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義人は信仰によって生きる④モーセ

第18日 「苦しむことを選び取ったモーセ」 

信仰によって生きた模範者たち④モーセ

はじめに

  • へブル人への手紙の講解説教、今回は「義人は信仰によって生きる」というテーマのもとに、神によって称賛された人々―信仰に迫られ、信仰にうながされ、信仰にかられ、信仰に目覚まされ、信仰に動かされ、信仰をもって生きた旧約時代の人々の中から、今回は神のしもべと言われたモーセを取り上げます。そして、彼がどのような意味においてその信仰が称賛されているのか、そしてそれが私たちにとってどのような励ましとなっているのかを考えてみたいと思います。まず、今朝の聖書のテキスト「ヘブル11章23~27節」を開きましょう。

    23 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。
    24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
    25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
    26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
    27 目に見えない方を見るようにして、忍び通した。


1. モーセの両親の信仰

  • ヘブル書11章23節には、今回の主人公のモーセではなく、モーセの両親の信仰が称賛されています。 「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。
  • モーセの誕生において、モーセは両親から他の者とは異なる、なにか特別な存在のように感じられていたふしがあります。
  • 当時のエジプトは奴隷によって支えられていた国でした。その奴隷として支えていたのが、イスラエル人でした。かつてはそうではなかったのですが、ヨセフを首相にした王が失脚して「ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった」のです。もともとイスラエル人は多産であったので、おびただしく増えたために、そのことを恐れたエジプトの王が、その脅威を取り除くために、生まれた男の子はみなナイル川に投げこんで殺すという政策を打ち出しました。ところが、男の子の両親は生まれたその子がかわいいのを見て、三か月の間生まれた子を隠して置きました。「隠しておく」ということは、見つかれば大変なことになります。殺されてしまうかもしれません。しかし両親は「信仰によって、信仰に促されて」大胆にも、その子をかくまったのでした。
  • しかし次第に隠しきれなくなったので、かごに入れ、水が入らないように樹脂を塗って、ナイルの川の岸の葦の茂みにそっと置きました。男の子の姉(ミリアム)がどうなるかその成り行きをみようと、遠く離れて様子をうかがっていた時、はからずも、そこにパロの娘が水浴びにやってきて、その篭を見つけました。そのとき、姉のミリアムはすかさず、パロの娘に言いました。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませる乳母を呼んできましょうか。」というと、パロの娘は「そうしておくれ」と言ったので、乳母ではなく、本当の母親を呼んできました。そのようにして、その男の子は、エジプトの娘の守りの中で、実母の母乳によって育てられたのでした。本来ならば殺されてしかるべき男の子が、エジプトの最も深い宮殿で、しかも自分の母親によって育てられたのでした。モーセという名前はエジプト王の娘がつけた名前で、「引き出すー水の中から引き出すー」という意味です。やがてこの男の子がエジプトの権力と立ち向かい、奴隷としていたイスラエルの民を連れ出すことになろうとは、だれ一人として知る者はおりませんでした。すごいドラマーHis story―です。
  • へブル書では、モーセの両親の信仰がたたえられています。それは、彼らが、エジプトの王を恐れることなく、モーセを隠して、かくまったからですが、その理由として書かれていることが面白いです。

(1)その子の美しいのを見たから (新改訳、フランシスコ会訳)
(2)子供のうるわしいのを見たから(口語訳)
(3)その子の美しさを見たから (新共同訳)
(4)その赤子の愛らしさを見て (柳生訳)
(5)その子どもが非常に美しかったのを彼らが見たから (詳訳聖書)

  • これだけを見ると、単にかわいいからかくまっていたように思えます。どんな親でも自分の子どもはかわいいに決まっていると思いますが、わざわざ聖書が「その子が非常に美しいと記しているわけですから、尋常なかわいさではなかったように思います。
  • ここに使われているギリシャ語の「アステイオス」ということばは新約で2回しか使われていない(使徒7:20, ヘブル11:23)ことばですが、いずれも、生まれたときのモーセのことを表現するのに使われています。この「アステイオス」とは、都会的センスのある上品さを意味することばです。尋常ではない、普通ではない、並ではない、英語ではno ordinary childと訳されています。モーセにしか使われていないことばということが驚きです。
  • 他の訳を調べてみると、さらにイメージが少し変わります。

