****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第五の幻(金の燭台と2本のオリーブの木)


4. 第五の幻(金の燭台と2本のオリーブの木)

【聖書箇所】 4章1節~14節

ベレーシート

  • ゼカリヤの見た第五の幻の中にあるこの6節の「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」というみことばは、かつての私の愛唱聖句でした。ある方に頼んで和紙に書いてもらい、それを自分の部屋に長い間貼っていました。しかし「サムエル・ミニストリー」で行なっている「聖書を横に読む」のシリーズで、「ゼカリヤ書」を読み、ユダヤ的・ヘブル的視点からこの箇所を学ぶことで、私がそれまで理解していたこととは異なる内容であることが分かりました。もし「置換神学」の弊害について、話を聞く機会がなかったならば、私は未だにこの箇所の真の理解は得られなかったに違いありません。ゼカリヤの見た第五の幻の中にある6節のみことばー「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」ーは、まさに終末預言だったのです。つまり、このみことばはキリストの再臨によって実現する「千年王国」における神殿の再建、イスラエルの民の霊的な回復、エルサレムの再建の預言だったことを知らされました。霊の目が開かれず、神のご計画のマスタープランを知らずにいるということは、実は恐ろしいことなのです。
  • ところで、ゼカリヤ書における重要な特徴の一つは、ゼカリヤが自分に見せられた幻について、必ず、「主よ。これは何ですか。」と主に(あるいは御使いに)尋ねているということです。ゼカリヤ書4章だけに限って言うならば、4節で「主よ。これらは何ですか。」と尋ねています。その問いかけに対して、御使いが「あなたは、これらが何か知らないのか」と問い返し、ゼカリヤが「主よ。知りません」と言うと、その意味するところが知らされるというパターンが繰り返されています(11節と12節を参照)。この問答法はイェシュアもなされた教授法で、ユダヤ人たちはこの方法で神の教えを学んでいると言われます。「主よ。知りません。教えてください。」と問う謙虚さが、神の国における教育法なのです。

1. 金でできている一つの燭台と二本のオリーブの木

金の燭台と二本のオリーブの木.JPG
  • 「金でできている燭台」は「メノーラー」(מְנוֹרָה)と言い、モーセの幕屋、および神殿の聖所にはなくてはならないものでした。「メノーラー」については、
    ⇒こちらを参照こと ②こちらも参照のこと

    イスラエル国章.png

  • 上図(左上)は今日のイスラエルの国章となっていますが、この図はきわめて預言的です。というのは、この幻は意味するところはまだ実現されておらず、終わりの日において成就します。そして多くのユダヤ人がイェシュアをメシアとして信じるようになる幻です。
  • 金の燭台には二つの象徴的な意味があります。燭台のひとつはイスラエルを象徴しています。なぜなら、イスラエルは「諸国民の光」とされるからです(イザヤ62:1~2)。もうひとつはメシアを象徴しています。なぜなら、メシアも「異邦人の光」となるからです(イザヤ42:6/49:6)。

2. ゼルバベルに対する主のことば

第一の部分(6~7節)

  • 幻の意味を尋ねたゼカリヤが聞いた御使いの説明は、一見、幻の説明としては違和感があるように感じますが、決してそうではありません。御使いは順序立てて幻の真意を説明しようとしています。その第一の部分が6~10節です。しかもその部分は二つに分かれています(6~7節と8~10節)。
  • まず最初の部分である6~7節の部分を、今回は新改訳と岩波訳で読んでみたいと思います。

    新改訳改訂第3版】ゼカ 4章6~7節
    6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。
    7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

    【新改訳2017】ゼカ 4章6~7節
    6 彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力(「ハイル」חַיִל)によらず、能力(「コーアッハ」כֹּחַ)によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は言われる。
    7 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」

    岩波訳
    6 彼は答えて、私に言った、「これは、ゼルバベルに対するヤハウェの言葉で、『武力によらず、権力によらず、わが霊によってである』〔という意味だ〕。ー万軍のヤハウェは〔こう〕言われたー
    7 大いなる山よ。あなたは何者だ。ゼルバベルの前では〔単なる〕平地だ。彼は頭石を取り出すが、その石に対して、『すばらしい、すばらしい』という叫び声があがる」。


    ●「一つの金でできている燭台と二本のオリーブの木」について、これは神殿の再建とイスラエルの民の霊的回復に従事するゼルバベルに対して語ろうとしている幻だ、と御使いが語っています。

