1. パウロの訣別説教のキーワードは「油断せずに目を覚ましていること」

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  • パウロのこの決別説教の中から、パウロが教会の指導者たちに対して最も伝えたかった事柄のキーワードは何かと考えるならば、それは31節の「目を覚ましていなさい」ということばに収斂することができると思います。原語は「グレーゴオー」(γρηγορέω)で、文字通り、眠らないで目を覚ましているという意味ですが、ここでは「油断することなく(絶えず)注意する」という意味で使われています。しかも現在形の命令形ですから、継続的に注意して見張る(to watching)ということです。

(1) 自分自身と群れ全体とに絶えず気を配ること

  • 自分自身と群れ全体とに絶えず気を配ることが命じられています。「絶えず」です。昼も夜も、常に、継続的に、その理由として、やがて教会に、外部から、「狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで、群れを荒らしまわる」だけでなく、内部からも「いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こる」からだと警告しています。

(2) パウロがこれまで行って来たこと、および語って来たことを思い出すこと

  • 目を覚ましているべき内容の第二は、パウロが三年の間、神のみことばをもってどのようにひとりひとりを訓戒してきかたを思い出すことによってです。訓戒の具体的な内容については記されてはおりませんが、絶えず、みことばによって教え、諭してきたことが考えられます。

    ① 20節
    「益になること、少しもためらわず、知らせ(教えた、伝えた)」
    有益な事柄を共有するために、何一つ黙っていることがなかったということです。新改訳では「少しもためらわず」と肯定的表現で訳されていますが、原文では「黙っている、隠し持っている」という動詞「ヒュボステッロー」(ύποστέλλω)が否定される表現となっています。

    ② 27節
    「神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」
    「神のご計画の全体を、あますところなく」とは、旧約聖書にあるトーラー、および、預言書に至るまで、幅広く、神のご計画のすべてを、またその中に隠されている神の秘密を解き明かしたことを意味します。原文では20節にあった同じ動詞の「ヒュボステッロー」(ύποστέλλω)が使われており、ここでは「ひるんだり、退いたり、避ける」という意味が否定詞を伴って否定されていますが、訳語では「余すところなく」と肯定的、積極的な表現となっています。


2. 「 謙遜の限りを尽くして、主に仕える」とは・・

  • 「謙遜の限りを尽くして、主に仕える」というこの姿勢は、使徒パウロの生涯を端的に特徴づけるものです。「謙遜の限りを尽くして、神に仕える」真のモデルがいます。それは主イエスです。パウロの生き方はまさに主イエスに倣うものであったのです。
  • ここでいう「謙遜」とはこの世の意味する謙遜ではなく、聖書が教えている謙遜、それはイエス・キリストにおいて究極的な姿として顕わされています。パウロは御子イエスの謙遜を次のように表わしています。

    【新改訳改訂第3版】ピリピ人への手紙2章6~11

    6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました
    9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
    10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

  • 御子イエスの従順こそ真の「謙遜」の姿です。パウロはこの謙遜を見倣うように勧めています。しかもそのことが「自分の救いを達成する」ことだとも言っています(同、2:12)。もし、主に対して従順であることを自分の召しとして受けとめるなら、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ですから)すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(同、2:13, 14)と語りかけています。
  • イエスご自身も言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と。「わたしにとどまりなさい。・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4, 5)。
  • 御子イエスは御父のくびきを共にしておられました。御子はいつも御父にとどまっておられました。そしていつも御父の呼吸と合わせておられたのです。その御子が私たちに「わたしのくびきを負いなさい」、「わたしにとどまりなさい」と呼びかけておられます。この呼びかけは「謙遜」への呼びかけなのです。私たちはイエスの謙遜に学ぶように招かれているのです。この招きに応えることは「自分の救いを達成すること」につながるのです。使徒パウロはそのように生きただけでなく、主にある者たちに対して、「私を見倣うように」と言っています。真の謙遜の回復は、神の栄光が現わされていく道です。


2013.8.29


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