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謙遜を喪失させる高ぶりの罪

5. 謙遜を喪失させる高ぶりの罪

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はじめに

  • 「謙遜への招き」シリーズでは、イエス・キリストが私たちに教えた「謙遜」(へりくだり)についての教えを取り上げてきました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:29~30) ここには「へりくだりへの招きとその祝福」が述べられています。「わたしは心優しく、へりくだっている」とイエスは言われましたが、まさに、イエス・キリストは「へりくだり」―謙遜―を形にしてみせてくださった方です。
  • それは、御父とのかかわりにおいて、自分の思いや考えではなく、すべて御父の心を照らし出し、反映させて生きる生き方でした。御父が御子のすべてとなられる歩みでした。またイエスは御父に対してだけでなく、私たち人間のためにもしもべとして「仕える」という形において謙遜をあらわされただけでなく、被造物である私たちが本来の神との正しいかかわりを回復するために、神であるお方が私たちと同じ姿となってくださってくださり、正しいかかわりの模範となってくださったのです。
  • 聖書のいう「救い」とは、被造物である私たちを本来の正しい位置へと復帰させることです。その正しい位置とは、創造者である神と被造物である私たちのあるべき正しいかかわりです。「謙遜」とは、まさに本来の被造物としての立場に私たちが自らを置くことを意味します。しかし、その復帰への道を開くことは簡単ではありませんでした。神がその全能の力を傾けてくださるほどの戦いがあったのです。その戦いのドラマの頂点こそイエス・キリストの十字架の死と復活の出来事です。

1. 神は、心砕かれて、へりくだった人とともに住む

  • イザヤ書57章15節にはこうあります。

    「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」

  • イザヤ57:15のみことばには、主は「へりくだった者と共に住む」ということが語られています。しかし、その「へりくだった人」とは、心砕かれた人のことです。人の心の何が砕かれたのでしょうか。人の何が砕かれなければならなかったのでしょうか。それは人の心にある「高ぶり」です。
  • 詩篇90篇には「あなたは私たちの永遠の住まいです」という告白に続いて、「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』と。」 ここでの「ちり」とは、人を土のちりで造ったという「ちり」ではなく、「打ち砕く」という動詞がもとになっている名詞です。神によって打ち砕かれて粉々にされるという意味です。つまり、神は人の高ぶりを打ち砕いて、悔い改めさせて、自分のもとへ帰ってくるように招いておられるのです。悔い改めて、神のもとに帰るためには、神はそとの人の高慢(高ぶり)を打ち砕かれるのです。その意味では、「打ち砕き」は恩寵的行為と言えます。
  • ルカ15章でイエスが語られた放蕩息子の話がそうです。彼は父から財産の分け前をもらって、できるだけ父から遠く離れて、自分のしたいように生きようとしました。財産をもっていたので、当初、彼の周りには人が集まってきました。ところが、その財産を湯水のように使い果たし、しかも飢饉が襲ったとき、人々は彼から離れ、食べるものにも困り果て、豚の餌で腹を満たしたいと思うほどひもじい思いをするようになりました。だれひとり彼に食べ物を与えようとはしなかったのです。そのとき、彼はふと我に帰ったのです。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに私は飢え死にしそうだ。そうだ、父のところに行って、私はあなたに対して罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありませんが、雇い人のひとりにしてください、と言おう。そう言って、彼は父のもとに帰っていったのです。するとどうですか。父の方が彼を見つけたのです。そして、死んでいた息子が帰って来たと言って父は大喜びをし、息子としてふさわしく歓迎したのです。
  • この放蕩息子の話は、詩篇90篇にある「あなたは私たちの永遠の住まいです。・・あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』と。」というみことばの良い註解です。自分の思いが砕かれて、ひもじい思いを経験して、再び、父の家に帰ること。そして父の息子として再び迎え入れられて父の愛のもとに生きること。父のもっているすべてのものによって生きること、これが「へりくだる」ことであり、「謙遜」への道なのです。
  • しかし私たちがへりくだりに伴う祝福を保持していくためには、サタンが背後であやつっている「高慢」、「高ぶり」、「傲慢」という罪深き力に対して戦う必要があるのです。「『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」という主の約束が私のうちに実現するためには、私たちのうちに働く「高ぶり」、高慢、傲慢という罪の力に対して戦う必要があるのです。具体的には、十字架の小羊の血潮のもとに、日々、自分のプライドを携えなくてはなりません。そのとき、私たちは「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」との神の約束を経験することになるのです。
  • 「わたしは心優しくへりくだっているから、わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われた主イエスは、ご自身に従う者たちにも同様のへりくだりの衣を与えたいと切望しておられます。なぜなら、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)方だからです。
  • 「神は高ぶる者を退け」るとは神の容赦ない態度です。神は高ぶる者に対して恵みの御手を退けられるばかりでなく、高ぶる者に敵対される方です。これほど恐しいことはありません。神は、私たちの高ぶりのゆえに私たちは神から退けられ、しかも敵対されるのです。高ぶりのゆえに、私たちの祈りに答えるのを拒まれます。私たちの高ぶりのゆえに神が私たちを祝福することができないのです。このように高ぶりの罪は神が最も嫌われる罪なのです。このように、神である主は「高ぶる者には、きびしく報いをされる」(詩31:23)方なのです。

