****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

義人は信仰によって生きる⑤女遊ラハブ

第19日 「命を賭けた遊女ラハブ」 

信仰によって生きた模範者たち⑤ラハブ

はじめに

  • へブル人への手紙の講解説教、「義人は信仰によって生きる」というテーマのもとに、神によって称賛された人々を取り上げてきました。これまで、

    ①いつも良いものを与えてくださる神に対して、自分も与えられたものの中から最高のものを神にささげたことによって称賛されたアベル。
    ②自分の息子が生まれてから、自ら、自発的に神とともに歩んだエノク。
    ③神の約束を信じ続けてその生涯を生きたアブラハム。
    ④この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取ったモーセ。

    ―を学んできました。
  • 今朝は、それに加えて、ひとりの女性を紹介したいと思います。結論を先に言ますと、その女性は、命を懸けた大胆な信仰によって称賛されているのです。
  • 旧約聖書には、神のためにすぐれた働きをした信仰の女性が多くおります。「聖書の女性たち」のいう本(旧約篇、新約篇)が出版されておりますが、旧約だけでも50人ほどの女性が取り上げられています。ところが、なぜか、ヘブル人への手紙の11章の信仰の偉人たちのカタログの中には、アブラハムの妻サラと今回取り上げるラハブという二人の女性の名前だけが記されています。しかも、後者に至っては「遊女」という肩書まで記しています。「遊女」とは、説明するまでもなく、決してすぐれた肩書きではないことはいうまでもありません。むしろ裏の生活をしていた女性です。新共同訳では「娼婦」と訳しています。「売春婦」の意味です。そんな彼女でありながらも、その信仰が称賛されているのです。その箇所をまず読んでおきましょう。聖書のテキストはヘブル11:31です。

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」(新改訳) 

  • 「穏やかに」と訳されたギリシャ語の平和を意味する「エイレーネー」(peace, welcome)。「ねんごろに」(フランシスコ会)、「ねんごにもてなした」(柳生訳)、「敵意を持たずに」(詳訳) とも訳されています。しかし実際は、「穏やか」ではなく、命をかけるほどのスリルに満ちた大胆なものでした。
  • 彼女のこの大胆さを通して、その結果「不従順な人たちといっしょに滅びることを免れた」ということが記されています。信仰によってした彼女の行為が、滅びを免れさせたということです。―これだけでは、話の内容がわかりません。遊女ラハプとは何者であり、偵察にきた人たちとは何者であり、彼らを受け入れたとありますが、なにゆえにそうしたのか。そしてそのことがなぜ滅びを免れることになったのか・・よくわかりませんので、これから31節の背景になっている出来事をお話ししたいと思います。

1. 危険を顧みず斥候を匿ったラハブの大胆さ

  • 神のしもべモーセが率いてきたイスラエルの民は、荒野で40年間過ごしたあと、モーセの後継者となったヨシュアが、神の約束された地-カナンーに侵入し、そこを征服し、占領していったことを記録しているのが「ョシュア記」です。指導者のヨシュアは、40年前にモーセがカナンの地に偵察隊を遣わした12人の中のひとりです。12人の偵察(斥候)隊はカナンの地に行って、見てきたことをモーセに報告しました。12人のうち10人が、「すばらしく良い土地ですが、私たちよりも大きな人たちが住んでいて、とてもじゃありませんが、そこへ入っていくことはできません。」とレポートしました。他の二人は「確かにそうだとしても、神が与えようと約束されたのだから、大丈夫」と報告しました。その二人―ヨシュアとカレブーだけが、カナンの地に入ることができました。第一世代の者たちはみな荒野で生き絶え、二代目の世代が指導者ヨシュアに率いられて、約束の地に入って行くことになります。
  • しかしヨシュアはすぐには出発せず、用意周到な準備をします。なぜなら、カナン侵攻の前哨戦ともいえるエリコの町の攻略は重要な最初の戦いだったからです。そのひとつに彼は二人の斥候(スパイのこと)を予めそこに遣わして、情報を収集させようとしました。遣わされた二人の斥候は、まずどこにいったのでしょうか。ヨシュア記2章1節によれば、「彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。」とあります。なぜそんな所に泊まったのでしょうか。二つの戦術がありました。それは・・・

(1) よそ者が行っても怪しまれない場所だから

この第一の戦術はみごとに失敗しました。

2:2 エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、今夜この地を探るために、入って来ました」と告げる者があったので、
2:3 エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」

