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罪を赦す権威を与えられたイェシュア

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32. 罪を赦す権威を与えられたイェシュア

【聖書箇所】マタイの福音書9章1~8節

ベレーシート

  • マタイ8章では様々な病の癒やしがなされましたが、そうした病の癒やしが「罪の赦し」と関係があることが、続く9章で取り扱われています。これまでも「赦し」というテーマは、すでに山上の説教の「主の祈り」に関連する箇所で以下のように語られています。

【新改訳2017】マタイ 6:12
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
【新改訳2017】マタイ 6:14 ~15
14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

  • 御国において「赦し」はきわめて重要なテーマなのですが、イェシュアが個人的な罪の赦しを宣言されたのは、マタイの福音書において9章2節が初めてです。罪が赦されるということは、神と人との関係において最も重要なことです。イェシュアが来られたのはこの問題を解決するためであったと言えるでしょう。マタイの1章21節にイェシュアの名前の由来が「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」とあります。そのことによって、イェシュアのもう一つの名前である「神が人と共におられる」という意味の「インマヌエル」が実現するのです。そうした意味において、マタイ9章にある病のいやしと罪の赦しの関係が新たな展開を見せています。マタイの常套句である9章2節の「すると見よ」(「ヴェ・ヒンネー」הִנֵּה)も、そうした意味において重要な局面を描いています。まずは、今日の聖書箇所を読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書9章1~8節
1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒涜(ぼうとく)している」と言った。
4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。
5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
6 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
7 すると彼は起き上がり、家に帰った。
8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。


1. 「彼らの信仰を見て」とは

  • 1節でイェシュアと弟子たちの一行は、「向こう岸」から再び「こちら側」へ、すなわち「自分の町」(カペナウム)に戻っています。それはイスラエルの人々に対する働きです。イェシュアはそこで宣教をなされ、多くの人々に御国の福音を語っておられました。「すると見よ」です。その場に「人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た」のです。
  • 「中風の人」(אִישׁ נְכֵה אֵבָרִים)・「イーシュ・ネヘー・エーヴァーリーム」。これで「手足が麻痺した人」「手足が不自由な人」という意味になります。実際は、脳に障害を持ったがゆえに、手足が不自由になった人です。障害が手足ではなく、目だったとすれば「盲目の人」、心であっとすれば「心の砕かれた人」ということになります。罪と病とは無関係ではありませんが、そうでない場合もあります。たとえば、ヨハネの福音書9章で、生まれつきの盲人に対して弟子たちが、「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と尋ねています。それに対するイェシュアの答えはこうでした。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(新改訳2017)と言われています。実際は目が見えていると思っている人に罪があったのです。しかしマタイの9章に出て来る中風の人は、罪と何らかのかかわりがあったと言えます。なぜなら、「あなたの罪は赦されたと」と宣言されているからです。
  • 現代においていつも人が溢れている場所は病院です。イェシュアの時代にも多くの病人がおり、そうした者たちがイェシュアのもとに来、あるいは連れて来られたのです。しかしやがてイェシュアが支配するメシア王国ではだれひとりとして病気の者はおりません。「中風の人」もその一人です。「天の御国が近づいた」、すわなち「天の御国がここにある」ことをデモンストレーションするための出来事として記されています。その引き金となったのが、「彼らの信仰を見て」ということばです。
  • そこで、「彼らの信仰を見て」(9:2)とはどういうことでしょうか。「彼らの信仰」とはいったいどのような信仰だったのでしょうか。「彼ら」とは「中風の人をイェシュアのもとに運んで来た人たち」のことです。これは共観福音書の平行記事の情報を知ることによってより理解することができます。マタイでの「彼ら」とは、中風の人を「床に寝かせたまま、みもとに運んで来た人たち」ということしか分かりません。しかしマルコは「群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした」(2:4)とあります。ルカもマルコと同じことを記していますが、ルカのその行為の動機をより強調しています。つまりイェシュアの御前に置こうとした点を強調しています。新改訳2版では「何とかして」(5:18)という言葉です。原文にはこの「何とかして」(18節)と訳された「ゼーテオー」(ζητεω)があります。それは必死になって探し求めることを意味することばです。イェシュアの言葉に「捜し続けなさい。そうすれば(必ず)見つかります。」がありますが、「搜す、尋ね求める、熱心に求める」のが「ゼーテオー」(ζητεω)です。そうした「熱心さ」が屋根の瓦をはがして、中風の寝床をイエスの前につり降ろすという行為となりました。イェシュアはそうした「彼らの信仰を見て」、中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』(正確には「すでに赦されています」という現在完了形受動態が使われています)と言われたのです。このつながりは一体何でしょうか。つまり「彼らの信仰を見た」ことと、「あなたの罪が赦された」こととにどんなつながりがあるのでしょうか。
  • 実は、「彼らの信仰」の行為の中に、イェシュアご自身の行為が重ね合わされているということです。かつて、中風やみのしもべのためにイェシュアのもとに来た百人隊長の「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」という言葉の中に、「このような信仰を見たことがありません」と称賛した「百人隊長の信仰」にもみられます。その信仰とはイェシュア自身が御父のみことばの権威に対するものと同じ信仰を、百人隊長の信仰に見たからにほかなりません。同様に、中風の人をイェシュアのもとに連れて来た「彼らの信仰」の中にも、イェシュアと同じ信仰を見たからですそれはどういうことかと言うと、8章17節にあることばにヒントがあります。