2. 謙遜を妨げる高ぶりの罪

(1) 高ぶりは破滅に先立つ

  • 箴言16:18のみことばを見てみましょう。

    〔新改訳〕
    「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」
    〔新共同訳〕
    「痛手に先立つのは驕り。 つまずきに先立つのは高慢な霊。」
    〔リビング・バイブル訳〕
    「プライドが高すぎると身を滅ぼし、なまいきなことばかりしていると失敗します。」

  • このみことばは、私たちの人生の失敗や倒れ、破滅の前には必ずと言っていいほど、「高ぶり」が存在しているということを言っているのです。よく考えてみてください。自分はもとより、人の失敗や挫折の背後を見てもわかるように、高ぶりの罪があるのです。このことに気づくことが大切です。気づかなければ、「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』」との神の声を聞くことになります。
  • 「謙遜への招き」シリーズ第五回目の今朝は、神と私たちの本来あるべき正しいかかわりとしての「へりくだり」、「謙遜」を阻む力、あるいはそれを喪失させる「高ぶりという罪」の力に注目したいと思います。「高ぶり」は被造物である私たちが本来の立場に自分を置くことを妨げる根源的な罪といえます。

(2) 高ぶりの正体

  • 聖書には「高ぶりの正体」がなんであるかを教えている箇所があります。その一つを先ずとりあげましょう。高ぶりはすべての罪の根源です。最も悪魔的な罪です。悪魔の化身となった蛇はアダムとエバのもとに来て狡猾にこう言いました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならないと、と神はほんとうに言われたのですか。」―これは実に狡猾な質問なのです。はっきりと神から「食べてはならない」と言われていたことに対して、わずかに疑問の入る隙を作られる問いかけです。エバは答えました。「食べて良いのでするただし、園の中央にある木の実については、神は「それを食べてはならない。それに触れてもいけない。それはあなたがたが死ぬといけないからだ。」と言われました。―と答えたのです。その時です。狡猾に蛇はすかさず、断定するように、「あなたがたは死にません」という知識を与えたのです。さらに付け加えるようにして、「あなたがたがそれーつまり、園の中央にある善悪の知識の来―を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」とも言ったのです。だから、あなたがたに神はそれを食べてはならないと言っているのですという知識を与えました。なんと、アダムとエバは蛇の言う事を信じてしまったのです。
  • 「あなたがたが神のようになる」ということばはなんと魅惑的でしょうか。これは何を意味しているでしょうか。あなたは神のように自分が善と思えば善で、あなたが悪だと思えば悪なのです。その善悪の基準はあなたがた自身が自由に決めれば良いことです。なぜならあなたが神なのですから。あなたは神のようになにごとも自分を中心にして考え、行えばよいのです。あなたが神のように判断し、すべてをさばき、批判し、自分の思いが正しいとしてよいのです。
