****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

謙遜を身につける(Learn humility)

1. 謙遜を身につける(Learn humility)

はじめに

  • 元旦礼拝では、決って、ダビデのOne Thing (ただひとつのこと)を取り上げてきましたが、今年(2011)の元旦礼拝も変わりはありません。しかし、その内容は年毎に進化(深化)しています。ただ私たちがそれについて行っているかが問題です。
  • ダビデのOne Thing とは「主の家に住むこと」(ヤーシャヴ)でした。「主の家に住む」とは、なにかの活動をするということではなく、ひたすら、主の家にくつろぎながら、主のすばらしさを知るということです。主の愛、主の恵み、主のいつくしみに触れ続けることです。主とのゆるぎない愛のかかわりを築くこと、それがダビデのOne Thingでした。私たちもそのことを大切にするために「サムエル・ミニストリー」を日々しているわけですが、今年はそれをさらに進化させ、深化させて行くように導かれています。

1.  「主の家に住む」ことの三つのキーワード

  • ダビデの霊性のキーワードである「主の家に住む」を、新約聖書のことばで言い換えるならば、三つのキーワードをつくることができます。これらの三つのキーワードはみなそれぞれ密接なつながりを持っています。まず、その三つのキーワードなるものを挙げてみましょう。

    画像の説明

(1) 「キリストのくびきを負うこと」

くびき.JPG
  • 一つ目は、「キリストのくびきを負う」(マタイ11:29)ことです。二つ目は、「キリストのうちにとどまる」(ヨハネ15:5)ということです。そして三つ目は、「謙遜の限りを尽して主に仕える」ということです。これらは、表現こそ違いますが、みな同じ方向性を持っています。その方向性とは、真の「謙遜を身につける」ということです。英語で「謙遜を身につける」というのを「ラーン・ヒュミリィティ」Learn Humilityと言います。「謙遜を学ぶ」という意味です。だれから学ぶのか、人からではありません。私たちの主イエス・キリストから学ぶのです。なぜなら、真の謙遜は御子イエスのうちにみられるからです。ですから、御子イエスはマタイ11章28~29節でこう言われました。

    28すべて疲れた人、重荷を持っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
    29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

  • ここでの「わたしから学びなさい」という学びの学科は「へりくだり」です。つまり、謙遜です。謙遜こそ本来のすべての被造物のあるべき姿であり、被造物が祝福される奥義だからです。イエス・キリストという方はまさに謙遜の極み的存在です。自分から「へりくだっている」と言っています。御子として御父の前に「謙遜の限りを尽くして仕える」ために御父から遣わされてこの世に来られたからです。その御子が「わたしの謙遜というくびきを負って、わたしから学びなさい。」と招いているのです。
  • マタイの11章29節の招きは、すべて(例外なく)、疲れた人―ここでの疲れた人とは、生きることに疲れたことを意味しますが、コンテキストにおいては、主の働きをすることにおいて疲れた人という意味です。しかし、そこから派生して、主の働きをしていない人であっても、だれでも自分の人生に疲れ、生きることに疲れた人は、という意味での招きでもあります。しかし、その招きが本当に意味あるものとなるためには、「わたしのもとに来る」というだけではダメなのです。「わたしのもとに来て」、「わたしのくびきを負い、わたしから学ぶということがなければ、休むことはできない。真の安息は保証されません」とイエスはここで語っているのです。多くの人は、イエスの「これこれの人は、わたしのもとに来なさい」ということばを聞いて、イエスのもとに行くことだけをしますが、その後に語られていることをしないために、信仰から離れてしまうのです。
  • 正しい処方箋に従わなければ薬は効きません。この薬は効かないという人が、処方箋どおりにしていないことがあります。イエスの言う事を聞いて信じてみたものの、ぜんぜん幸せ感がないという人がいるならば、もしかしてイエスの言われることばの一部分だけ従っていないかもしれません。イエスは正しい処方箋を語っているのです。つまり、ここでは、「わたしは心優しく、へりくだっているから、(そのへりくだりという)わたしのくびきを負って、わたしから(へりくだり)を学びなさい。」と。これはイエス様だからこそいえることばで、私たちが言うと傲慢になります。ですから、気をつけなければなりません。

(2) 「キリストのうちにとどまること」

  • マタイ11章29節の「わたしのくびきを負う」ということばを別なことばで表現するなら、「キリストのうちにとどまる」(ヨハネ15:4)となります。「わたしのもとに来なさい。」そして「わたしのうちにとどまりなさい」とイエスは言っているのです。後者のことばは実はとても重要で、ここが欠落しているクリスチャンが多いのではないかと思います。
  • ヨハネ15書4~5節「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ実を結ぶことができません。(当たり前のこと)同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
  • 星野富弘の『鈴の鳴る道』にある随筆―「後ろ向き」
  • 星野富弘の『鈴の鳴る道』と言う「花の詩画集」が出版されています。彼の視点(目の付け所)には虚を突かれます。彼は、詩画を通して、いのちの大切さ、かかわりの大切さを声を大にしてではなく、静かに、しかも言葉少なに語っています。その本の中に彼が書いた随筆がいくつか掲載されているのですが、その中に、「後ろ向き」と題された随筆があるので、紹介したいと思います。