とあるからです。ここでラハブが二人の斥候を差し出せば一件落着というところです。しかし、そうはなりませんでした。ラハブが彼らを渡すならば、当然、殺されるに違いありません。まさに二人の斥候の命は、ラハブの手にかかっていたのです。二人の斥候は不安でいっぱいだったと思います。ところが神の助けは全く予想しないところから来ました。これは今日でも変わらない真理です。なんと遊女ラハブが王の命令に逆らって、敵であるはずの彼らを匿ったのです。

  • 本来ならば、斥候の者を連れ出すように言われた時、ラハブは直ちに敵である彼らを手渡すべきでした。それはエリコに住む者として当然なことでした。ところが、その時、ラハブは二人の斥候を匿ってこう言ったのです。ここをリビングバイブルで読んでみましょう。

    2:4「ああ、あの人たちならとっくに帰りましたよ。 ここにいたんだけどねえ。 そりゃ、まさかスパイだなんて、思いもよらないもの。2:5 町の門が閉まるころ、夕やみにまぎれて町から出て行ったみたいよ。行き先までは知らないけど。急いで追いかけりゃ、捕まえられるかもしれませんよ。」

  • これは真っ赤な嘘。実際、彼女はふたりを屋上に連れて行って、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していました。斥候を逮捕しに来た者たちは、ラハブの言葉を聞いて、信用してあとを追いました。もしここで、斥候たちを連れ出すように言われた時、ラハブが少しでもためらっていたならば、怪しまれて斥候たちは逮捕されてしまったでしょう。しかし、ラハブは少しもためらうことなく、確信を持って話したので、彼らは騙されたのです。
  • ラハブの演技はなかなかのものだと褒める箇所ではありません。あるいは、嘘をつくことは良いことか悪いことかということもここでは問題にはなりません。なぜなら、彼女がこのような行動に出たことは、へブル人への手紙によれば「信仰によって」そうしたのであり、いわば命を懸けた、危険を顧みない信仰の冒険だったのです。というのも、もし彼女が斥候たちを匿ったことがばれたなら、彼女だけでなく彼女の家族もみな殺されてしまったかもしれないからです。
  • 二人の斥候が遊女ラハブのところにいったのは、「よそ者が行っても怪しまれない場所だから」と踏んでいたはずですが、すぐにばれてしまい、その第一の戦術はみごとに失敗しました。ところが、遊女ラハブが「信仰によって」、危険を顧みず、彼らを命を賭けて匿ったために事なきを得たのです。

(2) 情報収集の格好の場所だから

  • 逆に、第二の戦術についてどうだったでしょうか。それは見事に成功しました。それもこれもみな遊女ラハブのおかげでした。神は彼女を通して彼らを助け、彼らが願っていた情報をラハブから得るようにしてくださったのです。その情報とは何だったのか。一口に言うならば、敵が「恐れ」に襲われて震えおののいていること、みな、心がしなえて、勇気がなくなってしまっていること。つまり、「敵が恐れに捕えられている」という情報。この情報が斥候を通してヨシュアのもとに届けられたのでした。
  • 40年前、カデシュからカナンの地へ偵察に遣わされた斥候たちは、外側だけを見て、人々の心の動揺を見抜けませんでした。しかし今、エリコに進入した斥候たちは、ラハブから人々の恐れについて聞かされます。イスラエル軍が戦う前に、神はすでに敵の心をゆさぶっておられたのです。ですからこの情報は、戦いを前にしたヨシュアと神の民イスラエルにとって大きな励ましを与えたはずです。

2. ラハブの信仰とその報いとして期待したもの

  • ラハブが命を懸けてまで二人の斥候を守ったことには理由がありました。それは彼女がカナンの者であったにもかかわらず、イスラエルの民を導いた神こそが、本当の神だと信じるようになっていたからです。
  • 神を信じる信仰があるというのは実に不思議なことで、謎に満ちています。なぜ信じることができたかといわれても、できたからできたとしか答えられません。私の場合も、特別な奇蹟を経験したわけではありませんし、神を信じる信仰の家に育ったわけでもありません。いろいろな状況を引き合いに出したところで、同じような状況にある人は五万といます。なぜこの私が・・、という世界です。
  • なぜ、エリコの町でラハブだけが信仰をもって救われたのか、本人もただ信じられる気がしただけ。という答えしか返ってこないかもしれません。では、彼女の信仰とは、どのような信仰だったのでしょうか? 充分な信仰の知識があったとは思いません。彼女の知っていたことはごく僅かでした。ただ噂により、「イスラエルの民が葦の海(紅海)を渡ったこと、そしてシホンとオグを聖絶したことなど」を聞いて知っていたのです。彼女は「聞いて、信じたのです。」
    ヨシュア記2章には彼女の信仰告白が記されています。