    ●イスラエルの国章が、燭台と二本のオリーブの木によってデザインされているように、それはイスラエル民族の回復を象徴しています。イスラエルは本来、全世界に神の栄光を輝かすために選ばれ、世界の中心に置かれた神の民です。つまり、神殿を再建する指導者ゼルバベルに対してこの幻が示そうとしていることは、神殿の再建がイスラエル民族の霊的な回復と密接な関係にあるということです。さらにもう一つ、それを実現に至らせるのは「武力によらず、権力によらず、わが霊によって」なされるということです。「神殿」の本質は、神と人(神の民)が出会う場所であり、神と人とが親しく交わることです。したがって、神殿を再建するというのは霊的イスラエルの回復をも意味するのです。それを可能とするのは人間的な力によってではなく、「わが霊」、すなわち「主の霊」による以外にはないということなのです。

    ●ここで「武力」と訳されている言葉は「ハイル」חַיִל)で、軍事力、集団的な力、経済力などを意味します。また「権力」と訳される言葉は「コーアッハ」כֹּחַ)は、個人的な力量、才能と解釈されます。いずれも、人間的な力が否定され、人間的な力によっては真の神殿を再建することは不可能であり、ただ「主の霊(「ルーアッハ」(רוּחַ)」によってのみ真の神殿は再建され、イスラエルの霊的回復もなされるのです。一切の人間的な画策によらず、また多くの議論を重ねることによってでもなく、ただただ主の霊によってのみ、真の神殿は再建され、イスラエルが霊的に回復するという意味なのです。

    ●「主の霊」は新約時代に注がれる「聖霊」のことですが、10節によれば、メシア的称号である「頭石」と密接な関係にあることが理解できます。「頭石」(「ハーエヴェン・ハーローシャー」הָאֶבֶן הָרֹאשָׁה)とは、工事の最後に建物をしっかりと組み合わせるための石で、要石(かなめいし)とも、親石(おやいし)とも呼ばれます。その頭石がなければすべてがしっかりと組み上がらない、建て上らない、そのようなきわめて重要な石のことです。

    ●ところで、その頭石に対して「すばらしい、すばらしい」と叫んでいるのはいったい誰なのでしょうか。口語訳と新改訳聖書では「ゼルバベル」が叫んでいるように訳されていますが、新共同訳と岩波訳では他の者が叫んでいるように訳しています。原文では、ここでの「叫び声」が名詞の「テシューアー」(תְּשׁוּאָה)の複数形「テシュオート」(תְּשֻׁאֹת)となっています。従って、複数の者たちがゼルバベルが運んでいる「頭石」(単数)に対して「すばらしい」(岩波訳)、「見事」(新共同訳)、「恵みあれ」(新改訳、口語訳)と叫び声を上げているのだと解釈できます。では、ここで叫び声をあげている者たちはいったいだれなのでしょうか。このヒントは10節にある「全地を行き巡る七つの目」(黙示5:6)です。ここにメシア的存在の「頭石」と「聖霊」との深いかかわりが示されていると考えられます。

    ●ちなみに、「恵みあれ」「すばらしい」「見事」と訳されているヘブル語は「ヘーン」(חֵן)で、「好意、恵み、魅力、優美、受け入れ」を意味する語彙です。それは、ユダヤ人が一度は拒絶したイェシュア・メシアを、やがて、彼らが自分たちにとってなくてはならない頭石(要石、親石)として、絶賛のうちに受け入れられるようになることを意味しています。そこには「人称なき存在」である聖霊が働いているのです。このことが12章10節につながります。

    ●ゼルバベルはユダ族の王家の血筋をもった指導者であり、メシアの家系の一人です。その彼が神殿の再建のために取り出した一つの頭石は、単に、彼が建てることになる第二神殿に使われるだけでなく、やがてこの世に遣わされる「イェシュア・メシア」という親石を預言していると考えられます。そのことが、再度、8~9節の第二の部分でも取り上げられます。

第二の部分(9~10節)

  • 確かに、ゼルバベルは霊によって奮い立たせられて、神殿を再建することになります。しかしそのこととやがて後に建てられる完全な神殿とが重ね合わせて語られています。それが第二の部分です。ここは新改訳で見てみます。

    新改訳改訂第3版 ゼカリヤ書4章9~10節
    9 「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の【主】が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。
    10 だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る【主】の目である。」


    ●9~10節は、直接的には、これから実際にゼルバベルが建て上げることになる第二神殿のことを指していますが、神のご計画はこれで終わっていません。預言はしばしば神のご計画の終わりの時点から語られています。このことはとても重要で、この視点から預言は語られているという構えをいつも持つ必要があります。