    「私は車椅子に乗っている間、かなりの時間を後ろ向きで進む。家のまわりは坂が多い。坂を下る時、前向きだと腕で上半身を支えられないこともあり、前に倒れそうでこわい。その点、後ろ向きならば、背もたれにどっかりと背中をあずけ、大会社の社長の椅子に腰掛けているような気分で坂をくだれる。・・・・・

    後ろ向きの威力が、最大に発揮されるのは、誰かと一緒に歩く時である。私はいつも、彼らの五、六歩前を後ろ向きに進む。ちょうど、向かい合った電車の座席にすわっているように、正面に顔を見ながら話ができ、非常に便利だ。遠くから久しぶりに訪ねてきた友人と、あぜ道を歩きながら、別れを惜しんで語りあう時など、後ろ向き車椅子は最高の乗り物となる。・・・

    思えば、私は小さい頃から、後ろ向きが好きだった。汽車に乗れば、自然と行く先に背を向けて座り、向かって来るものよりも、去ってゆくものを見送る方が好きだった。朝日よりも夕日の方が好きだった。

    「振り返ってはいけない。」とか「前向きに生きろ」。などとよく耳にするが、振り返ることなく生きられる人がいるだろうか。また、前ばかり向いてあるくことが、そんな立派なことなのだろうか。・・・・

    私は長い間、器械体操をやっていた。器械体操では後ろに進みながらおこなう技がけっこう多い。前方転回より、後ろに進んでいく後方転回の方が、美しくて早い。二回宙返りも、ひねり技が入ったものも・・・大きな技は、後方に回転するものばかりである。

    走り高跳びも、背面跳びの方が記録がいいし、運動会の綱引きだって、後ろ向きにひっぱっている。私たちが「ここだっ!」というような踏ん張りをきかす時、思いのほか、後ろ向きが登場するように思われる。「前向きに進め」というのは、人間が溜めていた力を出せる「後ろ向き」という切り札を、めったなところで使ってはいけないということなのかもしれない。私は今日も、後ろ向きで坂を下り、後ろ向きで風の中を走り、夕日を見ながら帰ってきた。

  • この星野さんがこの随筆の中で言おうとしていることは、「後ろ向き」の秘めた力についてです。この「後ろ向き」というのは、いつも「私はいつも前向きに生きる」という人から見ると、消極的だと思います。しかし、前向きに生きる真の切り札は「後ろ向き」にあるということを言おうとしているのだと思います。
  • 私は星野さんの言う「後ろ向き」ということばと、今朝の主のことばである「わたしにとどまりなさい」ということばが重なるような気がするのです。
  • 実は、ヘブル語では「前を向く」とは、これまでのことを振り返る方向、つまり過去に目を向けることです。そういう姿勢を取ると、私たちの言う未来は、ヘブル語では後ろにあることになります。前を向いて、後ろに進むわけです。これはなかなか歩いてみると分かるように難しいのです。信仰の世界も同じです。神がかつてなされたことを信じることで、神にゆだねる心が造られ、未来の進むべき道を神にゆだねて生きることができるのです。リスクは高いのですが、得るものは多いのです。神への信仰がなければ後ろ向きで歩くことはできません。
  • 私は星野さんの言う「後ろ向き」ということばと、今朝の主のことばである「わたしにとどまりなさい」ということばが、私には重なるような気がするのです。
  • 特に、ヨハネ15章5節
    「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」といわれているのは、「とどまる」ということが多くの実を結ぶ「切り札」だと言っているような気がします。神とのかかわりにおいて多くの実を結ぶことが、御父の栄光が現わされるのだ、とイエスは語っています。でもその実を結ばせる切り札は、あなたが、私が頑張って実を鳴らすことではない。「とどまる」ことによってだというのです。
  • 「とどまってばかりいて、どうするつもり」、「もっと自分から前に進まなきゃ」、「もっと何か事を始めなければ・・」、「もっと自分を信じて頑張らなければ・・・」・・・という声がどこから聞こえてきそうです。しかし、それは主が言われた「とどまる」ということが意味することを分からない人の言葉です。やはり私はなんと言われても、主の語られた「とどまる」という「かかわりの秘訣」を身につけたいと強く思わせられたのです。
  • 生産性に駆り立てるこの世の中で、「後ろ向き」に生きるというのは至難のわざです。業績や成功を強調する今日の社会では、生産性の高さと実り豊かさが同じものであるかのように錯覚しています。例えば、ビジネスなどで人脈をつくり、そのビジネスが成功しているとします。人脈づくりが巧みで、価値あるかかわりを作り出すことで、ある種の名声や評価を手にし、自分は成功した、自分は豊かな人間だと錯覚してしまうのです。もしそうした人脈を作り出すことができなければ、ビジネスでは役立たずの人間だと評価されてしまう「恐れ」が背後にあるのです。
  • 営業のためならば、相手の信頼を得るためならば、家庭を犠牲にしても、好きでもないゴルフや酒の席に着いて相手に合わせた話をしなければならないこともあります。そのように頑張ってかかわりを作り出すことによって、ビジネスの取引が成立したり、かかわりが保持されたりするわけです。しかしあくまでもそれはビジネス(仕事)という利害関係を持った人々とのかかわりであって、もしそのビジネスから身を引くことになるならば、一瞬にしてそれらのかかわりは霧のように消えてしまいます。しかし多くの場合、そのはかなさやもろさを自覚しているわけではありません。ビジネスにおいて個人的にどんなに親しいかかわりを持ったとしてもそのかかわりはもろいものです。そんなかかわりを自分で作り出しているために、それを失う恐れを絶えず抱えているわけです。
  • イエスの言葉を肝に命じましょう。「わたしにとどまりなさい。わたしを離れては、あなたがたはなにもできないからです。」ということばの真意を悟ることができるように祈りましょう。

