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詩130篇/B

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瞑想Ps130/B

◆この詩篇は「悔い改めの詩篇」と呼ばれる七つの詩篇の第6番目に当たるものとされています。主の前に背信の罪を犯して、神から捨てられ、今や、その犯した罪の淵から切に主を呼び求めている姿があります。この作者はイスラエルを代表する者であり、希望と光を失った神の民に向かって、神のことばによって、再び望みを抱いて新たに立ち上がるように励ましています。

◆昔、「スゴロク」というゲームがありました。ゴールの一歩手前に進むと、最初に戻ってしまうという穴がありました。もう一度最初からやり直しを余儀なくされてしまうことがあります。これはゲームですが、信仰の世界の巡礼の旅においても、似たようなことがあります。これは神の許しの中にある信頼のテストなのです。

◆果たして、自分の罪によって「深い淵」に立たされた経験がこれまでの自分の人生にあったかどうかを振り返ってみよう。自分ではどうすることもできない、これで自分の人生は終わってしまうのかと絶望したことがあったかどうか。ただ、主を黙って待ち望む状況に置かれたことがあったかどうかを・・・。

◆天旅の巡礼において、そうした体験は決して無駄ではなく、大きな意味を持っている。詩篇40篇の作者も「滅びの穴」「泥沼」から主によって引き上げられる経験をしている。そしてそのことを通して、主は自分の口に、新しい歌をさ授けられたとあかししている。歌が好きだから歌うのてせはなく、神が口に新しい歌を授けて下さったがゆえに、歌うのだと。

◆私の人生にも、自分なりの「深い淵」があった。しかもそれは自分の罪のゆえにもたらされた結果であった。そのなかで、私が悔い改め、主の恵みと贖いを待ち望んだとき、確かに、主は私をその深い淵から引き上げてくださった。それゆえ、私は主に贖われた者として、主に感謝しつつ生きる者とされています。

◆たとえ、自分の犯した罪のゆえの「深い淵」であっても、神はチャンスをくださっている。そこに主が共にいてくださっている。主は身を低くして、私の「深い淵」にまで来て下さり、共に、そこから救いそうとしてくださっている。なんと幸いなことだろう。それゆえ、どんな失敗を犯した者であったとしても、見捨てられて当然の者であったとしても、再び、再起することができるのです。

◆「深い淵」に置かれることは、決して見捨てられたことではなく、愛と恵みに満ちた神を新たに見出すことにつながる神の恩寵に支配されているのです。主を信頼して、主を待ち望むことができることさえも、神の恩寵なのです。

  • 作者は「主を待て。主には恵み(ヘセド)があり、豊かな贖い(ペドゥート)がある。主は、すべての不義からイスラエルを(あなたを)贖い出される。」(8節)と語っています。

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