    ●ゼカリヤに神の預言が語られる4ヶ月前に、ハガイに語られた預言があります。そこにはゼルバベルと大祭司ヨシュアに対して語られた預言があります(ハガイ2:1~9)。つまり、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまたこの所に平和(完全なシャローム)を与える。」と語られています。

    ●「これから後の栄光は、先のものよりまさろう」という預言には深い意味があります。それは、これから建てようとする神殿の栄光は昔(第一神殿)にまさるということですが、同時にそれは、終わりの日にメシアをお迎えすることによって真の神殿の栄光はクライマックスに達することになるという意味します。しかし、その日はまだこれからのことです。とはいえ、ゼルバベルのしたことを小さなこととして蔑むことは誰であっても許されません。やがてイスラエルの民は、「ゼルバベルの手にある下げ振りを見て、喜ぼう」とあります(ゼカリヤ4:10)。原文では「下げ振りの石」となっており、それは測量用に使われる道具の一つです。この名詞の動詞の原語が「選び分かつ」と同じ形であるため、しばしば「下げ振りの石」を「選び抜かれた石」とも訳されます。この「石」は神のご計画を実現するメシアを表わしています。真の神殿にはこの「選び抜かれた」メシアをお迎えしなればならないのです。その意味において、ゼカリヤ書4章10節のみことばは、終末預言なのです。

    ●ゼルバベルが選び出した「頭石」それ自体は、とても小さく、それを頭石として用いることは小さなことのよう見えます。しかし、決して軽んじてはならないのです。なぜなら、神にとってそれは回復の始まりにすぎないからです。神はメシアによって真の神殿を建てようとしておられるのです。

    ●この小さな始まりを喜びをもって見ている者たちがいます。それが10節にある「これらの七つ(燭台の七つの枝)は全地を行き巡る主の目」です。この「全地を行き巡る主の目」とは、ゼカリヤ書3章9節にも「ひとつの石の上に七つの目があり」とあったように、それは聖霊を意味しています。ヨハネ黙示録5章6節にも「その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である」とありますから、そこと符合しています。そしてこの聖霊こそが、7節にある「親石に対して『すばらしい、すばらしい』と叫び声をあげている」正体だとも解釈できます。

    ●ゼルバベルが取り出した(運び出した)「石」はひとつの石にすぎませんが、それは決して小さなものではない、とんでもない力ある石で、聖霊はそれを喜ぶのです。したがって、その「石」が指示しているメシア(イェシュア・ハマシアッハ)が真の神殿を建て上げる要の石としていつも注視されなければならないのです。

    ●ヨハネの福音書2章後半(2:13~22)にはイェシュアが宮きよめをした出来事が記されています。イェシュアは宮(神殿)で商売をしている者たちに、「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われました。するとユダヤ人たちは「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのか」と質問します。そこでイェシュアはユダヤ人たちに「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と答えます。46年を要して建てられた神殿を、三日で建てると言ったイェシュアのことばに対して、ユダヤ人たちは後に神を冒涜することばと理解しました。しかし、イェシュアの言われた神殿とは、「イェシュアご自身のからだの神殿のことを言われたのである」とヨハネは伝えています。ところがユダヤ人は、真の神殿そのものであるイェシュア(メシア)を拒絶してしまったのです。


3. 二本のオリーブの木と枝が象徴していること

  • さて最後に、4章11~14節を見て行きましょう。

    11「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
    12「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
    13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
    14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」

  • ここで注目すべき点は、「全地の主のそばに立つ、ふたりの油注がれた者だ」と語られた存在についてです。多くの注解者は、この「ふたりの油注がれた者」のことを、当時の再建の指導者であったゼルバベルと大祭司ヨ他の解釈としては、ゼルバベルは油注がれた王なるメシア、大祭司ヨシュアは油注がれた大祭司メシアで、それらはイエス・キリストにおいて一つであるという解釈。この他に、主の証人として輝く特別な存在だという解釈もあります。いずれにしても、この二人についてはっきり言えることは、彼らが神の聖なる霊によって完全に支配された「神の管」であるということです。
  • ゼカリヤ書が全体にわたって終末の預言がなされていることを考えるならば、この解釈だけでは不十分です。終わりの日にかかわる「油注がれたふたりの存在」。しかも、このふたりの存在が真の神殿を完成させることと何らかのかかわりをもっていると考えるならば、この「ふたりの油注がれた者」は、終末に(ダニエルの七十週の最後の一週の前半に)突如として現われる「二人の証人」と解釈することができるのです(黙示録11:3~1)。
  • そこで、ヨハネの黙示録11章を開いてみることにします。

