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花婿のすべてがいとおしい

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

16. 花婿のすべてがいとおしい

【聖書箇所】 5章9〜16節

ベレーシート

  • 雅歌5章9~16節を取り上げます。ここは、9節の「エルサレムの娘たち」が花嫁に尋ねたことに対して、花嫁が答えるというシーンです(10~16節)。

1. 「エルサレムの娘たち」の問いかけ

【新改訳改訂第3版】雅歌 5章9節
女のなかで最も美しい人よ。
あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。
あなたがそのように私たちに切に願うとは。
あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。

  • 「エルサレムの娘たち」という表現は実は旧約聖書の中に7回使われています(1:5/2:7/3:5, 10/5:8, 16/8:4)。すべて雅歌にしか使われていません。雅歌には「シオンの娘たち」(3:11)という表現もありますが、「エルサレムの娘たち」と同義です。
  • 「エルサレムの娘たち」は花嫁が「女の中で最も美しい人」だと認めながらも、花嫁に対して、そんなに「あなたの愛する人(=花婿)は、他と比べて何かすぐれているのですか」と二度も同じく尋ねています。ということは、この「エルサレムの娘たち」は花嫁の「愛する人」についてそのすばらしさについて、全く目が開かれていないことを示しています。「エルサレムの娘たち」とは神の御子イェシュアに目が開かれていないイスラエルの民たちです。
  • 確かに、今日においても、イスラエルの民たちの多くは花婿なるイェシュアを自分たちのメシアとして信じてはいません。しかし、神のマスタープランにおいては、やがて、獣と呼ばれる反キリストによる大患難の試練を通して、彼らは目が開かれ、真のメシアがイェシュアであったことを悟り、そして信じるのです。

2. 花嫁の語る花婿の愛おしさ

  • エルサレムの娘たちの問いかけに対して花嫁が花婿のすばらしさを語っているのが、10~16節の箇所です。そして最後に、「これが私の愛する方、これが私の連れ合いです」と答えています。以下、「これが・・」が指し示す花婿の姿の一つ一つを見てみたいと思います。

(0) 花嫁の輝き
①まず花婿は「輝いて、赤く、万民よりすぐれ」とあるように、「輝いている」存在です。原語の「ツァハ」(צַח)は「目もくらむほどのまばゆい光」です。光の三原色を合わせると「白」になるとあるように、それは神性さを象徴しています。

②そして「赤く」(「アードーム」אָדוֹם)とは、「顔つやが赤い」「血色の良い」という意味で、力といのちに満ちた象徴です。ダビデも「血色の良い顔」(Ⅰサムエル16:12/17:42)をしていたとありますが、そこでも「アドゥモーニー」(אַדְמוֹנִי)という形容詞が使われています。ダビデは健康的な紅顔の美少年でした。また「赤く」とは、花婿の人としての性質を表しているとも言えます。「アードーム」には、血を表わす「ダーム」(דָּם)という文字が含まれているからです。

③「万人よりすぐれ」とは「すべてに勝る、ひときわ目立つ」比類なき存在を意味します。花婿はすべてにまさって際立っている方なのです。「すぐれ」と訳されたヘブル語は「旗をかかげる」「きわだたせる」という意味の動詞「ダーガル」(דָּגַל)の分詞形です。「万人」(「レヴァーヴァー」רְבָבָה)という語彙も比べものにならないほどの大きな数を意味します。そうした中にあって、ひときわ目立つ旗こそ花婿の姿なのです。つまり、やがて、あらゆる者の目が集められるべき方であることを意味します。英語で表現するなら、「Above All 」です。(「Above His Name」の賛美)

●ここまでが、花婿の全体的なすばらしさを表現しています。11節以降では、花婿のご性質のさまざまな面が人のからだを用いて表わされます。


(1) 花婿の「頭」
11節前半「その頭は純金です。」
●「純金」と訳されていますが、原文では「黄金」(「ケテム」כֶּתֶם)と「純金」(「パーズ」פָּז)を意味する語彙が二つ並んでいて(「ケテム・パーズ」)、いわば「純金でできた黄金」という意味になります。

