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箴言の標語と教訓(1)

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

2. 箴言の標語と教訓(1) 「罪人たちがあなたを惑わしても」

【聖書箇所】 1章7〜19節

ベレーシート

  • 1章7節は箴言全体の標語です。標語というものは常にそのことが意味することを考えていくためのもので、最初からその意味することを決めつけてしまってはならないものです。「主を恐れることは知識の初めである」という標語においても、「主を恐れる」とはどういうことか。「初めである」とはどういうことかを早急に定義せずにおくことです。なぜなら、たとえば「主を恐れる」という意味を、どこかの本に書いてあるように「神を仰ぎ、神を信じ、神を敬い、神に従うこと」だと枠づけてしまうことで、それ以上の意味を含めなくしてしまいかねません。特に重要な語彙やフレーズの場合には、振り子が振るその範囲を許容する必要があると言えます。
  • それはユダヤ人の教育法のようです。ヘブル語特有の修辞法に「パラレリズム」(並行法)があります。それはある表現を別のことばで言い換えて表現します。同義的なものもあれば、反意的なものもあり、さらに深めて説明する並行法もあります。そのような修辞法によって事柄の多様性を学ぶ訓練が身に着きます。語彙を変えることで、物の見方や考え方の切り口を変えて考える思考法を養うことができます。また、物事の本質を多角的に表現することにもなります。
トーラーの周辺語彙.JPG
  • ユダヤ人は歴史の中で経験した苦難を通して、神の教えである「トーラー」のすばらしさを多角的に表現するようになりました。みことば詩篇と言われる119篇はその見事な例で、「トーラー」を多様な語彙で表現しているのです。箴言も同様に見なすことがでます。「箴言」と訳された「ミシュレー」(מִשְׁלֵי)をリビングバイブルは「知恵の泉」としていますが、この表現はすばらしいと思います。なぜなら、そこには知恵の本質と多様性が表されているからです。
  • 「箴言」とは、「たとえ、比喩、なぞ」を意味する「マーシャール」(מָשָׁל)によって教育する教育法なのです。これが理解できなければ「物笑いの種」になります。逆に、それを理解するなら「支配する」「治める」者ともなるのです。なぜなら、動詞の「マーシャル」(מָשַׁל)には、「たとえを語る」「物笑いにする」「支配する、治める」という意味があるからです。

1. 「主を恐れること」は知識の初め

  • この標語について考えてみたいと思います。「主を恐れること」は「イルアット・アドナイ」(יִרְאַת יהוה)です。新共同訳は主を尊敬する意味の「畏敬」の「畏」の漢字を使用することで、「主を畏れること」と訳しています。しかしヘブル語の「ヤーレー」(יָרֵא)には「恐れる」という意味もあり、神を尊ぶことをしない者にとっては神は「恐るべき」方ともなるのです。訳語としてどうしても一つを選ばなれければならないという制約がありますが、一方だけの意味を強調せずに、常に原語の「ヤーレー」(יָרֵא)のニュアンスで理解する必要があります。そうでないと、「恐れ」という語感のイメージで神を理解してしまうことになります。
  • 「主を恐れることは知識の初め」とありますが、なぜ、「知恵」でなく「知識」なのでしょうか。原語は「ダーアット」(דָּעַת)が使われているので、訳語としては「知識」です。ところが、これを新共同訳は「知恵」と訳しているのです。普通「知恵」の原語は「ホフマー」(חָכְמָה)です。にもかかわらず、新共同訳はなぜ「ダーアット」(דָּעַת)を「知恵」と訳しているのでしょうか。なぞです。「知恵」と「知識」は同じ意味なのでしょうか。
  • そこで、「主を恐れる(畏れる)こと」というフレーズを調べてみると、1章7節の他に、以下のように2回(9:10/15:33)使われています。

    (1) 9章10節
    「主を恐れることは知恵の初め。」


    ●「主を恐れること」は「イルアット・アドナイ」(יִרְאַת יהוה)で、1章7節と全く同じフレーズです。ところが、ここでの「知恵」と訳されたのは「ホフマー」(חָכְמָה)です。ところが、「初め」と訳された原語は1章7節の「初め」(「レーシート」רֵאשֽׁית)とは異なり、「テヒッラート」(תְּחִלָּת)という語彙が使われているのです。「テヒッラート」は旧約で23回使われていますが、箴言ではここ(9:10)一回だけです。「レーシート」は「物事の原初、出発点、前提」的な意味で、「テヒッラート」は「時間的な始まり」のことかと思いきや、調べてみるとそうでもないのです。この一筋縄ではいかない柔軟性、これがヘブル語の中にあるということです。