(6)神の目にかなった子どもであったから (尾山訳)
(7)優秀な子供が授けられたことを知ったから (LB訳)

  • 少々、意訳的な感じもしないではないですが、へブル書では、わざわざ「信仰によって」と頭にあるので、両親は自分たちの子であるこのモーセのかわいらしさの中に、に、何か特別な、神からのサインを感じたのではないでしょうか。no ordinary child であったがゆえに、エジプトの娘の子として養育されたのかも知れません。並ではそうはいかなかったでしょう。超特上だったのだと思います。

2. モーセの信仰

  • モーセはエジプトのパロの娘の子として、成長していきます。モーセの実の母は乳母ですから、いつまで子育てにかかわったのかは記されていませんが、おそらく、自らの乳房を与えながら、モーセのために祈ることしばしばだったと思います。モーセは母に祈られながらいのちを育まれたと言えます。
  • 乳離れしてから成人になるまで、彼は、エジプトの王子としてあらゆる学問を教えられ、最高の教育を受けたのです。そのモーセには「ことばにもわざにも力があった」とキリスト教会の最初の殉教者ステパノは語っています。
  • そして40歳になったころ、「血は水よりも濃い」ということばがありますが、自分の体の中に流れているイスラエル人の血のゆえに、パロの娘の子と呼ばれることを拒んだのです。この拒絶は、自分の体の中に流れているイスラエル人として生きるという意思をはっきりとするようになったことを示しています。いつ、自分がイスラエル人であるということを知ったのかは聖書にしるされていませんが、それは定めというか、運命というか、どんなエジプトの王子として育てられたとしても、「血は水よりも濃い」わけですから、自分のルーツを無視できなくなるのは目に見えています。ただ、モーセの場合は与えられていた環境が、人間的にはだれもかうらやむような地位と立場を有していただけに、自分が「パロの娘の子と呼ばれることを拒んだ」ということは大きな決断があったことと思います。
  • へブル書11章24~27節には、モーセの信仰がいかなるものであったかをうかがい知ることができます。少しまとめてみましょう。以下の(1)~(5)はすべて密接につながっています。
  • モーセが、成人したとき(成人したあと)、 信仰によって (信仰に目覚めて)

    (1) パロの娘の子と呼ばれることを拒んだ
    ―なぜ、彼は拒んだのか、拒む意図はなんだったのかといえば、それは、彼がエジプトのー

    (2) はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取った
    彼が同胞とともに苦しむことを選び取ったのは、良く考えてのことでした。つまり、それまでのエジプトの華やかな、安定した立場を捨てて、あえて自ら同胞とともに苦しむことを選び取らせたのはなぜなのかーそれはー

    (3) キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富 (価値あるもの)と思った
    「キリストのゆえに受けるそしり」とは何を意味するのかは後で説明します。ともかくここでは、自分がイスラエル人であるということで受けるであろう「そしり」を、エジプトに勝る価値あるものとみなしたということです。このことについてもお話ししたいことがありますが、まず、モーセの信仰についてのべられているところを、まずその全体を見ておきたいと思います。

    (4)報いとして与えられるものから目を離さなかった
    ここでの「報い」とは、目に見える報いではなく、目に見えない永遠の事柄に属するものです。そこから彼は目を離さないという信仰がありました。彼がやがてイスラエルの民たちを導いていきますが、人々の不信仰に悩まされます。そのために彼らとともに40年間、荒野をさまようことを余儀なくされます。アブラハムに与えられた神の約束―それは①「子孫繁栄」②「土地の賦与」(しかも広大な土地) ③「万民祝福」-現実には、子孫は確かに少し増えましたが、星の数ほどではありません。数えられる数ですから。土地も何ひとつ与えられていません。万民の祝福に至っては、うなじのこわい民たちから想像できないような現実の中で、モーセは忍耐を強いられました。

