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腹の底まで打ちたたけ

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

31. 腹の底まで打ちたたけ

【聖書箇所】20章30節

ベレーシート

  • 前回(箴言19章)では「望みのあるうちに」というタイトルとしました。手遅れにならないうちに子どもを懲らしめることは、子どもに悪の道を避けさせることができるからです。それに引き続き、今回の30節では、悪を洗い落とすために子どもを打ちたたくことの効果とその正しい方法についての知恵を記しています。
  • 神に選ばれたイスラエルの民が神の教え(トーラー)から逸脱していった時には、決まって、神は他国(敵)を用いて苦しめることで、彼らを矯正しようとしました。イスラエルにおいては、家庭における父は神の代理者です。また、国における王も神の代理者なのです。その視点から箴言20章30節を理解する必要があります。
  • 今回は、30節を中心にしながら、7節にある教え、つまり神の祝福は父が神と正しい関係にあること(7節)、また王が神の恵みとまことをもって治めることの重要性(28節)についても触れたいと思います。

1. 子どもを打ちたたくことの効用

  • 現代の日本において、家庭でも、学校でも、子どもを打ちたたくことは虐待とみなされます。しかし聖書においてはそれがむしろ奨励されているのです。ただし、子どもが小さいうちにです。成長してしまってからでは遅すぎるという意味が含まれています。
  • 30節には新改訳で「打って」、そして「打ちたたけ」と訳された二つの語彙が使われています。原文では前者は名詞の「ハッブーラー」(חַבּוּרָה)の複数形「ハッブロート」(חַבֻּרוֹת)、そして後者は名詞の「マッカー」(מַכָּה)の複数形「マッコート」(מַכּוֹת)がそれぞれ使われています。前者は「打ち傷」の意味で、後者は「打撃、傷、災害」といった意味ですが、家庭教育においては、いずれも「体罰」的な意味で使われていると考えられます。
  • この箇所を他の聖書でどのように訳されているかを見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】箴言 20章30節
打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。

【新共同訳】
打って傷を与えれば悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て。

【口語訳】
傷つくまでに打てば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる。

【フランシスコ会訳】
深い傷は悪を洗い流す。打ちたたくことは腹の底までも清める。

【バルバロ訳】
たたいて傷つけることは悪への薬であり、たたくことによって、心の傷を治す。

【尾山訳】
体罰を加えるのは、悪を洗い流すためであり、二度と悪を行わないためである。

【L.B.訳】
体罰を加えるのは、二度と悪いことをしないように教えるためです。

【私訳】
体罰を与えるのは悪への薬。ただし、腹の奥底にとどくように打て。

  • 30節は、二つの文が接続詞でつながっています。新共同訳は後文を「腹の隅々にとどくように打て」と訳しています。新共同訳は、原則として接続詞を訳さない方針のようです。しかし、ここの接続詞を前文を条件的・限定的な意味の接続詞として捉えるならば、「ただし」という言葉を入れて訳すのが良いと考えます。というのは、体罰を与えられた子どもの心に親の思いが届いていなければ、この指導法は失敗に終わるからです。体罰は必ずしも親の思いがその子どもに正しく受け止められるとは限らないからです。体罰が効果あるものとなるか否かは、普段の親子関係によって決定づけられると言えます。

2.神との関係が正しくある父親の子らは幸いである

  • 箴言20章7節には「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。」とあります。このみことばが意味していることは、神の祝福は、特に、神と正しい関係にある父親の子ども(そのすべての子孫)へ注がれるということです。
  • 「正しい人」「義人」とは神とのかかわりが正しい人のことで、単に優れた人とか、道徳的に間違いを犯したことがない人のことではありません。イェシュアを唯一の救い主と信じて生きる人のことです。
  • 「義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:16)とありますが、神との関係が正しい父親の祈りは、家族にとって大きな祝福となり得ます。こんな話があります。

●1987年4月、ひとりの男性が炭鉱のそばの町の商店街に入って行き、ライフルを発砲しました。結局6人の死亡者と数人のけが人を出して、ようやくこの男は逮捕されました。人々が叫びながら逃げまどっているとき、犯人は銃を構え、車の中で恐怖のあまり、動けなくなっている若い女性に狙いを定めました。ところが「説明できない理由」によって、犯人は向きを変え、他の人に向けて発砲しはじめたのです。車の中の女性はすぐに車で走り去り、何の害も受けませんでした。

●この女性は知らなかったのですが、彼女の敬虔な父親は、まさにその日の朝、祈りの中で自分の娘のために祈っていたのでした。こうして「義人の祈り」が大きな力を働かせ、彼の娘の命を救ったのです。

●上記の話は、ある人が「正しい人」だということが、神の祝福がその人の家族にあることによって証明された一例です。箴言3章33節の「正しい人の住まいは、主が祝福される」とあります。「正しい人」であったとしても、時には倒れることがあるでしょう。しかし必ず起き上がります。そのことによって、彼の家族も堅く立てられるのです。それでは、正しい父親には必ず敬虔な子どもが育つのでしょうか。必ずとは言えないにしても、その可能性は大きいことを聖書は約束しているのです。


3. 父親の罪が子どもに受け継がれないために

  • 「正しい人に対する神の祝福は大きい」という教えに反して、もし「正しい人」(父親)が神に対して罪を犯してしまった場合、その影響が家族にもたらされてしまうことがあります。しかしその影響を防ぐ聖書的方法が二つあります。ここでの「正しい人」を父親に置き換えます。

●父親が罪を犯した時、自分の罪を神の御前で認め、それを告白をもって言い表わすことです。そして、罪のとがめから赦されることです。

【新改訳改訂第3版】詩篇 32篇5節
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

【新改訳改訂第3版】箴言28章13節
自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

●父親が自分の罪を告白する時、神はその父親とその家族との関係を正しいものに回復されるのです。


2016.1.26


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