    (2) 15章33節
    「主を恐れることは知恵の訓戒である。」


    ●ここでは「イルアット・アドナイ」が「知恵の訓戒である」とあります。「知恵」は「ホフマー」ですが、「訓戒」は「ムーサール」(מוּסָר)で、「教育」とも訳せます。すでに箴言1章2節には「これ(箴言)は、知恵と訓戒(מוּסָר)を学ぶため」とありますが、15章33節では「訓戒」が「知恵」の連語形となっていて、「知恵の訓戒」とあります。いわば「知恵の教育」という意味です。新共同訳では「諭しと知恵」となっていて、それぞれが別々の事柄として並記された形に訳されています。しかしここでは新改訳のように「知恵の訓戒」と理解したいと思います。つまり、「主を恐れること」=「知恵の教育」 だということです。「知恵を身に着けさせる教育」こそ「主を恐れること」なのだという理解です。

    ●このような作業を通して、「主を恐れること」の意味を聖書を通して見出していく、これがユダヤ人たちの教育法であったことを教えられます。主にある次世代の者たちに対して、親が上から一方的に教えるのではなく、箴言の書の中でなされているように「答えを自ら考えて、それを見出すという学習法」を啓発し、かつ育成していく必要があると考えます。


2. 「教育レッスン」、そのはじめは「シェマ」(8~19節)

  • 箴言における最初の教育レッスンが8~19節に記されています。最初のレッスンのポイントは、8節と10節と15節にある「わが子よ」で始まっている内容で、それ自体がパラレリズムになっています。まず、そのポイントを並記してみましょう。

【新改訳改訂第3版】箴言1章8節、10節、15節
8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。
あなたの母の教えを捨ててはならない。

10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。

15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。


シェマ・ベニー.JPG

●最初に登場する「わが子」(日本訳の聖書はみな「わが子よ」で始まっていますが、原文の8節では「シェマ・ベニー」(שְׁמַע בְּנִי)です。より規模が大きくなると「シェマ・イスラエル」(שְׁמַע יִשְׂרָאֵל)となります(申命記6:4)。

●8節の前半は「~せよ」という命令ですが、8節の後半は「~してはならない」という禁止命令〔אַל+未完了形〕です。10節と15節も「~してはならない」という禁止命令です。いずれにしても「聞き従う」ことが重要なのですが、これが実は難しいのです。子にとっても最も難しいのです。「教訓1」では、父と母に対する従順を教えると同時に、罪人たちには従ってはならないことを教えています。最初の教訓は、両親(父と母)から聞く教えに対して従順であることです。家庭教育の重要性が語られています。家庭においても、国においても、最初の教訓は「シェマ」なのです。

●「彼ら」とは「罪人たち」のことです。ここでの「罪人たち」(複数)は「ハッターイーム」(חַטָּאִים)です。この「罪人たち」は、19節では「利得をむさぼる者」(=不当な利益を求める者)と言い換えられています。

●父の子に対する教えとして「父の訓戒に聞き従うこと」「母の教えを捨ててはならないこと」を、両親が子に対する教育の責任の重要性を自覚しながら訴えています。子が両親の教えに従順であることに対して、麗しい「冠」と「首飾り」が与えられることを教えています。つまり、命令と約束が結びつけられているのです。これはイェシュアのした教育法でもありました。「~しなさい(~しつづけなさい)。そうすれば(必ず)・・となる」「・・~しつづけてはならない。必ず・・〜になるから」と。

●父の子に対する教育法には「命令」と「約束」だけでなく、その命令が意味する「理由」と「結果」も語られています。ここでは、「なぜ、彼らがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならないのか。彼らといっしょに歩いてはならないのか」ということについて明確に教えているのです。そこには「惑わし」があるからです。

●また父は子に、彼らに惑わされないように、その惑わしの手口(つまり、口説きのテクニック)さえも具体的に教えています。そして彼らの末路を以下のように結論づけているのです。

①「徒労に終わること」(17節)
罪人たちのすることは徒労に終わるということを、「鳥がみな見ているところで、網をはっても、むだなことだ」と表現しています。なんともユーモラスな表現です。こうした表現で、罪人たちの愚かさを子の心に焼きつけています。

②「自分のいのちを失うこと」(19節)
不当な形で利益を得ようとする者の末路は、自分のいのちを失うことになることを意味しています。「墓穴を掘る」「自業自得」は普遍の真理であり、箴言22章8節にも「不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。」とあります。

  • 1章7節にあるように、父は子に「主を恐れる者」と「愚か者」の相違を明確に教えることによって、子がやがて自ら「主を恐れること」を選び取って行けるような教育を施そうとしているのです。このように、箴言における教育は、「家庭教育」からはじまっているのです。

2015.10.20


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