    (5) 目に見えない方を見るようにして忍び通した
    モーセはたびたび謀反を起こされます。リーダーとしてはとても孤独でした。多くの問題にいつも対処しなければならない緊張の連続でした。忍耐を強いられたのです。そんな中で、彼は「目に見えない方を見えるようにして」-親しい交わりをもってー忍び通したリーダーでした。


3. この世の宝に勝るものへの気づき

  • へブル書11章では、神によって称賛されたモーセの信仰を、5つのポイントで記していますが、今朝、私はこの中から一つ、モーセがなぜ苦しむことを選び取ったか、その理由について注目してみたいと思います。
  • その理由は、(3) の「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富 (価値あるもの)と思った。」ということです。このことを考える前に、まず、ことばの説明をしておきたいと思います。「キリストのゆえに」という部分です。モーセの時代にはまたキリストが現われてはいないはずなのに、なぜ、ここで「キリストのゆえにうけるそしり」とあるのでしょうか。「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味ですが、神の働きを担うために特別に神から与えられる力であったり、祝福であったり、権威であったり、立場であったりしますが、ここで、「神の民」のことを指しています。とすれば、「キリストのゆえに受けるそしり」とは、「イスラエルの民としての受けるそしり」を意味することになります。
  • イスラエルの民は、神の救いのご計画の担い手として神をこの世に示すために、辱しめや困難に遭うという運命を背負わなければならなかったのです。これは神の計画に組み込まれた宿命です。なぜなら、神と神の民は一体だからです。神に敵対する勢力が存在するということは、神と一体となっている神の民がそのあおりをうけるのは至極当然です。
  • 実は、神の民がやがて大きな苦しみに会うということは、すでにアブラハムに対して神が語っていたことなのです。神の救いのご計画の中で、神の民が苦しむ=それはとりもなおさず神が共に苦しまれることでもあるのですが、その預言を見てみましょう。

(創世記15章)
13 アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、 自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。16 そして四代目(以降)の者たちがここ(カナンの地)に戻って来る。

  • このような文脈の中にあって、モーセが、「キリスト、すなわち、油注がれた神の民であることのゆえにうけるそしり、あるいは苦しみを、エジプトのどんな宝よりも価値あると彼は値つもりしたのです。それは神のご計画の中に自分も神の民の一人として生きること、その価値を見出したということです。
  • 神の民として生きることのすばらしさを知るならば、たとえそしりを受けたり、苦しみを受けたりすることがあったとしても、それはエジプトの宝にはるかに勝るものであるということを値づもり、そこに身を置くことを決断したということです。このことが、「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富 (価値あるもの)と思った。」という意味です。この決断によって、モーセは神のしもべとして尊く用いられたといえます。

使徒パウロの天秤思考
ピリピ3:7「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得るという望みがあるからです。」

最後にー主のひとつの問いかけ

  • イエスは「わたしについてきたいと思うなら/ わたしの弟子となりたいと思うなら、」と、二つの譬えを通してイエスの弟子になりたいと思う者に対して、よく計算するようにと要求されます。

    譬え 
    (1) 塔を築こうとするとき、資金が十分にあるどうか計算する。
    (2) 戦いをするとき、勝つ見込みがあるかどうかを考える。

    そして、そのあとに「イエスの弟子となるための条件」を述べています。ルカ14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

  • 確かに、弟子になることは楽なことではなく、苦しいことも多い。しかし、祝福ははるかにそれに勝るものなのです。「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富 (価値あるもの)と思った。」モーセの信仰とつながるのではないか。
  • 主は、私たちに主の弟子となることを願っておられるのです。その証拠に、復活の主が11人の弟子たちにこう言われました。
    「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章18~20節)


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