****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

義人は信仰によって生きる②エノク

第16日 「神とともに歩んだエノク」 

信仰によって生きた模範者たち②

はじめに

  • へブル人への手紙の講解説教、前回は「義人は信仰によって生きる」というメッセージをいたしました。「義人」を「美人」と聞き違えても結構です。本当に美しい人は、神を信じて、神と共に生きる人だからです。「義人は信仰によって生きる」、「美人も信仰によって生きる」ということを心に留めたいと思います。
  • さて、今朝は、「義人は信仰によって生きる」その第二弾です。とりわけ、旧約聖書の人物、エノクを取り上げますが、その前に、「信仰によって生きる」という「信仰」とは何か。へブル人への手紙11章1節には、その信仰の定義が記されています。まずそこから見ていきたいと思います。ただし、この信仰の定義は、へブル書のいう定義です、パウロならば、「信仰とは、神が遣わされた御子イエス・キリストを信じる信仰」と定義するでしょう。しかし、へブル人への手紙の信仰の定義はまた違った意味で定義されているのです。

1. ダイナミックなへブル的信仰の定義

信仰の定義
  • ここに同じ言葉で訳されている「望んでいる事柄」とは、いったい何でしょうか。私たちがそれぞれ自分勝手に思い望んでいることでしょうか。「こうしたい、あれしたい、これがほしい、あれがほしい、こうであったらいいのに」という類のことでしょうか。これが信仰の定義だとは到底思いません。それは信仰ではなく、利己的な願望です。
  • では、ここでいう「望んでいる事柄」とはどんな意味でしょう。実は、ヒントは11章1節に記されているのです。この手紙はへブル人(ユダヤ人のこと)である著者が、クリスチャンになったユダヤ人(へブル人)に宛てた手紙です。ユダヤ人たちのある特異な表現方法というものがあります。詩篇でもそうなのですが、同じ内容のことを、別な言葉で表現し直す「同義的並行法」という叙述方法があります。たとえば、詩篇15篇1節に次のような表現があります。
    画像の説明
  • 「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」この場合、「あなたの幕屋に宿る」ことと、「あなたの聖なる山に住む」ことは同義なのです。
  • へブル人の手紙11章1節も実は同様に理解することができます。もう一度見てみましょう。
    「信仰とは、望んでいる事がらを保証する(確信させ)るもの」
    「信仰とは、目に見えないもの(事実)を確信(確認)させるもの」
    つまり、「望んでいる事柄」= 「目に見えないもの」とは同義です。「保証するもの」= 「確信させるもの」も同義です。
  • 「望んでいる事柄」と「目に見えないもの」とが同義であるならば、それは「天にあるもの」、あるいは「永遠の事柄」ということになります。私たちの望んでいる事柄は大方「目に見えるもの」ではないでしょうか。使徒パウロは言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見える者は一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4章18節)
  • ヘブル人の手紙の作者も「目に見えない永遠の事柄」を保証し、確信させる、それが信仰だと定義しているのです。さらに、この永遠の事柄については、11章6節にもその説明がついています。
    「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、 神がおられることと、神を求める者に は報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
    (ⅰ) 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
    (ⅱ) 神に近づく者は、神がおられることと
    (ⅲ) 神を求める者には報いてくださる方であること
                    -信じなければならない
  • この6節の説明の中で、「永遠の事柄」とは以下の二つです。
    (1)神がおられるという事実
    (2)神を求める(・・・)者には(必ず)報いてくださるという事実
    ―この二つの事実を永遠に変わらない事柄だと信じなければならないことが挙げられています。信仰とは、まさに、この「永遠の事実」、つまり、神がおられること、神を求める者には報いてくださるということ、この二つを確信させて自分のものとして生きることを意味しています。
  • 「神に近づく者」と「神を求める者」という表現も実は同義的並行法です。いずれも非常に積極的な神とのかかわりを述べている表現です。へブル書のいう神に喜ばれる信仰者とは、「神に近づく者」「神を求める者」を言っているのです。
  • そのような信仰、つまり、永遠の事柄を確信して、かつ積極的に、神に近づき、神を求めた者たちの名前が、へブル書11章に挙げられています。そこにはアベル、エノク、ノア、アブラハム、その妻サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、遊女ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者たち など。