    新改訳改訂第3版 黙示録11章3~13節
    3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
    4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
    5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
    6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
    7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
    8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
    9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
    10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
    11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
    12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
    13 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。

  • 終わりの時に、神である主は、かたくななユダヤ人たちの心を開かせて、メシア・イエスを受け入れさせる準備をされるのです。そのために突如、油注がれた(神の力を賦与された)「ふたりの証人」が現われているのです。おそらく、モーセとエリヤのような預言者が現われ、罪を悔い改めて神に立ち返るように迫るものと思われます(マラキ3:1~14)。

画像の説明

  • この「ふたりの証人」の働きの期間は、文字通り、1260日です。これは42ヶ月(ひと月を30日で計算)、それは三年半に相当します。彼らの働きの帰還はダニエルの最後の一週(7日=7年)における前半に当たる期間です。彼らの働きを阻止しようとする者があれば、彼らはその者に対して容赦なく、神の超自然的な力によって死に至らせます。この「ふたりの証人」が預言している期間、彼らには雨が降らないように天を閉じる力も持っていました。また、あらゆる災害をもって思いのまま、地を打つ力が与えられていました。それはひとえに神の民であるイスラエルの民を救いに導くためでした。しかし、ユダヤ人のみならず、異邦人もこの「ふたりの証人」を拒絶します。
  • 7節、定められた三年半の間、彼らは神の完全な保護の下であかしの働きを全うしますが、時が来て「彼らがあかしを終えると」、今度は敵が彼らに打ち勝つことになります。「底知れぬ所から上ってくる獣」が彼らと戦って、彼らをいとも簡単に殺してしまいます。この獣こそ、竜(サタン)から権威を授けられた「反キリスト」です。そして殺された「ふたりの証人」の死体は、おそらく「主もその都で十字架につけられた」とあるので、エルサレムにさらされると考えられます。9節には「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、・・彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合。」とあるので、おそらく全世界中の人々が衛星中継によって彼らが死んだことを知り、そのことを喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う」ということが起こります。なぜなら、このふたりの預言者が数々の災いをもって、地に住む人々を苦しめたからです。彼らは「ふたりの証人」が死んだことで大喜びすると同時に、彼らを殺した反キリストのことをあたかも自分たちの救い主(メシア)のように歓迎するようになると考えられます。それほどにこの「ふたりの証人」の存在は、罪の生活を楽しんでいる人々にとっては迷惑千万な存在、うざい存在だったのです。
  • ところが喜んでいるのも束の間。11節「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた」のです。おそらくこのことも全世界に衛星中継されると考えられます。主イェシュアが死んで三日後に復活したように、「ふたりの証人」も三日後にもよみがえり、敵の目前で雲に乗って天へと引き上げられます。この「ふたりの証人」が天に上げられる際に大地震が起こります。この地震によって、エルサレムでは七千人の者が死にます。そこで「生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた」とあり、事態は全く逆転してしまいます。しかし、このことがユダヤ人の民族的回心につながるのです。これを見た反キリストも黙ってはいません。反撃に出るのは言うまでもありません。
  • 突如として現われた「ふたりの証人」は、神の民であるイスラエル(ユダヤ人)を救いに導くためであったのです。それは次の千年王国において、神の彼らに対する約束が成就した後に、真の神殿が再建され、そこに彼らを置くためです。これらのことはまだ歴史上には起こっていない将来の出来事ですが、想像もできないような神のドラマが展開していくのです。しかし信仰とはまだ起こっていないことを、あたかもすでに起こったかのように確信することです(ヘブル11:2)。そしてこうした信仰は称賛されるべき信仰なのです。

ベアハリート

  • ゼカリヤ書から、最後は一気にヨハネの黙示録にまで話が飛んでいきますが、それは聖書が時間を越えてつながっているからです。前にもふれましたが、預言は終わりの日の視点から語られているのです。その視点を踏まえて聖書を詳らかに読む必要があるのです。
  • 旧約の預言者ゼカリヤは、B.C.519年に(今から、約2500年前に)、終わりの時に起こることを幻によって見せられたのです。彼の見た預言は必ず成就します。私たちはこの世の終わりがどのようになっていくかを知ることで、自信をもって、より安心して主に従うことができるようになります。また、終わりの日のことを知ることによって、聖書は難しい書物ではありますが、封印がどんどん解かれて神のご計画の全体が見えてくるようになるのです。私たちがキリストの証人として自信をもって仕えていくためには、神のご計画の全体像を知ることがどうしても必要なのです。


2013.9.21


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