****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

荒地と砂漠は花を咲かせ、荒地に川が流れる

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26. 荒地と砂漠は花を咲かせ、荒地に川が流れる

【聖書箇所】35章1~10節

ベレーシート

  • イザヤ書35章は、34章で預言された主の復讐の日に起こるさばきとはコントラストをなす内容です。この35章はユダの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰ってくるときの預言だと解釈する方がおられますが、ここでの内容はそれに当てはまりません。35章で預言されている内容は明らかにメシア王国(千年王国)のものであり、イザヤ書全体の要の章とも言えます。その論拠を一つひとつ取り上げてみたいと思います。
  • 34章の預言の内容は、メシア王国を越えた、神のマスタープランの最終ステージとしての新しい天と新しい地に入る前の「完全なる隔て」について記されていますが、35章の内容は最終ステージではなく、千年王国の祝福について記されています。そのイメージを描けることが大切です。主にある者たちがやがて訪れる、俗にいう漠然とした「天国」というイメージではなく、この地に実現するメシア王国のイメージをしっかりと把握する必要があります。でなければ、35章に記されていることはすべて霊的な事柄として解釈されてしまい、目に見える神のマスタープランの成就に対する待望が薄れてしまいます。終末の教えに対する混乱はそこに一因があるように思います。

1. 呪われた地がエデンの園のように回復する

【新改訳改訂第3版】 イザヤ書35章1~2節、6後半~7節
1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。
6 ・・・・荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。

  • 地の回復はバビロン捕囚からの解放のときにはなかったことです。しかしメシア王国においては、アダムの罪によって呪われた地はエデンの園のように回復します。脚注1 
    最終ステージである新しい地においては全く新しい創造がなされるので、回復という概念は成立しません。回復の概念はメシア王国のものです。
  • キリスト再臨の前は反キリストによる大患難の時代となります。それは神の民イスラエルが反キリストと契約を結んだことに対する神のさばきだけでなく、神に立ち返る最後のチャンスでもあります。患難時代では、神のさばきとしての天変地異によって、全地は荒廃と化します。それゆえ、再臨後のメシア王国においては地はいやされ、「喜びと楽しみ」が地を覆います。脚注2
  • 「喜びと楽しみ」という擬人的な表現がなされているのは、荒野と砂漠と荒地に花が咲き乱れるようになり、神が創造されたときのように地が回復されるからです。ありとあらゆる花が咲き乱れるようになるのです。また、杉で有名な「レバノン」、森林地帯の「カルメル」、そして花や穀物の豊かな「シャロン」のように、神の威光(輝き)が回復されるのです。
  • また、6節後半から7節にあるように、かつてエデンの園を潤していたように、豊かな水が荒野にわき出し、荒地に川が流れ、潤いのない地も豊かな穀物を生産できるようになります。ヨハネの福音書が示すように、「水」(「マイム」מַיִם)は「真理」(「エメット」אֶמֶת)の霊的象徴でもあります。ヘブル語の「エメット」は、ギリシア的な「真理」とは異なり、神のマスタープランに対する真実を意味します。「水」が豊かに流れるということは、神の真実(真理)が豊かに成就しているあかしでもあるのです。

2. 神の栄光の輝きを現わす者たちとその回復

【新改訳改訂第3版】イザヤ書35章5~7節
5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。


※「そのとき」と訳された「アーズ」(אָז)は、「終わりの日」「その日」「主の日」と同様に、ここではキリスト再臨によるメシア王国の到来のときを意味します。

  • ここに記されている出来事、すなわち、盲人の目が開かれ、耳の聞こえない者が聞こえるようになり、足が不自由なために歩くことのできない者が歩けるようになり、口のきけない者の舌が喜び歌えるようになることはメシアにしかできないことでした。「天の御国は近づいた」と宣言されたイェシュアは、初臨のときに、自分がメシアであることを口で自己宣言することをせず、メシアにしかできない奇蹟をデモンストレーションすることによって、ご自身がメシアであることを証言なさったのです。
  • ヨハネの福音書9章で、イェシュアの弟子たちは道の途中で出会った「生まれつきの盲人」のことでイェシュアに質問しました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と。するとイェシュアは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と答えられました。メシアが再臨されるとき、荒野と砂漠、そして荒地が花を咲かせて神の栄光の輝きが現わされるように、盲人や耳や足、そして口の不自由な者たちが解放されることによって、神の栄光の輝きが現わされます。生涯一度も歩けなかった者が、メシア王国においては鹿のように飛び跳ねるようなことが起きるのです。立ち上がる程度のことではないのです。言葉を話せなかった者が神を喜び賛美するようになるのです。
  • それゆえ、「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。」(イザヤ35:3)と呼びかけています。この呼びかけは新約聖書のヘブル人への手紙の12章12節にも引用されています。つまり今ある困難や試練を、やがて想像し得ないような主のわざが現われることを想起させることで励ましているのです。確かな真の希望は終末論的な視点から語られる時に力を持ちます。ですから、神のマスタープランをしっかりと学ぶ必要があるのです。たとえ、今の世で、目や足が不自由であったとしても、それで終わることなく、必ずや神のわざが現わされる時が来るとイェシュアが語っていることを信じなければなりません。メシア王国において、楽しみと喜びをもって神の栄光の輝きを現わすことができるのは、神のわざが現わされるために「選ばれた者たち(今の世で障がいをもった人々)」であるはずです。

