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詩46篇/B

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瞑想Ps46/B

◆ルターが詩篇46篇をもとに讃美歌を作りましたが、その背景には、当時の教会における現実的な信仰の戦いがあったようです。カトリック教会の諮問裁判の折り、「われここに立つ」と言って、「信仰による救い」をはっきりと主張した彼の姿勢の中に、詩篇46篇の中心テーマ「神がわれらとともにおられる」という信仰に立とうとしているのがわかります。

◆この詩篇はこれまでもいろいろな角度から味わってきましたが、今回は各段落に置かれている「セラ」ということばに注目したいと思います。おそらく音楽的用語だと思いますが、詩篇の中では71回使われているようです。詩46篇では3回、段落ごとに置かれています。この「セラ」ということばが意味するものはいったい何なのか。

◆数年前から、私たちの教会では「セラ」を「完全休息」という意味で使っています。たとえば、明日が月曜日だとすると、「良いセラを」と言って別れの挨拶をしています。あえて「セラ」の時を持つのです。日々の生活とは異なった休息の時です。人によってその休息の過ごし方は違います。夫婦で過ごしたり、ドライブをしたり、自分の好きなことをしたり、からだを休めます。神様のための働きも休む意味でのセラです。

◆このように狭義の「セラ」の時を持つと同時に、ライフスタイルとしての広義な「セラ」があります。つまり、「神を信じることによる休息」をもったライフスタイルです。詩46篇でいうならば、10節の「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」ということになります。この10節もいろいろな聖書で調べてみると面白いですが、一言でいうならば、「静まること、一人になること、沈黙すること、止まること」です。人通りから離れ、愛の眼差しを神にじっと注ぐことです。現代の競争社会、生産性を重視する社会、活動主義にみちた社会の中で、こうしたセラ的な生き方をすることはとても難しい時代だと思います。ある人にとってそうした生き方に罪悪感さえ覚える人もいるほどです。しかし、神を知り、神を親しく知るためには神との交わりのために時間をとり、じっとして静まり、神の御前で耳を澄まして待ち望むという生活の訓練がなくては、霊的生活に深みを増すことは望めないと信じます。

◆イエス様が嵐にもかかわらず、湖の舟の中で眠っておられた姿は理想的な「セラ」の模範です。イエス様は御父に対する信頼の中で安息を得ていました。そのイエス様が私たちにも呼び掛けています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたし のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11章28~30節) ライフスタイルとしての「セラ」は、この約束された「たましいの安らぎ」にあると信じます。

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