●「頭」はからだの中で最も重要な部分です。神殿(幕屋)の構造でいうならば、至聖所に当たる部分です。ソロモン神殿の至聖所はすべて金で覆われていました。金はいつの時代においても変わることのない、人が知り得る限りの最高級品です。それゆえ、金は「神聖」を表わす象徴です。花婿の頭(「ローシュ」רֹאשׁ)はまさに純金でできた黄金です。それは花婿の主権性を表わすと同時に、その花婿のかしらは神です(Ⅰコリント11:3)から、父なる神の主権をも表しているイメージです。「頭」である父なる神は、すべての初めであり、また終わりを意味します(ローマ11:36)。そして御子である花婿なるキリストは「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:8/21:6/22:13)と言われました。


(2) 花婿の「髪の毛」
11節後半「髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く

●花婿の髪の毛は「なつめやしの枝」と訳されていますが、直訳的には「彼の髪の束はなつめやしの房」です。「なつめやしの房」とは、波打ってふさふさとしているという意味です。それは、髪の毛が抜けて活力を失った老人のイメージではなく、人生絶頂期にある青年のイメージです。「髪」は活力ある神への献身の象徴なのです。

●ナジル人のサムソンは髪を切らないことを神に誓ったにもかかわらず、その誓いを破って髪を切りました。そのことのゆえに、神の力を失ったのです。ナジル人とは、「聖別する」「分離する」という意味のヘブル語動詞「ナーザル」(נָזַר)から出たことばで、神に「ささげられた者」「聖別された者」という意味です。ナジル人はその生涯において神への献身のしるしとして髪を切らずに神への誓いを立てるのです。花婿もその生涯を完全に神にささげられた方です。同時に、花嫁に対してもご自身をささげられたのです。

●次に、花婿の髪の毛は「烏のように黒く」とあります。「烏」は純粋な黒を象徴しています。白髪まじりの黒ではなく、花婿の髪が「烏のように黒い」とは、花婿の献身が、常に、若々しく、そして永遠のものであるということです。花婿の情熱的な献身は決して古びることなく、疲れ果てることなく、擦り切れることもないのです。それが花嫁を支えているのです。


(3) 花婿の「目」

12節前半「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。

●ここの部分を新共同訳では次のように訳しています。
「目は水のほとりの鳩/乳で身を洗い、形よく座っている。」(新共同訳)
(※原文には「身を」という語彙はなく「乳で洗い」です。)

●目(=両目)を見ることができるということは、花嫁と花婿との親密なかかわりがなければあり得ないことです。鳩で最も美しいのは「目」とされています。目は相手に対する情感を最も良く表わす部分ですが、その目が三つの比喩で語られている鳩です。

①最初は「乳で洗われ」とあります。「乳で洗われ」た鳩とはどんなことを意味しているのでしょうか。乳で洗われたその白さは子どものような単純さと素朴さを意味します。

②次の「池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる」鳩とはどういうことを意味しているのでしょうか。ここでの鳩は複数です。「池」と訳された原語は「ミッレート」(מִלֵּאת)で、動詞の「満たす」という意味の「マーレー」(מָלֵא)から派生した語です。「眼孔」という説もあります。意味としては、新共同訳のように「形よく座っている」、つまり「ほどよく配置されている」ことを意味しています。NKJVも「And reposed in their setting」と訳しています。つまり、「程よく置かれている」というイメージです。またNIVは「mounted like jewels」と訳しています。宝石を意味するような語彙は原語にありませんが、おそらく腕の良い職人が宝石の一つひとつをほどよく配置して加工した高価なジュエリーの美しさと解釈しているのかもしれません。いずれにしても、ここは花婿の目がすべてを見通すことのできる識別力のある目であると同時に、偏見のない曇りのない純正な目(両目)がバランスを保ってしっかりと置かれているといった意味として理解します。


