第四の幻(天の法廷に立つ大祭司ヨシュア)
3. 第四の幻 (天の法廷に立つ大祭司ヨシュア)
【聖書箇所】 3章1節~10節
ベレーシート
- 第四の幻は、天における法廷において、大祭司ヨシュアがサタンに告発され、主の御使いが弁護している情景です。
- この情景を描きながら新改訳聖書を読んでも、登場人物の人称が混乱しています。新共同訳聖書はそれを改善して筋が通るようにしています。人称の混乱は2章にも見られました。この3章の前半は新共同訳で見ていきます。
【新共同訳】
1 主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。
2 主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」
3 ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。
4 御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」
5 また、御使いは言った。「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた。
6 主の御使いはヨシュアに証言して言った。
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1. 不義を取り去られ、礼服を着させられた大祭司ヨシュア
- ゼカリヤが見聞きしたことばを一つひとつその意味するところを探って行きたいと思います。
(1) 「大祭司ヨシュア」(1節)
- 大祭司ヨシュアは捕囚から解放されて帰還した人々の指導者のひとりです。それゆえ、個人としてのヨシュアのみならず、イスラエルの民全体を代表する存在と言えます。個人としてのヨシュアが汚れているならば、その下になる民たちもきよめられて、神に近づくことができないからです。したがって大祭司は最もきよい存在でなけれはなりませんでした。バビロンでは神殿がないため、祭司として聖なる装束を着ることも、またその務めをすることもありませんでした。それゆえ、彼の祭司としての服は汚れていたはずです。これから神殿を建設しようとするときに、サタンはその神殿で大きな責任を与えられている大祭司を、律法の規定を基準に告発したものと考えられます。
(2) 「これは、火から取り出した燃えさしではないか」(2節)
- さて、主の御使いは告発された大祭司ヨシュアを弁護しはじめます。その言葉の中に「これは、火から取り出した燃えさしだ」というのはどうような意味なのでしょうか。それは、ヨシュア、および彼を代表とする神の民は、バビロン捕囚において、すでに神からの十分な愛の懲らしめを受けたことを意味しています。預言者イザヤも主の慰めを語り、「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けた」と(イザヤ40:2)呼びかけました。
- 主の側からすれば、神の民(ここではユダ)の咎は赦されたゆえに、サタンの訴える根拠がないことを弁護したことばなのです。
(3) 礼服を着せよう
- 咎が赦された者(ここでは大祭司ヨシュア)が主の務めを果たすために、汚れた服を脱がせ、それにふさわしい礼服(聖なる装束、式服)を着せようとします。さらに主の御使いは、彼に仕えている者たちに「彼の頭にきよいターバンをかぶらせよ」と命じます。
- 大祭司の聖なる装束の中で、頭にかぶるターバン(「ミツネフェット」מִצְנֶפֶת)は上等の亜麻布でできており、その前面には青ひもで金の平板が結び付けられました(出28:36‐39、レビ16:4)。その金の平板には「主への聖なるもの」(「カード―シュ・レアドナイ」קָדֹשׁ לְיהוה)と記されていました。従属の祭司たちの頭にかぶるものは別のヘブル語「ミグバーアー」(מִגְבָּעָה)が使われています。英語ではturban ではなく、headbandと訳されています。つまり、大祭司のターバンほど手の込んだものではなかったことを示しています。また,従属の祭司の頭包みには金の平板もありませんでした(レビ 8:13)。
- ところで、ここで主の御使いがヨシュアにかぶせようとしたターバンの原語は「ツァーニーフ」(צָנִיף)です。この語彙は旧約では4回しか使われていません(ヨブ29:14/イザヤ62:3/ゼカリヤ3:5, 5)。ヨブ記ではヨブが自分の公正をターバンにたとえて表現していますが、重要なのはイザヤが使っている用法です。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書 62章3節
あなたは【主】の手にある輝かしい冠となり、
あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。
「あなた」とはエルサレム(シオン)のことです。「主の手にある輝かしい冠」と「神の手にある王のかぶり物」とは同義です。メシア王国においては、エルサレムは主の手にある最も栄誉のある、最も価値のある、最も尊い冠であり、かつ、王のかぶり物となることがたたえられています。つまり、エルサレムは神にとって特別な存在となり、聖なる民、祭司の王国としての存在を回復することを意味しています。ゼカリヤ書の3章5節もそのことを指し示していると考えられます。そのためには、大祭司であるヨシュアは「主の道を歩み」、「主の戒めを守る」ことが不可欠となります。
2. メシアのしるしとなるべきヨシュアとその同僚
(1) 「しるしとなる人々」(8節)
- 主の御使いは大祭司ヨシュアに対して、彼とその同僚たちは、「しるしとなる人々だ」と言います(8節)。何のしるしかと言うならば、それは「メシア」のしるしです。メシア来臨のしるしです。つまり、大祭司ヨシュアとその同僚の祭司たちによる祭司職の回復は、人々を神の前に立たせる永遠の王である祭司(メシア)の到来のしるしとなるということです。
(2) わたしのしもべ、一つの若枝、ひとつの石(8~9節)
- 「わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。・・・見よ。わたしが・・・置いたひとつの石。」(8, 9節)とあるように、「わたしのしもべ」「一つの若枝」「石」は、すべてメシアの称号です。「わたしのしもべ」(イザヤ42:1~6/49:1~6/50:4~9/52:13~53:12)、「若枝」ー(イザヤ4:2/61:11、及びエレミヤ23:5/33:15、ゼカリヤ6:12は「ツェマハ」צֶמַח。イザヤ11:1/53:2等はは「ネーツェル」נֵצֶר。)
- 特に、「石」についての説明で、その石の上には「七つの目があり、それに彫り物を刻む」とあります。石に付随している「七つの目」は、ゼカリヤ書4章10節では「全地を行き巡る主の目である」とあります。おそらく、それは聖霊のことを意味します。また、その石に彫り刻まれるのは神の名前(יהוה)です。つまり、御父の存在を意味しています。「ひとつの石」と七つの目とそこに彫られるのはものは、御子、御霊、御父を啓示しているとも言えるかもしれません。その「石」は一日にして、「その国」、つまりエルサレムとそこに住む神の民の不義を取り除く力があると言われます。
(3) 「あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招きあう」
- このことばの意味は、以下の箇所を読めば分かります。
新改訳改訂第3版 Ⅰ列王記4章25節
ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまで、みな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して住むことができた。
●ユダとイスラエルはソロモンの治世の時までひとつでした。そのように、「その日には」(終わりの日には、メシアが来られる時には)、「あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招きあう」という、まさに全イスラエルが回復するという預言です。現代の時点では想像もできないようなことが、やがてこの地上でなされるのです。
- リレー競技が始まったならば、その途中で席を立ち去ることはないはずです。最後まで、そのリレーがどうなるのかを見定めようとするはずです。主にある者たちも、神の歴史と言う時間軸の中で始まっているリレーの行方をかたずを飲んで観戦したいものです。
2013.9.20
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