3. シオンへの大路(離散の民のシオンへの帰還)

【新改訳改訂第3版】イザヤ書35章8~10節
8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
10 【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

  • 「大路」と訳されたヘブル語の「マスルール」(מַסְלוּל)がこの箇所(35:8)にしか使われていない語彙であることが気になります。というのは、新改訳では「大路」という言葉が全部で26回(そのうちイザヤ書は9回)使われていますが、それらはみな「メシッラー」(מְסִלָּה)という語彙です。語彙は異なりますが、いずれも「積み上げる、(土を)盛り上げる、道を備える」という意味の「サーラル」(סָלַל)という同じ動詞が語源となっています。イザヤ書35章8節の「大路」は「聖なる道と呼ばれる」とあるように、他の「大路」とは区別される「贖われた者たち」のための特別な道で、「汚れた者」は決して通ることができない道のようです。しかも、そこは主ご自身が「贖われた者たち」の先頭に立って歩まれる道なのです。
  • 9節と10節に「贖われた者」という言葉がありますが、原文ではそれぞれの節には異なる語彙が使われています。9節の「贖われた者」とは、動詞「ガーアル」(גָּאַל)の受動態分詞複数が使われており、落ちぶれた境遇から救出されて、本来の所有者のもとへ帰ることを意味します。救出は消極的な面で、権利の復権は積極的な面を表わしています。ちなみに、新共同訳はこの9節を「解き放たれた人々」と訳しています。10節の「贖われた者」とは、動詞「パーダー」(פָּדָה)の受動態分詞複数が使われています。その意味するところは、買い戻しのために代価を支払われるという意味があります。ちなみに、岩波訳は「買い戻された者」と訳しています。出エジプト記12章では、初子は羊の血(いのち)という代価(身代り)によってそのいのちを買い戻されています。
  • この預言がバビロン捕囚からの解放と異なるのは、シオンに帰還するに際して「そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない」とあるように完全な安全の保障があること、そして贖われた者たちの頭には消えることのない「とこしえの喜びをいただく」とあるからです。


最後に

  • イザヤ書35章は、贖われたイスラエルの民に与えられる最終的な福音的使信です。これがイザヤ書の後半(40~66章)の預言と密接に結びつけられています。


脚注1
●不毛の地が変貌して植物が園のように生い茂る(自然や人々が歓喜する)様は、第二イザヤと言われる40~55章(41:19、42:11、43:19~20、51:3、55:12~13)、および第三イザヤと言われる56~66章(60:13など)にも描写されています。

脚注2
「楽しみ」と「喜び」はメシア王国を特徴づける重要な語彙です。イザヤ書35章には多くの「喜び」を表わす語彙があります。

(1) 1節「楽しむ」・・原語は動詞の「ソース」(שׂוֹשׂ)で、「喜ぶ」とも訳されます。旧約全体では26回。申命記(4回)、詩篇(7回)、そしてイザヤ書(9回)に多く使われています。イザヤ書では35章に1回、あとは61章(10, 10節)、62章(5節)、64章(5節)、65章(18, 19節)、66章(10, 14節)です。
(2) 1, 2節「喜ぶ」・・原語は動詞の「ギール」(גִיל)で、こおどりするような喜びです。
(3) 2節「喜び」・・原語は名詞の「ギーラー」(גִּילָה)で、「歓喜」を意味します。
(4) 2, 6節「「喜び歌う」・・原語は動詞の「ラーナン」(רָנַן)で、なりふりかまわない喜び、歓喜の叫びを表わします。
(5) 10節「喜び歌い」・・原語は動詞「ラーナン」の名詞「リンナー」(רִנָּה)で歓声を意味します。
(6) 10, 10節「喜び」・・原語は名詞の「シムハー」(שִׂמְחָה)で、楽しみ、喜び、陽気、歓喜を表わします。
(7) 10節「楽しみ」・・原語は名詞の「サーソーン」(שָׂשׂוֹן)で、喜びとも訳されます。


●「楽しみ」「喜び」「歓喜」といった語彙の意味を厳密に理解するよりも、これらはみな同義だと考えることがふさわしいように思います。なぜなら、メシア王国の基調はかつての「ダビデの幕屋」がそうであったように、「爆発的な喜び」です。そもそも「ダビデの幕屋」は、本体であるメシア王国の写しであり、型なのです。
●その「爆発的な喜び」をイメージさせるひとつのVTRがあります。以下がそうです。
Paul Wilbur のエルサレムでのライブ(1)
⇒Paul Wilbur のエルサレムでのライブ(2)
を参照のこと。
●イスラエルでは「喜び」をマイナー(短調)で表現するのです。


2014.9.20


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