【新改訳2017】マタイの福音書8章17節
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」・・(ここでの「彼」とはメシア・シェシュアのことです)

  • ここにある預言者イザヤの預言は53章4節からの引用です。

    画像の説明

【新改訳2017】 Isa 53:4
「まことに、彼は私たちの病を負い(נָשָׂא)、
私たちの痛みを担った(סָבַל)。」

  • ここで「彼」とは「主のしもべ」であるイェシュアのことを意味していますが、「主のしもべ」は人々の病を負い(「ナーサー」נָשָׂא)、痛みを担う(「サーヴァル」סָבַל)存在だということです。「負う」も「担う」も同義です。この二つの語彙はイザヤ書46章4節にも見られます。

【新改訳2017】イザヤ書 46章4節
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う(סָבַל)。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ(נָשָׂא)。背負って(סָבַל)救い出す。

  • マタイ(およびマルコとルカ)にある「彼らの信仰を見て」とは、イェシュアこそ「私たちの病を代りに負い、背負い、担い、背負うこと」を重ねて指し示す行為であり、これが「赦し」(נָשָׂא)につながっていると考えられます。特に、「ナーサー」(נָשָׂא)は、本来「上げる、運ぶ」という意味で「(手を、目を、頭を、声を、心を)上げるという意味で使われますが、神が人の罪の重荷を負い、運び去るという意味で「赦す」と訳されています。まさに中風の人を運んだ「彼らの信仰」の行為の中に、イェシュアよる「赦し」の宣言を引き出していると言えます。

2. 「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。

  • 「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」にある、前半の言葉「子よ、しっかりしなさい。」という言葉に注目してみましょう。「子よ」の「子」とはギリシア語では「テクノン」(τέκνον)が使われています。このことから「中風の人」というのは子どもであったとする解釈がありますが、ヘブル訳は「ベニー」(בְּנִי)で、「わたしの子よ」という意味です。愛すべき呼称で、親しい愛情を込めた呼び名となっています。
  • また「しっかりしなさい」と訳された言葉は、ギリシア語の「サルセオー」(θαρσέω)の命令形が使われていますが、これをヘブル語にすると「強くあれ」(「ハーザク」חָזַקの命令形)、「恐れるな」(「アル・テーレー」אַל־תִּירָא)が使われます。その背景には「わたしだ。恐れることはない」というイェシュアの臨在の約束があります。
  • その呼びかけと後半には、「あなたの罪は赦された」とあります。「赦された」というギリシア語は「アフィエーミ」(ἀφίημι)の現在完了形受動態で「赦されています」です。ギリシア語で「赦す」という場合、ほとんどがこの「アフィエーミ」(ἀφίημι)が使われます。しかしそれに相当するヘブル語は決して一つではなく、いくつかの語彙が含まれます。文脈を考えるならば「ナーサー」(נָשָׂא)がとても自然ですが、メシアニック・ジューの聖書によれば、その箇所の「赦された」という語彙を「サーラハ」(סָלַח)と訳しています。この「サーラハ」(סָלַח)は神にしか使われない動詞で、完全な「赦し」を意味します。しかもその形容詞である「サッラーハ」(סַלָּח)は「赦しに富む」とか「喜んで赦す」という意味になります。しかもそれは神の民イスラエルに対する終末的赦(しゃ)罪(ざい)を意味する語彙でもあります。
  • 聖書をみると、以下のみことばにある「耐え忍ぶ」ことと「赦す」ことが同義として使われています。