  • 「神のようになる」、「神のようになりたい」―これが高ぶりの本質です。そしてそこから多くの罪が派生してきます。エゴイズムも、わがままも、感謝の思いの欠如も、権力欲や支配欲、怒り、うぬぼれ、虚栄心、自己憐憫、中傷、自己正当化、反抗、批判、さばき、不従順、不信仰、立腹、いらだち、裏切り、詮索、ねたみ、人の関心を引き、人から認められたい、ほめられたい、人からの賞賛を得たいという思い・・など。これらはすべて、高慢、高ぶりがもたらす罪悪の実なのです。
  • 「私は神のようになりたいなんて思ってはいません」と言っても、私たちの先祖が「神のようになりたい」いう選択をしてしまったのですから、その呪いは私たちにもDNAのように組み込まれているのです。私たちの生まれてくる存在そのものが、「神のようになりたい」と言わなくても、「神のようになる」ようになっているのです。これを使徒パウロは「罪と死の法則」と言いました。「法則」(あるいは、原理)である以上、人間の力や努力では勝ち目はないと言っているのです。法則に逆らうということは、引力の法則に逆らうようなものです。少しは頑張って逆らえるでしょうが、やがては疲れ果ててしまいます。高ぶりの背後には、私たち人間の力にまさる悪の力が絶えず、休むことなく働いているのです。

(3) 高ぶりの働く領域―高ぶりの侵入口―

① 自然体に感じる事柄を通して
高ぶりはどのような領域において働くのでしょうか。アダムとエバに対する蛇の誘惑に話を戻すと、高ぶりが侵入する隙間は、一見、とても自然なように、常識的に思えるという点です。蛇が木の実を食べても死にません。それを食べるとあなたがたが神のようになり・・・」と説明されるのを聞いた後で、その木を見ると「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするといその木はいかにも好ましかった。」と記されています。

  • この箇所をリビング・バイブルで読んでみると、こうです。
    「言われてみれば、そう思えないこともありません。それにその実はとてもきれいで、おいしそうなのです。」今にも食べるにふさわしく実をつけているではないか。今にも食べてくださいというように、実をつけている、なんと、あまりに自然体です。
  • そうです。高ぶりの侵入口は、私たちが自然体と考えているところ、思っているところにあるのです。ですから、高ぶりの罪になかなか気づかないのです。高ぶりの罪は、気づいたときにはもう手遅れという性質をもっているのです。

②私たちの長所、すばらしい経験
もう一つの侵入口は、私たちの長所、素晴らしい経験、すぐれた能力といったところにあります。よく「あなたの長所があなたの欠点です」と言われることがあります。真理を言い当てています。

  • 私たちが神に敵対する最も力ある存在を「サタン」(悪魔)と言います。しかしはじめから「悪魔」(サタン)であったわけではありません。イザヤ書14章12~15節を開いてみましょう。
  • イザヤ書14章12節~15節を開いてみましょう。

    「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。
    国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
    あなたは心の中で言った。『わたしは天に上ろう。・・・いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