(3) 謙遜の限りを尽くして、主に仕える

  • 「主の家に住む」第三のキーワードである「謙遜の限りを尽くして、主に仕えること」に行きましょう。「キリストのくびきを負う」「キリストのうちにとどまる」ということを別なことばで表現すると、「謙遜」「謙遜を着る」「謙遜の限りを尽くす」ということばになるのです。
  • 「謙遜の限りを尽くす」ーこのことばは、使徒の働きの20章にある、パウロのエペソの教会の長老たちに語った決別説教の最初のことばです。「謙遜の限りを尽くす」とはどういうことか。「謙遜の限りを尽くして仕えた」人の原型(オリジナル)は御子イエスです。御子は御父に対して、実に「謙遜の限りを尽くされ」ました。使徒パウロはその御子イエスの生き方に倣って生きたのです。パウロにとって「謙遜の限りを尽くす」とは、「キリストにとどまること」であり、すべてのことを「キリストにあって」なすことでした。パウロは謙遜の奥義をキリストから学んだのです。私たちは御子イエスを通して、また使徒パウロを通して、「謙遜の奥義を知り、そしてその祝福を生きるように招かれているのです。

2. 主の家に住む、あらたな三つのキーワードの「祝福

  • 今朝は、これからじっくりと話していくための、おおまかな概観をお話ししています。
  • これまで、「主の家に住む、あらたな三つのキーワード」を挙げてきました。しかもその意味するところは同じテーマ、同じ思想をそれぞれ別の表現をしています。しかしその祝福については、少し表現が異なります。それを最後に挙げておきたいと思います。

(1) 安息

  • ただ「キリストのくびきを負こと」で、たましいの「安息」(安らぎ、平安)という祝福が与えられます。多くの人々がこの安心を手に入れるために頑張っているのではないでしょうか。しかし聖書は、キリストのくびきを負うなら、たましいの安息が与えられるとしています。

(2) 自由

  • 「キリストにとどまる」なら、「自由」とい祝福を得ることができます。それはヨハネ8:31です。「そこで、イエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」
  • 私たちは、社会の、あるいは自分自身のうちにある様々なしがらみに捕えられています。そこから自由になることはできません。自分の能力、才能、性格など、それらか自由になることはなかなかできません。制約される多くの事柄が私たちを不自由にしています。ところが、真理はあなたがたを自由にするとはどういうとでしょうか。

(3) 高揚

  • もし、私たちがキリストに倣って「謙遜の限りを尽くして主に仕えるなら、「高揚」という祝福が与えられます。「高揚」とは、文字通り、高く上げられることです。イエスは弟子たちにしもべとして謙遜に歩むことを教えましたが、自らその教えを実践されたことは言うまでもありません。その謙遜はピリピ書2章6~9節でこう記されています。これは当時の賛美の歌であったと言われています。
  • キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
  • 謙遜の祝福は「高揚」です。それは神からの権威を与えられることです。神の力が賦与されることです。その権威と力がなければ、主の働きをすることができません。大きな影響力を及ぼすことはできません。「高揚」の祝福を得るためには、へりくだることです。その源泉は御子イエスにあります。御子の御父に対する生き方、在り方を私たちが学ぶことで、へりくだることがどういうことか、私たちのイメージから離れて正しく理解することができ、そのことの奥義と祝福にあずかることができるのです。
  • もし、私たちが謙遜であるならば、自分の経験にたよらず、また自分の知識に頼らず、いつでも神を新しい心と思いで知りたいと思うはずです。そして、絶えず新しい神からの光と霊の喜びと感動を与えられて歩むことができるはずです。

おわりに

  • これからしばらくこのテーマ「謙遜を着る(謙遜を学ぶ)」を追いかけてみたいと考えています。私たちが真のキリストの弟子となるために、「キリストのくびきを負い」、「キリストのうちにとどまり」、「謙遜の限りを尽して仕えたキリスト」に見倣う生き方に目を留めていきたいと思います。
  • 主にある私たちひとり一人が「的を射た歩み」ができるように、新しい年のはじめにご一緒に祈りたいと思います。

2011.1.1.


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