2. 神とともに歩んだエノクの生涯とそれが意味するもの

(1) 「神とともに歩む」という動的、かつ主体的な、自覚的信仰

  • ユダヤ人(ヘブライ人)の考える「信仰」とは、実に「動的」な捉え方(思惟)です。これはギリシャ人の知的な概念とは全く質を異にします。信仰とは、永遠の事柄を確信して、かつ積極的に、神に近づき、神を求めることを意味します。この視点から、一人の信仰の勇者エノクという人物を取り上げていきます。
  • エノクについて記されている11章5節を見てみましょう。
    「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」
  • ここでは、なにやら、エノクという人は普通の人とは違って、死を見ることがないように、神に移されたということが記されています。つまり、人間ならばだれもが通る死を通過しないで、神の御許に召し去られたのですが、今は、そのことはちょっと横に置いておいて、エノクが「神に喜ばれていることが、あかしされていた」というところに注目したいと思います。これはどういう意味でしょう。他の聖書でもその箇所を見ておきたいと思います。
  • (新共同訳) 「神に喜ばれていたことが証明されていた。」
    (L.B訳) 「神様はご自分がどんなにエノクを大切に思っているかを前々から告げておられました。」
  • 彼は神に喜ばれていることが、(多くの人々に)あかしされていましたが、なぜ、エノクは「神に喜ばれていた」のでしょうか。そのヒントは創世記5章21~24節にあります。そこを開いて見てみましょう。

    21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
    22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。
    そして、息子、娘たちを生んだ。
    23 エノクの一生は三百六十五年であった。
    24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

  • 以上の聖書の箇所で特徴的な表現があるのにお気づきでしょうか。それは「エノクは神とともに歩んだ」という表現です。「神とともに歩んだ」、これが神を喜ばせた本当の理由です。今朝は、この神を喜ばせた「神とともに歩む」という生き方がどういう生き方なのかを心に留め、この一週間、瞑想し続けることが今朝のメッセージの中心です。
  • 「だれが、だれと歩むのか」・・聖書では二つのパターンが見られます。 
    パターンA・・・「主が、彼(固有名詞)とともに」
    パターンB・・・「彼が、主(神)とともに」
  • 何が違うかと言えば、それは主語が違うということです。主語が違うことは大きな問題です。
  • パターンAは、聖書の中では数の点でいうならば、パターンBと比べてだんとつに多いのです。

    パターンAの例として
    (例 1)
    主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。(創世記39:2, 3)
    (例 2)
    主はその夜、彼(イサク)に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。 恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。」(創世記26:24)
    (例 3)
    見よ。神が私たちとともにおられる。(「インマヌエル」の意味、マタイ1:18)

    他にも、詩篇46篇にあるように「万軍の主はわれらとともにおられる。」というのがあります。それは神の恵みとしてある祝福です。時には、その人が意識しても、しなくてもある神の恵みです。

パターンBの場合


(例 1) (創世記5:22, 24)
エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。・・エノクは神とともに歩んだ。
神が彼をとられたので、彼はいなくなった。         


(例 2) (創世記6:9)
ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。         

  • 実は、このパターンはきわめて少ないのです。旧約ではエノクとノアにのみある表現です。新約では1箇所、パウロが「私たちは神とともに働く」という表現がコリント書に出てきます。しかし、彼らが「神とともにいる」ではなく、「彼らが、神とともに歩んだ、働いた」と書かれています。

(例3) 新約の特別編として、ヨハネの福音書の冒頭に、ことばは神とともにあった。この方は、初めに神とともにおられた。(ヨハネの福音書1:1,2) というのがあります。「ことば」とは御子イエスのことです。ただこの場合には、「ともにある」ことの原初的・かつ永遠のかかわり方を表わす特別な表現として使われています。エノクやノアが神とともに歩んだということを正しく理解するためには、神の御子イエスがどのように御父と歩んだかを学び続けなければなりません。学ぶと言っても頭の中での学びではなく、生き方(ライフスタイル)としてです。それは「イエスのくびきをともに負うことによって」です。それを私たちは学ばなければなりません。

  • 旧約聖書の預言書にミカ書というのがありますが、その書には次のようなことばが記されています。
    主はあなたに告げられた。 人よ。何が良いことなのか。 主は何をあなたに求めておられるのか。 それは、・・・あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ 6:8 )
  • 神が私たちとともにおられることは神の祝福としてあるのですが、ここでは、むしろ、人が神とともに歩むことが強調されています。
  • エノク、ノアの場合、「神がエノクやノアとともに歩んだ」のではなく、むしろ、「エノクやノアが神とともに歩んだ」 です。この違いはなんでしょう。それは、信仰の「主体的、自覚的」なあり方が問題視されているということです。
  • ドイツといえば、宗教改革者のマルチン・ルター、教会音楽家のヨハン・セバスチアン・バッハなどが輩出した国です。福音的教会の伝統ある国ですが、第二次世界大戦頃には全く信仰のある国とは言えない状態になってしまいました。生きたクリスチャンが少ない国となったのです。その原因をナチス時代にそれに対抗した有名な牧師にボンフェッファーがおりますが、その人はこう言っています。ドイツの人々が神とともに歩むということをしなくなったからだと述べています。このことばは今もなお現代の教会に対する信仰の危機の警鐘ではないでしょうか。「神とともに歩む」(原文の歩むは、歩きまわるという変化形です。普通に歩むのではなく、より意識的、自覚的なイメージです)
  • 話を元に戻して、エノクが神とともに歩んだことをもう少し詳しく見てみましょう。「創世記5章21~24節」