  • ここにはかつて世界を支配したバビロンについての徹底的なさはぎについて語られています。しかしはじめからそうであったわけではありません。12節にはバビロンが「暁の子、明けの明星」と言われて言います。「明けの明星」とは「最も輝いている者」という意味です。この上なく美しく輝いている存在です。キリスト教の教父たちはこの「明けの明星」を「ルシファー」と訳しました。その「ルシファー」、つまり、明けの明星に対して、「どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。」と問いかけています。そしてその後に、天から落ちた理由が示されています。それによれば、13節「あなたは心の中で言った。『わたしは天に上ろう。・・・いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」 ルシファーは心の中で5回も「私は・・・しよう」ということばが並んでいます。つまり、ルシファーは自分の心を激しい反逆で満たしたのです。本来神に仕えるために創造された最も力ある天使、最も美しく知恵のある御使が、神に対して「私がボスになりたい」と思ったのです。「わたしは天に上ろう」ということばがそれをよく表現しています。神を押しのけて私が天のボスの位置について、「いと高き方のようになろう」と望んだのです。その結果が「よみに落とされ、穴の底に落とされる」ことになったのです。
  • 蛇であるサタンは、本来、神がお造りになったものの中で最も美しく、最も知恵ある存在、最も輝く存在で「ルシファー」と呼ばれていました。ところが、彼に与えられた良いところが欠点となりました。「ルシファー」は自分が「神のようになりたい」と思ったのです。これが高慢です。それゆえ彼は神にさばかれ、奈落の下に落とされました。彼は神に敵対する者となり、神を最も苦しめるために、神が最も愛している人間を誘惑して、自分と同じ思いを持つようにさせて、同じ穴の下に立場に陥れることでした。

3. 高ぶりの罪から守られるために、自分が被造物であるという意識を持つこと

  • 聖書のいう「救い」とは、被造物である私たちを本来の正しい位置へと復帰させることです。その正しい位置とは、創造者である神と被造物である私たちのあるべき正しいかかわりです。謙遜とは、本来の被造物としての立場に自らを置くことを意味します。そして、被造物である私たちが本来の立場に自分を置くことを妨げる根源的な罪こそ、「高ぶり」なのです。逆に言うならば、「謙遜」こそ、神と人とのすべてのかかわりの根源と言えます。単なる一つの徳(徳性)ではありません。
  • 謙遜を身につけるためには、自分が被造物であるという意識が必要です。つまり、自分のすべての必要は神から来る(与えられる)という意識です。神によって満たされる、生きる目的も、生きる意味もすべて、神がその答えをもっているということを認め、神が私たちのすべてのすべてとなることを受け入れる心の構えを意味しています。しかし今日、祝福が約束されている神への謙遜への招きは軽視されています。なぜなら、その招きを阻もうとしている正体、私たちの最も深い部分に働いている「高ぶり」の正体を私たちが知らずにいるからなのです。
  • イエスは「すべて疲れた人、重荷を追っている人は私のもとに来なさい。わたしはあなたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」と言われました。このイエス・キリストこそ、すべての罪悪の根源である「高ぶり」に打ち勝って、神と人に対して「へりくだり」(全き謙遜)を生きられた唯一の方なのです。謙遜(へりくだり)の祝福は、私たちに「安らぎ」を与えると約束しておられます。
  • 逆に、「高ぶり」は私たちにいつも不安と恐れ、そしてたえず何かに駆り立てられて生きることを強いられることを示唆しています。「謙遜と高慢」、「へりくだりと高ぶり」は、まさに対極の位置にあるのです。

謙遜と高慢の対極関係

  • 私たちのすぐれた所、長所、すぐれた知識、経験、健康であること、社会的な地位をもっていることなど。そうしたすべてのことが高ぶりの侵入口ともなります。
  • 私は金銀もないし、立派な家にも住んでいないから大丈夫だと思っている人がいるとすればそれは間違いです。ここでのみことばの警告は、豊かになれば、だれでも神を忘れるという高ぶりの罪が私たちのうちにあることを警告しているのです。また、豊かさを求める生き方をするならば、神を忘れることも然りなのです。そのことがイスラエルの歴史が証明しています。
  • 神の前にへりくだって祝福の道を歩くか、それとも高ぶって破滅の道を歩くか、その選択を私たちはいつも迫られているのです。あなたはどちらの道を歩もうとしているでしょうか。自分の心に問いかけてみなければなりません。

2011.2.27


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