(4) 花婿の「頬」
13節前半「その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。

●「頬」は双数形で「両頬」のこと。目と同様に、頬も感情を表わします。例えば、ヘブル語には「喜び」を表わす語が(その周辺語彙も含めて)実に多くあります。決して一様な喜びではなく、多様な喜びの表現があるのです。そのように、花婿の感情は「良いかおりを放つ花壇のよう」に豊かで多彩なのです。この花婿の喜びを感じられるのは花嫁だけです。


(5) 花婿の「くちびる」
13節後半「(その)くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。

●「くちびる」も双数形です。それは花婿のことばを示唆します。ここではそのことばが「ゆりの花」にたとえられています。「谷のゆり」で2章1節に出て来ました。それは夏のはじまりの季節の訪れを告げる、芳ばしい香りの花です。原語は「シューシャン」(שׁוּשַן)で、「アネモネ」という赤い花のことを示唆しています。但し、ここでは複数形です。花婿の多くのことばが花嫁を力づけるのです。

●ただし、この「ゆりの花」は没薬の液をしたたらせています。これはどういう意味でしょうか。イェシュアが宣教を開始された時、人々は彼の「口から出て来る恵みのことばに驚いた」とあります(ルカ4:22)。「(中風の人に)あなたの罪は赦されました。・・起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」(ルカ5:20, 24)、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。・・子どもよ。起きなさい。」(ルカ8:52, 54)、「信じる者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ6:47)・・これらはみな花婿から出たことばですが、これらのことばが永遠に力を持つためには、「没薬」が象徴する花婿の「受難と死」が必要です。受難と死によってもたらされる恵みは、やがて花婿イェシュアが再臨して実現するメシア王国においてはすべて当たり前となるのです。


(6) 花婿の「腕」
14節前半「その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。

●「腕」と訳された原語は「手」を意味する「ヤード」(יָד)の双数形(=両腕)です。その腕が「タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒」にたとえられています。直訳的には「タルシシュの宝石でいっぱいになった金の円筒(円柱)」です。手や腕は、花婿がどのような使命を成し遂げるのか、それと関係しています。

●イェシュアのこの世における働きは、すべて御父のみこころにかなって成し遂げられました。十字架の苦しみを通してなされた贖いのわざも御父のみこころに従ったのです。しかもそのすべてが愛という動機に支えられていました。メシア王国における祝福のすべては花婿なるイェシュアによってもたらされる偉大なみわざの祝福です。


(7) 花婿の「からだ」
14節後半「(その)からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。」

●「からだ」と訳された原語は「はらわた・内臓・腹」を意味する「メーエ」(מֵעֶה)の複数形です。雅歌5章4節の「心」という語彙もこの「メーエ」です。ヘブル語で「腹・内臓」は、あわれみ深い心を意味します。つまり、あわれみ深い心は腹の奥底から出てくるということです。それを「サファイヤでおおった象牙の細工」にたとえています。

●サファイヤが「透き通った青空のよう」(出エジプト24:10)と表現されているように、神の憐れみは花婿の明確な意図のもとになされるのです。福音書の中で「かわいそうに思われた」とある箇所には、必ず何らかの目に見える結果が現わされています(ルカ7:13、10:33、15:20、マタイ9:36、15:32、18:27、20:34を参照)。

●それゆえ、使徒パウロが「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(【新改訳改訂第3版】ローマ2:4)と述べているように、花婿のあわれみは花嫁を悔い改めに導いて、きよめ、神の知恵に導く巧みな心情と言えるのです。


(8) 花婿の「足」
15節前半「その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。」

●「足」も双数形(=両足)です。原語の「ショーク」(שׁוֹק)は、もも、すねを含んだ「足」ですが、新共同訳は「脚」と訳しています。これは適訳です。なぜなら「足」は歩く動きを示しますが、「脚」はしっかりと立った姿勢を示します。そしてそのことを「大理石の柱」が象徴しています。

●「大理石」を意味する「シェーシュ」(שֵׁשׁ)は、聖書ではしばしば白い「亜麻布」を意味します。したがって、「純金の台座に据えられた大理石の柱」とは、花婿による揺るがない神の義を象徴しています。花婿の義のゆえに、花嫁と花婿とのかかわりは決して揺り動かされることがないのです。