    21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
    22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
    23 エノクの一生は三百六十五年であった。
    24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

(2) エノクの生涯の転機

  • エノクが65歳のとき、息子メトシェラの誕生が彼の人生を変える神のチャンスとなりました。最初の子メトシェラが生まれた時から「彼は神とともに歩む」生涯がはじまった。ということは、それまでの65年間は「神とともに歩む」ことを知らなかった人生であった。
  • メトシェラという息子の名前は、「メト」は死や死者を意味します。「シェラ」は「シャーラッハ」で「送る」という意味。つまり、「メトシェラ」とは、「彼の死後に送られる」という意味です。そんな名前を息子につけるに至ったエノク、しかもそれがエノクの生涯の転機となることと関係がある特別な経験があったのかも知れません。私はおそらく神の啓示が彼にあったのではないかと思います。というのも、エノクは息子が死んだのちに起こる何かの出来事が、神から啓示されたことによって、彼の生き方がそれまでとは一変して、神とともに歩むという転機をもたらしたと考えることができます。では、その出来事とはいったい何でしょうか。
  • メトシェラは聖書によれば次のように記述されています。
    「メトシェラは187年生きて、レメクを生んだ。メトシェラはレメクを生んで後、782年生き、息子、娘たちを生んだ。メトシェラの一生は969年(覚えやすい)であった。こうして彼は死んだ。」 969歳は聖書に登場する人物の中で最長年齢です。
  • そのメトシェラが生きている間に、息子のレメクは182歳のときに息子のノアを生みます。そのノアが500歳になったときセム、ハム、ヤペテ息子たちを生みます。そしてノアが600歳の時に大洪水による神のさばきが起こります。 187+182+600=969
  • メトシェラという名前が意味するところの「彼の死後に送られた神のさばき」は、まさに「大洪水」というかたちで起こったのです。

(3) エノクの生きた時代


①神の人らが、神を信じない娘たちを妻とするようになった。
②地上では人の悪が加速度的に増大し、やがて主は人を造ったことを悔やまれ心を痛められる。
③地上のものが神によってすべてリセットされるべき運命にあった。

(4) なぜメトシェラの生涯は最長なのか

  • ここで、なぜメトシェラが聖書の中で最年齢なのかを考えてみましょう。大洪水による神のさばきは、メトシェラが死んだ年に起こっています。つまり、神はさばきを父エノクにメトシェラが生まれた時に啓示して、実に、969年間、忍耐して引き伸ばされたと考えられます。
  • 神の裁きはノアの時代のときのように大洪水ではないが、神のさばきは必ずあるし、必ず来るのです。今は私たちが神に立ち返るチャンスとして引き伸ばされているのです。神の忍耐は愛なのです。ペテロ第二3章3~13節参照しておきたいと思います。
    • 3 終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
      4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
      5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
      6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
      7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
      8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
      9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
      10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
      11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
      12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
      13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
      14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
      15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

(5) エノクの生涯の最後

  • 神とともに歩んだエノクの最後は、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」 (創世記5:24) と記されています。このことは決して驚くことではありません。つまり、キリストにある者はキリストの再臨の時に一瞬にして天に携挙されることが約束されている。その意味で、エノクは神とともに歩む者たちの先取りのモデルなのです。

まとめ

  • 「エノクは神とともに歩んだ」―その意味するところはとても深いものがあります。先ほども述べたように、御子が御父とともにあることを学ぶことと密接な関係があります。信仰が生活の飾りのようであってはなりません。神のことばを瞑想し、味わい、そのいのちの中に生きることを選び取ること。それは決して容易な生き方ではありません。「努力して、狭い門からはいりなさい。」とイエスは言われました。その門はいのちにいたる門であり、その道はきわめて狭く、それを見出す者は稀だからです。
  • 私たちの日々の歩みが問われています。仕事に忙しく、日ごとのすることで何かと忙しくて神との大切な交わりを持てないでいるならば、それはクリスチャンといえども、「神とともに歩む」生き方とはほど遠いことを心に留めましょう。「神がともにおられる」ことがあっても、自ら「神とともに歩む」こととは違います。神が喜ばれること、神が求めておられることは、ミカ書が語っているように、あなたが「神とともに歩むこと」を選び取ることなのです。すべてのクリスチャンが、すべてのキリストにある教会が、このことを問われているのです。


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