****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

詩54篇/B

Ⅱ/B(42~72篇) | テキストPs54 | 原典テキストPs54 | 瞑想Ps54/A | 礼拝用語Ps54 | 恩寵用語Ps54? |

瞑想Ps54/B

◆神がひとたび選んだ者に対していかに見事に守って下さるか、そのお手並みを拝見させられるのが、この詩篇54篇です。ダビデは4節で次のような信仰告白をしています。「まことに、神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方です。」 この告白は、自分の敵に対して敵と対峙せず、常に、自分と敵の間に神を入れようとする心の構えと言えます。自分で自分を守ることも、自分から敵と戦うことをしないという告白として、これまで「私の盾は神にあり」というフレーズも同じ信仰の姿勢を表すものと言えます。自分で自分を守らないという「無防備の構え」、これが4節の意味する告白です。7節では、「神はすべての苦難から私を救い出し」(新改訳)「主は苦難から常に救い出してくださいます。」(新共同訳)とさらに補足しています。

◆さらなる補足として、神に感謝する理由を、最後の節で「私の目が私の敵をながめるようにしてくださったから」と言っています。口語訳では「わたしの目に、敵の敗北を見させられたからです」 関根訳では「わが眼は、敵がどうなるかを見たようです。」 岩波訳では「わが目が、わが敵どもを見おろしたからです。」と訳されています。これらを見ると、常に、自分を客観的な視点から見ています。こうした信仰のあり方こそ、「詩篇の瞑想」が目指すところではないかと思います。

◆イエスも「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出す」(マタイ16:25)と言われました。 使徒パウロもローマ書8章で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」・・敵対できる者はだれひとりいない、神の愛から引き離すことのできる者はだれもいないという力強い告白をしています。それは一見、「無防備」に見えながら、最も完璧な神の防備の中にいることの喜びです。こんな喜びと感謝の歩みの中に、主とともに歩みたいと祈ります。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional