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謙遜と高挙

7. 謙遜と高挙

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はじめに

  • 2011年の正月からの「謙遜への招き」シリーズは今回が最終回です。タイトルは「謙遜と高挙」としました。「高挙」ということばは日本語の辞書に出てきません。キリスト教の専門用語で「神によって高く挙げられること、引き上げられること、lift upされることー」を意味します。人々から賞賛されて高められることでも、感情が鼓舞されて昂揚することでもありません。神によって高く上げられること、それが「高挙」です。キリスト教の専門用語と言いましたが、実は、聖書にも使われていない神学用語です。
  • 「謙遜と高挙」この二つを含んだ聖書のことばをまず見てみましょう。
    • (1) マタイ23:12、ルカ14:11/18:14
      「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」
    • (2) ヤコブの手紙 4章6, 10節
      「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる・・・主の御前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」
    • (3) ペテロの手紙第一、5章6節
      「・・あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に()、あなたがたを高くしてくださるためです。」
    • ここでの「時」とはカイロスκαιροςで、神が定めている時という意味です

1. 主の御前でへりくだる

  • イエスが語られたとする「自分を低くする者は高くされます。」の「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。使徒ヤコブとペテロの手紙では、いずれも「主の御前にへりくだりなさい」、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。」となっています。
  • 日本には古くから「謙譲の美徳」ということばがあります。これは日本人の考える「謙遜」ということをよく表しています。その意味するところは、例えば、だれかに、飲み物や食べ物を勧める場合に、どんなにおいしい物を勧める時でも、「何もございませんが、どうぞお召し上がり下さい」と言います。知人にお土産を持って行った場合でも、「つまらない物ですが、どうぞ」と言って上げたりします。しかし、このような言い方は日本人特有の言い方です。
  • 欧米諸国は、個人の能力を非常に尊重する文化を持っているので、自分は他の人とどの点が優れているか、違っているか、自分には何が出来るかということを他人に示そうという文化があります。ですから、人前で家族が褒められた場合、「そうなんです。うちの主人は料理や洗濯を手伝ってくれて、とてもいい主人なんです。子どもたちも私が何も言わなくても勉強をよくするし、本当に良い子どもなんです。」と平気で言いますが、日本の場合では、「この人なんと高慢なの」と思われて、そこで人間関係が壊れてしまいます。
  • 「謙譲の美徳」というのは、自分や自分の家族を実際より低く見せることによって相手を高めて尊敬しようというかかわりです。そうした気持ちを大切にします。ですから、何か物を出す時に「何もございませんがどうぞ」とか、「つまらない物ですけどどうぞ」とかいう言い方が使われるわけです。これは相手の目線を気にする文化、自分が相手からどう思われているだろうかという日本特有の「恥の文化」から生まれた美徳かもしれません。人に嫌われたくない、人から悪く言われたくない、人から憎まれたくない。そんなかかわり方の中で、「謙譲の美徳」ということばが生まれたと考えます。「お子さんはよく勉強ができますね」と言われても、「いいえ、そんなことはありません。うちの子は遊んでばかりいて、もう少し勉強に力を入れてほしいと思っているんですが」と否定的なことを言うことのほうが、相手とうまくやっていく方法だと学んでいるのです。
  • 「謙譲」ということば自体、相手を非常に意識した語彙です。しかし聖書のいう「へりくだり」(謙遜)は、「謙譲の美徳」とは全く異なるものです。聖書のいう「謙遜(へりくだり)」は、「主の御前にへりくだること」、「神の力強い御手の下にへりくだること」が、聖書のいうほんとうの「謙遜」です。このことを共に考えてみたいと思います。

2. ヨブに見る謙遜と高挙

  • 真の謙遜のしるしがあるとすれば、それはただひとつです。神に対して「Say, Yes」(「はい。」)と言えることです。どんなときにも。どんな状況に置かれても、です。ところが、それが難しいのです。
  • ヨブという人物は、神様からのお墨付きがあるほどに義しい人物でした。聖書にはこうあります。「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」と(ヨブ記1:8) そこで、サタンは神に言います。「そうかもしれませんが、もし彼のすべてを奪い取ったら、きっと彼はあなたに向ってのろうに違いありません。」と食い下がります。そこで、神はサタンにヨブを殺さないことを条件に、その試練に合わせる許可を与えました。―これは神とサタンとの天上におけるやりとりです。そんなことがあったとはヨブも、そしてだれも知りません。
  • その結果、ヨブは自分の7人の息子たち、3人の娘たちの全員だけでなく、すべての財産を失います。それだけでなく、自分の体には全身デキモノができてそのかゆさのゆえに大変な苦しみをしたのです。ヨブにはどうしても腑に落ちません。「なぜ、どうして」と神に問いかけていくのがヨブ記なのです。ヨブの場合の問いかけは、なぜ、義人が苦しむのかという問いかけです。
  • 原因と結果の法則」―これは重要な真理です。ある結果(目に見える現実、現象には、そこに至った原因が必ずある」という見方が「原因と結果の法則」です。
  • アメリカの人気ドラマに「ドクター・ハウス」というのがあります。人間的に癖のあるドクターですが、他の医師には絶対に分からないような病気の原因を見事に発見して、治療してしまうというドラマです。
  • ところが、ヨブの場合、この「原因と結果の法則」に当てはまりません。ヨブは自分の7人の息子たち、3人の娘たちの全員だけでなく、すべての財産を失いました。それだけでなく、自分の体には全身デキモノができてそのかゆさのゆえに大変な苦しみをしている。そんなヨブに対して、彼の奥さんもすごい人です。火に油を注ぐように、「あなた、神を呪って死になさい。」と言う。どこにも助けがない、こんな状態でいったい生きている意味があるのか、そんな苦悩の中にさらに、ヨブの友人たちが3人(後からもう1人)ヨブを慰めるためにやって来た。こんな病気になるのには、あなたが罪を犯したからで、その罪を悔い改めるべきだとヨブに進言する。ヨブはそんな罪を決して犯していないーこれは正しいーと主張するが、友人たちはヨブの主張に耳を貸さない。きっと罪を犯したからに違いないと決め込んでいる。もう一人の友人は神がお前を教育するためにそうしているだと言う。これらすべて「原因と結果の法則」の中にあります。
  • ヨブには彼らのいう「原因と結果の法則」が受け入れられませんでした。そして、ヨブの苦悩はますます強くなって、神に直接問いかけていく。「自分にはこんな悲惨な現実を経験するような罪を何一つ犯していません。それなのにどうしてですか。不条理です。」とヨブは神に問いかけます。これがヨブ記です。ではこのヨブの問いかけに対して、神はどう答えられたのでしょうか。 38章から神が「嵐の中から」ヨブに直接語りかけます。面白いことに、ヨブの問いかけに対しては一切答えずに、こう仰せられたのです。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、わたしはあなたに尋ねる。わたしに答えよ。」と言って、神もヨブに問いかけます。お前は「正しい自分が苦しむのはなぜか」と問いかけているが、それをともに考えてみようということになる。そして38章から42章まで、神がヨブに問いかけ続けます。「おまえは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩きまわったことがあるのか」とか、「おまえは地の広さを見極めたことがあるのか」とか、「そのすべてを知っているなら、告げてみよ」とたたみかけます。神はヨブに人間の知恵では計り知れないことを語っていく。つまり、神の答えとしては、人間には分からないことが多くあるという事実を突きつけながら、ヨブの提起した問いかけーつまり、なぜ義人が苦しむのかという問題は神に対してするのはおがましい、僭越だということなのです。あらゆることが計り知れない神の御旨から出ているという事実、そしてなぜかその理由はわからないけれども、神様には間違いがないという信頼をもって神の前にひれ伏すことができるか、というのが神の問いかけだったのです。
  • ヨブの場合、確かに神を信じているのですが、「正しい者はこんな目に遭うはずがない、あってはならない」という自分の考えを主張しているのです。言うなれば、我意を主張しているわけです。神のなさることには私たちが分からないことが多くあるのだと受け止めて、神に対して「Say,Yes」と言えることが、真のへりくだりなのだということが、聖書の言わんとするところなのです。
  • ヨブは神が言っていることを次第にこのことを理解し、最後の42章においては、神の「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」との問いに対して、「それは私です」と答えます。自分には知り得ないことが多くあることを認め、自分がこれまで「なぜ義人が苦しむのか。それはおかしい。」という自分の考えを主張したことが、神の御前では僭越であったことを認め、悔い改めます。すると、ヨブは友人たちを赦すことができました。そして彼らのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらにヨブの所有物をすべて倍にしてくださったのでした。ヨブの人生の後半は実に祝福されたものとなりました。

3. イエスに見る謙遜と高挙

  • 謙遜とは、神の御前において、どこまでも「はい」、「Say, yes」という態度と行動をとることです。これはヨブだけではありません。前回、使徒パウロのとげについて話しました。彼は自分に与えられた「とげ」を取り去ってくださるように3度も祈りましたがかなえられませんでした。そして、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現われるから」という主のことばに対して、パウロは「はい」と受けとめたのです。
  • 使徒ペテロの場合も同じです。「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい。」「主よ。それはできません。わたしはまだ一度も、良くない物を食べたことがありません。」―このやりとりは3回あったと聖書は記しています。ユダヤ人が異邦人を受け入れることはとても困難な時代に、主はを通して、そのことをペテロに受けとめさせたのです。結果としては、ペテロは「はい」と受け止めたのです。しかし事はそう簡単ではありません。迷いが常にありました。そうした甘さを、ガラテヤ書でパウロから指摘され、叱責されています。
  • イエスの場合はどうでしょうか。ゲッセマネの祈りにおいて、「父よ。どうしてもこの杯を避けることができないのですか。」と食い下がりますが、父の答えは無言でした。その無言が答えでした。そして御子イエスは「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と言って、十字架の道を進んで行くのです。そのことは前からわかっていたことなのですが、いざ、そのことが目の前に迫ったとき、イエスは身悶えされたのです。私たちと同じように弱さをまとわれていたからです。
  • 十字架は壮絶な痛みを伴う刑罰です。しかも極悪人がつけられる恥辱に満ちた刑でした。しかし御子イエスは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方におまかせになりました。―ここにイエスの謙遜の極みがあります。使徒パウロはピリピ2章でこう表現しています。「キリストは、・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死までも従われたのです。」(2:6~8) 「無にして、仕える、卑しくし、従う」ということばが羅列されていますが、最後の「従われた」ということが、換言すると、「はい」、「Say, Yes」なのです。

4. イエスに見る高挙

(1) キリストの高挙の事実

  • 「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:9) ここで大切なのは、神が(御父)が御子イエスを高く上げられたということです。ここには御子の御父に対する謙遜の極みを見たからです。だから「それゆえ」なのです。主の十字架の死にまで従順であられた事に対する御父からの報いです。
  • 私たちに対しても、聖書は「主の御前にへりくだりなさい。 そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」という約束があります。しかし、イエスの場合の「高くする」というのと、私たちの場合の「高くする」ということには違いがあります。そもそもそこに使われていることばが違うのです。
    画像の説明
  • イエスの場合の「高く上げて」ということばのギリシャ語は「ヒュペルプソオー」です。このことばはピリピ2:9にのみ使われていることばです。「ヒュプソオー」の前に、英語ではsupperを意味する「ヒュペル」という前置詞がついて、「ヒュペルプソオー」なのです。日本語ではどちらも「高く上げて」というふうに訳されますが、原文を見るとその違いが分かります。
  • しかも、キリストに対する報いのもう一つの面は、神がキリストに(御父が御子に)「すべての名にまさる名をお与えになった」ことです。「お与えになった」ということぱも、特別な好意をもって、もったいぶらずに、惜しげもなくという意味合いをもった「与える」ということばです。「すべての名にまさる名」とは、あらゆる被造物―サタンも御使い(ガブリエル、ミカエル)も被造物ですーにまさる地位、尊厳、力、栄光、威厳、権威、といったことを指しています。この地上に存在したすぐれた神の人―モーセ、ダビデ、イザヤ、パウロ、などの偉大な人物にも勝った存在です。
  • その「すべての名にまさる名」とは、具体的にどんな名前かというならば、それは名は「イエスの御名」です。これはイエスが十字架と復活の後、御父の右に座した時に与えられた最も権威にみちた名前なのです。それが「イエスの御名」です。The name of Jesus です。

(2) キリストの高挙の目的

  • 「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ」(2:10,11前半)とあるように、すべてのものが主イエス・キリストを礼拝し、あがめるために、御父である神は御子を高く挙げられたのです。

(3) キリストの高挙の結果

  • あらゆるものがイエスを礼拝して、その主権が認められるとき、「父なる神がほめたたえられ」(11節後半)ます。キリストが高く挙げられた結果として、父なる神がほめたたえられるのです。それは、キリストがご自分に与えられた栄誉(栄光)を父なる神に帰するからです。父なる神はイエスによって栄光を受けられるのです。ここに神の奥深い真理を垣間見ます。
  • 私たちは信仰によってキリストと結びつくことによって、キリストとともに、高く引き上げられ、父なる神に栄光を帰すものとなるのです。何かの働きをすることによって父に直接栄光を帰することはできません。ただ、キリストに結びつくことによってのみ栄光を父なる神に帰すことができるのです。私たちが信仰によってなすことは、私たちの主から与えられるものです。あるいは、主キリストから遣わされた聖霊、御父から遣わされた聖霊によってのみなすことができるのです。そのことによって、私たちは主なるキリストとともに、すべての栄光を父に返すことができるのです。

最後に

  • この世界には、二つの国しか有りません。神の王国(神をすべてとする国)か、それともサタンの王国(自分をすべてとする国)かどちからです。私たちは自分がどこの世界に住むかをはっきりと心に定めなければなりません。

    画像の説明


2011.3.20


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