【新改訳2017】民数記14章19~20節
19 この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださった(נָשָׂא)ように、どうかこの民の咎をあなたの大きな
恵みによって赦してください(סָלַח)。」
20 【主】は言われた。「あなたのことばどおりに、わたしは赦す(סָלַח)。」

  • つまり、「赦す」ということは容易なことではなく、耐えがたきことを耐え忍んでくだったことが含まれているのです。このクライマックスこそ、主のしもべであるイェシュアの十字架による苦しみなのです。

【新改訳2017】イザヤ書53章10~11節
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う(סָבַל)。

画像の説明
  • ギリシア語で「赦す」ということばは「アフィエーミ」(ἀφίημι)であっても、ヘブル語ではいろいろな含みのある語彙が使われているということです。ヘブル語が他の言語に翻訳されるときの法則があって、この図の逆になっている場合もあれば、一つのヘブル語にひとつのギリシア語と言う場合もあります。そのあたりの勉強は地道にやっていくしかありません。

3. 律法学者たちとの軋轢の始まり

  • イェシュアが「中風の人」に宣言された「あなたの罪は赦された」という言葉は、そこにいた律法学者たちに最初の軋轢(あつれき)を生じさせました。

3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒涜(ぼうとく)している」と言った。
4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。
5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

  • 3節にも律法学者たちが心の中で「この人は神を冒涜(ぼうとく)している」ということに、イェシュアは「悪いことを考えている」と批判しています。この3節も原文では常套句の「すると見よ」となっています。律法学者たちにとって、イェシュアの罪の赦しの宣言は聞き捨てできないものでした。「神を冒涜している」とはヘブル語の「ガーダフ」(גָּדַף)の分詞で、気づかずに罪を犯してしまった者ではなく、あえて故意に罪を犯す者であって、こうした者はだれであっても自分の民の間から断ち切られるにふさわしい者とみなされました。これはある意味におい正しいことでした。罪を赦すことのできる方は神のみであり、たとえメシア(預言者、大祭司、王)だとしても、それはできないことだとされていたのです。しかしイェシュアが神あるならばそうした思いは成り立ちません。ただ、律法学者たちは公然と非難したのではなく、「心の中で」言ったのですが、そうした思いはやがて、イェシュアが罪人たちと交わり、安息日を守らないということから、公然の非難となって爆発していくのです。
  • イェシュアは軋轢を生じさせる律法学者たちに対して、5節「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と尋ねます。あなたなら、この質問に対してどちらか易しいでしょうか。単に言葉だけなら、『あなたの罪は赦された』と言うほうが易しいでしょう。むしろ『起きて歩け』と言うのは、実際にいやす力をもっていなければできないことです。そこでイェシュアは6節で「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。』そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。」とあります。

4. 「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」

  • この出来事によって病のいやしが罪の赦しに基づくものであり、イェシュアこそ、神にしかできない「罪の赦しの権威」を持っているということを宣言されたのです。しかもその「罪の赦し」はやがてくる終わりの日だけでなく、イェシュアによって、今ここに、すでに始まっているのです。今、すでに赦されている、そのように確信して生きることができるように、中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われたのでした。原文では「あなたは起きて、自分の寝床を担ぎ、あなたの家に帰りなさい」となっています。
  • この「起きて」という言葉は、ギリシア語の「エゲイロー」(ἐγείρω)の命令形で、いわば復活用語です。ヘブル語では「クーム」(קוּם)に相当します。英語ではAriseとなります。「自分の寝床」とは中風の人がそれまで生きてきた生活の象徴を意味します。それを「担ぎなさい」(「ナーサー」נָשָׂא)、つまり罪を赦された者として生きる事を意味します。そして、「あなたの家に帰り(行き)なさい」とイェシュアは命じています。この最後の言葉をヘブル語にするとなんともすばらしいのです。それは、「レフ・レハー、エル・ヴェーテハー」