(1) 天と地を造られた創造主と支配者なる神

  • 第一に、彼女は「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」と創造主なる神とそのご支配について告白しています。これはカナンの人々が信じている偶像とは根本的に違います。偶像は人の手によって作られたので死んだ神に過ぎません。決して救いを与えることはできません。なぜなら、偶像はあくまでも自分のために造られるものだからです。自分に都合の良い神であるために、自分の欲望を無限に肯定してくれますが、人生の根本の問題を解決してはくれません。ラハブが信じた神様は天と地を造られた創造主なる神様であり、すべてを支配しておられる神でした。
  • 彼女はまた、その神が、この地を(エリコの町を含むカナンの地)与えられたことを信じていました。

(2) 裁きと救いの神

  • 彼女はまた、斥候のために来た者にこういいました。「どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」
  • 彼女は罪を裁かれる神様を信じました。彼女は神様がイスラエルを通してカナンの地を裁かれることを知っていました。ラハブは裁きの神様を信じただけではなく、自分のような罪人も悔い改めて信仰によって出て行けば救ってくださる救いの神様を信じたのです。
  • そしてその確証をもらいました。その確証とは、やがてイスラエルの民が侵入してきたときに、窓に赤いひもが結び付けられている家を救うという約束でした。17-21節にはラハブと斥候たちが契約を結ぶ場面です斥候たちはラハブに自分たちの誓いを守るために二つのことを頼みました。
    ①一つは、自分たちをつり降ろした窓に、赤いひもを結びつけておくことです。
    ②もう一つは、ラハブの父と母、兄弟、また、彼女の父の家族を全部、彼女の家に集めておくことです。
  • 赤いひもは出エジプトの時にイスラエル人が家の門柱のかもいに塗った過越の羊の血とイエス様の血を象徴します。エリコが裁かれる時、窓に赤いひもが結び付けられている家を救うという約束は斥候たちとラハブが結んだ契約です。ラハブはこの契約に基づいて赤いひもを窓に結び付けました。そして、イスラエル人はそれを見てラハブとその家族だけを救ったのです。

3.  遊女ラハブの背景にある神のドラマ

マタイに登場する4人の登場
  • 神を信じるという神との新しいかかわりは、私たちの人生において、神のすばらしいみこころがなるという実に不思議なドラマが始まります。どんなドラマが展開していくのかはだれにも分かりません。しかしそれは確実に、神の栄光と恵みを照らしだす人生を歩むというドラマなのです。遊女ラハブがもった信仰は、彼女の思いや願い、望み、あるいは夢をはるかに越えて実現されていきます。遊女ラハブはそん神のドラマがあるとは全く予想だにしなかったことでしょう。ここで、マタイの福音書の冒頭にある系図をみてみましょう。
  • 聖書をはじめて開く人はここでつまずいてしまいます。聞いたこともないような人物の名前が羅列されているからです。しかし、この系図には、とんでもない、驚くべき事実が秘められているのです。
  • ユダヤ人たちは系図(血のつながり)をとても重んじます。バビロン捕囚から解放されてたユダヤ人たちは、神に選ばれた自分たちのアイデンティティを再確認するために自分たちの系図を確認します。それが歴代誌という書物に記されています。
  • マタイの福音書を書いたマタイは「神の恵み」という意味ですが、ユダヤ人である彼がイエス・キリストの系図の中になんと4人の女性の名前を入れています。本来ならば、系図は男性側のみしるされます。しかし、どういうわけかその系図の中に女性が入っていること自体、不思議なのです。しかも、その4人の女性たちはみないわくつきで、普通ではありません。
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(1) タマルはユダの息子(長男)の嫁です。ユダはカナン人の女性と結婚し、三人の息子を設けました。長男エルの嫁として迎えたタマルもカナン人だと思われます。ところが長男が神の怒りに触れて死んだので、子孫を残すために、弟息子オナンと結婚させます。しかし、次男ノオナンは長男の子孫を作りたくないということで子どもをつくりませんでした。そのことも神の怒りに触れてオナンは死にました。そのためにタマルは子どものいない嫁だったのです。舅であるユダは気の毒に思って三番目の息子が成人するまで、実家に帰って待っているように返しました。しかしその息子が青年になっても、ユダは息子を彼女に与えませんでした。そこで、あるとき、彼女は遊女(娼婦)に変装して舅のユダを誘惑して子どもを宿しました。明らかに、これは不義による子どもたちでした。ユダはだまされてタマルと関係をもったのですが、後で、人から自分の息子の嫁であつたタマルが売春してらしいということを聞いたとき、「焼き殺せ」と言ったのです。しかし、そのタマルの胎に宿った子どもが自分の子どもだと知ったとき、自分が彼女に三男の息子を与えなかった自分の非によるものだと認めたのです。タマルは双子を産みました。その長男のペレツからやがてサルモンが生まれます。もし、タマルが子どもを産まなかったとしたら、ユダには子孫がいなかったのです。だとすればダビデもソロモンもそしてイエス・キリストも存在していないのです。