●花嫁は花婿のご性質を描写するときに、11節の頭の「純金」、14節の腕の「金の棒」、そして15節の「純金の台座」と3回「金」という語彙を用いています。「金」は神聖を表わします。それは花婿の思考と手のわざと脚の安定性が、すべて神から出ていることを意味しています。花婿は御父によって完全に支配され、御父のみこころに完全に従い、御父の心を完全に満足させています。このことによってもたらされた花婿の義は、花嫁を永遠に堅く立たせるのです。そのことを知っている花嫁は幸いです。


(9) 花婿の「姿」
15節後半「その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。」

●「姿」と訳された原語は「見る」という意味の動詞「ラーアー」の名詞「マルエ」(מַרְאֶה)です。「姿・容姿・容貌・顔・顔立ち」を意味します。花婿の「姿」が「レバノンの杉のようにすばらしい」と述べられています。

●「レバノン」という語彙は雅歌の特愛用語です。雅歌では7回登場します(3:9/4:8, 11, 15/5:15/7:4)。「レバノン(山も杉も)」は、聖書では「崇高さ、気高さ、繁栄、永遠のいのちの象徴」として仰ぎ見られています。他のすべての木よりもはるかに高いように、花婿はすべての人の中で神の栄誉を受けた唯一の人です。謙遜の極みです。イェシュアはいつも神からの栄誉を求めたのです。そのことのゆえに神は彼を高く上げられたのです。それは花婿が神からの栄誉を花嫁に分与するためです。

●詩篇89篇15節に「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。【主】よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」とあるように、花婿が神から受けた栄誉を分かち与えてくださることを、花嫁側から表現するならば、「御顔の光の中を歩む」となるのです。花婿の分与なしには、花嫁は「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸」(黙示録3:17)なのです。ですから、神の崇高な賜物(栄誉)を分かち与える花婿のその姿は、なんとすばらしいと言わざるを得ません。


(10) 花婿の「ことば」
16節「そのことばは甘いぶどう酒。」

●花婿のご性質に対する花嫁の称賛、その最後は、花婿の「ことば」です。原語は「口」を意味する「ヘーフ」(חֵךְ)で、2章3節の「その実は私の口に甘い」とあったその「口」です。普通、ヘブル語で「口」と言えば「ペー」(פֶּה)という言葉が使われます。ところがここでは、それとは異なる「口」で、味わうことに関係のある口(「ヘーフ」חֵךְ)なのです。「上あご」とも訳されます。

●「あなたのみことばは、私の上あご(「ヘーフ」חֵךְ)に、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口(「ペー」פֶּה)に甘いのです。」(詩篇 119:103 )とあるように、蜜の味は「ぺー」で味わうことができますが、神のことば、神のトーラーのすばらしさを味わうことのできるのは「ヘーフ」です。バビロンへ捕囚となったユダの民は、捕囚の地ではじめて神のトーラーが「甘い」こと、すなわち「心地良い」ものであることを味わったのです。その「心地良さ」は彼らのライフスタイルを変革させたのでした。

●神のトーラーは決して禁止命令の教えではありません。神のすばらしいいのちをもたらす教えなのです。花婿自身がこの世において「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」ということを実践してくださいました(マタイ4:4)。それは花婿が「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことをしたからです。花婿が実際に味わったみおしえ(みことば)の「心地良さ」(甘い)の喜びを花嫁にも分与したいと願っておられるのです。花嫁のライフスタイルはこの味の「心地良さ」を深く味わうことではないでしょうか。多くの忠実な奉仕、多くの行事、多くの集会への参加も大切ですが、神のみことばを甘く感じられる花婿との親しいかかわりの経験が必要です。それは忍耐の要る地道な歩みです。しかもそこには求め続ける心、捜し続ける心、叩き続ける狩猟感覚が研ぎ澄まされなければなりません。今日、自分本位の姿勢ではなく、花婿の語られたことばの深みを味わい、その秘密を味わうことが求められているのです。花嫁の霊性の回復はそのことによってのみ可能なのですから。他には道はないのです。


2015.8.31


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