    画像の説明

  • 聖書での「レフ・レハー」(לֶךְ־לְךָ)は、アブラハムに神が「わたしの示す地に行きなさい」と言われた時(創世記12:1)と、アブラハムの生涯の最大の試練となるべく「モリヤの地へ行きなさい」と言われた時(同、22:2)のです。そしていずれもアブラハムは神の「声に聞き従った」のでした。今回の「中風の人」の場合は、「あなたの家に行きなさい」です。むしかしここでは単に、あなたが住んでいた家という意味ではなく、「あなたの家」とは「あなたが今いるべきところ」、すなわち「天の御国に向かって歩いて行きなさい。」という意味だと考えます。しかも、自覚的に、自発的に、主体的に「罪赦された者として行きなさい」(「レフ・レハー」לֶךְ־לְךָ」)。これが罪赦された者に対するイェシュアの新しい召しなのではないでしょうか。私たちもイェシュアから罪赦されて、どこへ向かって「レフ・レハー」するのかを神に聞かなければなりません。

ベアハリート

【新改訳改訂第3版】詩32篇1, 5節
1 幸いなことよ。そのそむきを赦され(נָשָׂא)、罪をおおわれた(כָּסָה)人は。
5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠し(כָּסָה)ませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました(נָשָׂא)。セラ

  • 詩篇の中で、個人的に神の赦しを経験してそれを語っているのはダビデだけです。この詩篇は多くの人々に影響を与えました。まずパウロがこの詩篇をローマ人への手紙(4:7)で引用していますし、キリスト教神学の基礎を築いたアウグスチヌスや宗教改革の火付け役となったマルチン・ルターもこの詩篇から多くの影響を受けました。神から罪を赦されるという経験は、人に全く新しい生き方をもたらします。それは、愛による自発性です。詩篇32篇10節に「恵みが、その人を取り囲む」という表現も味わい深いものがあります。恵みとは神の変わることのない愛です。敵意が人を取り囲むと人はとげとげしくなり、疑い深くなります。しかし恵みが取り囲むならない、他の人に対してもっと優しくなり、人の罪を赦し、人を愛するようになります。
  • 「おおわれた」と訳された「カーサー」(כָּסָה)という動詞は「覆い隠す」という意味ですが、これも「赦す」(「ナーサー」נָשָׂא)という動詞の類語です。何を「覆い隠す」のかといえば、それは人の「そむき」(「ペシャ」פֶּשַׁע)、「罪」(「ハッター」חַטָּא)、「咎」(「アーヴォーン」עָוֹן)に対してです。つまり、人間が犯したすべての罪を神ご自身が覆ってくださるのです。
  • 親鳥が火事で焼け死んだ話があります。しかしその死んだ親鳥のお腹には生まれた雛がいて死を免れて助かりました。同様に、イェシュアの十字架の死は、私たちの受けるべき罪の刑罰から覆い隠されたことを意味しています。身がわりの十字架です。神が人の罪を覆い隠すとき、それは赦し(愛)につながります。ですから、三度も主を否定したにもかかわらず、その罪を赦された使徒ペテロが、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおう(כָּסָה)からです。」と述べています(Ⅰペテロ4:8)。また、同じく使徒ヤコブも「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう(כָּסָה)のだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ5:20)とも述べています。
  • イェシュアは、今朝、あなたに対しても、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言ってくださっています。それは神が私にしてくだった最大の愛を信じるだけでなく、その愛を自分だけでなく、「起き上って」(復活した者として)、人の多くの罪をおおう愛を持って生きる、そんな歩みをするようにと求められているのではないでしょうか。これこそ天の御国に生きる者の姿なのです。天の御国はイェシュアが教えているように、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」という、まさに「罪を赦された幸い」に生きる現実の世界なのです。私たちがその世界のひとりとして、神の前に、そして人の前に生きる者となることを願いたいと思います。

2018.6.17


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