(2) 遊女ラハブはカナン人(異邦人)でしたが、悔い改めて、イスラエルの神こそ本当の神と信じて救われます。やがて不思議なことに彼女は一人のイスラエル人と結婚しますが、その結婚相手というのがなんとサルモンだったのです。しかも、サルモンとラハブの間にできた子どもが、ルツ記の主人公、つまりモアブ人であるルツの夫となるボアズなのです。

(3) そしてボアズとルツが正式に結婚した後に生まれたのがオベデでした。オペデからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれした。

(4) さらに、このダビデとウリヤの妻バテ・シェバの間にできたのがソロモンです。これも不義の子です。そして、その系図はイエス・キリストへとつながっていきます。

  • 不義、遊女、婚前交渉、姦淫、しかも、カナン人、モアブ人といった異邦人の女性たちが、イエス・キリストの系図の中に入ってきているのです。本来ならば、そうしたことは隠しておきたいところでしょうが、聖書ははっきりと記しているのです。その意図はなんでしょうか。それは、ひとえに、神の恵みの豊かさを示すためにほかなりません。こんなことを記したマタイもかつては取税人であり、ローマの手先となって同胞の民を苦しめていた人物でした。そんな彼がイエス・キリストに出会って全く新しい人生を歩んだのです。

最後に

  • 最後を締めくくる前に、少し面白い話をしたいと思います。今朝の取り上げた女性の名前は「ラハブ」でした。聖書で「ラハブ」と訳されている名前は、二つの意味で使われています。一つは、רָהָב(rahav)、もう一つは、רָחָב(rachav) 似ているようですが、どこか少し違います。その違いが分かりますか。
    画像の説明
    そうです。真ん中の文字が違っています。(1) の方は「ヘー」というへブル文字です。一方、(2)の方は「ヘット」というへブル文字です。
  • 前の方は、実は「エジプト」を意味することばです。詩篇86篇に出てきます。へーという文字があるラハブということばは、本来、「高ぶる」という動詞から来ています。つまり、エジプトは高ぶる象徴として使われています。
  • 後の方は固有名詞の女性の名前の「ラハブ」です。この言葉のもともとの意味はーもともとという意味は、へブル語は動詞からできていることばなので、名詞、固有名詞は動詞から造られているからです。ですから、真ん中に「ヘイト」のある「ラハブ」の意味は、幅を広くする、太い、大幅で、ゆとりがあるという意味。痩せた感じではなく、むしろ太っているというイメージです。「太め=ラハブ」
  • 聖書の中で最初に出てくる箇所は創世記6章15節の方舟の「幅」として使われています。それ以後、町の「広場」になったり、幕屋の「横幅」や宮やその備品の「横幅」に関して使われています。それもかなりの幅広の物に使われています。ですから、名は体を示すということばがあるように、もしかしたらラハブはかなり太めの女性で、そのあだ名が「太め」と言うことがいえかもしれません。
  • 仕事は「遊女」で、身体は「太めタイプ」。多少、軽蔑されているような感じがしないでもありません。この嫌われた女性が、唯一、エリコの町で神様に選ばれ、しかもイエスキリストの先祖として聖書に名を残しているということが重要なのです。
  • イエス・キリストの系図の中に、まさに「とんでもないことが、驚くべき秘められた事実が隠されていた。」と言ったところでしょうか。神の不思議なドラマがこの系図にはあるのです。
  • さて、ラハブの命を懸けた信仰の決断を今朝は受けとめましょう。11章31節 「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」(新改訳) 「穏やかに」ということは、心優しくという意味ではありません。敵であるイスラエルの斥候を受け入れ、匿ったということは、「神の側についた」ということを意味します。その結果として、同胞であるカナン人とたとえ敵対関係になってしまつたとしても、です。
  • 彼女は悔い改めて、神を信じて自分とその家族だけが救われました。その信仰のあかしとして、つまり、自分の命を賭けてでも神を信じようとした行為が称賛されているのです。
  • 自分の命を懸けていない信仰は、いざというとき、もろくも崩れ去っていきます。ここで命を懸けるとは、自分の力で頑張るような信仰ではありません。神に完全にゆだねる信仰、まかせる信仰のことです。そんな信仰をもって生きているかどうか、私たちは、たえず、いつも問われているのはないでしょうか。


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