贖い主は、主に立ち帰る者のところに来る
57. 贖い主は、主に立ち帰る者のところに来る
【聖書箇所】59章1~21節
ベレーシート
- イザヤ書59章には、神と人とを隔てる罪、神の救いを妨げる罪とそれを贖う方が、神に立ち返る者のところに来て、新しい永遠の契約を結ぶことが語られています。
- 58章で見た、形式的・表面的な宗教行為で罪を帳消しにしようとする人間ーその人間が神に立ち返るためには、内からの促しが不可欠であること、つまり、神からの霊とみことばによらなければ絶望的であることが強調されています。
1. 神とのかかわりを妨げる人間の「罪」
【新改訳改訂第3版】イザヤ書59章1~2節、11~12節
1 見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
2 あなたがたの咎(「アーヴォーン」עָוֹן)が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪(「ハッタート」חַטָּאת)が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。11 私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
12 それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪(「ペシャ」פֶּשַׁע)を犯し、私たちの罪(「ハッタート」חַטָּאת)が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪(「ペシャ」פֶּשַׁע)は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎(「アーヴォーン」עָוֹן)を知っている。
- 上記の箇所には、主の救いを待ち望んでもそれが実現しない真の理由が、人間の「罪」であることが語られています。ここには「罪」に関する三大用語が登場しています。
- 「ハッタート」(חַטָּאת)。これがギリシア語に翻訳されると「ハマルティア」(άμρτια)となります。「的をはずすこと」を意味します。神から離れた人間は、何をしても結局は「的を外した」人生となるのです。的が外れていることから、以下の「ゆがみ」「ひずみ」「悪」「不義」「咎」を意味する「アーヴォーン」(עָוֹן)と、「神にそむき」「神と争う」罪である(「ペシャ」פֶּשַׁע)がもたらされます。
- このような人間の罪のために、神の「公正・公義」(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)、「正義」(「ツェダーカー」צְדָּקָה)、「真理」(「エメット」אֶמֶת)は退けられているのです。これらの三つの語彙は神の「救い」に換言できます。
2. とりなす者がいないことに驚かれる主
【新改訳改訂第3版】イザヤ書59章16節
16 主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。
(1) 人間の絶望的状態
- 人間の罪の絶望的な状態にもかかわらず、だれひとりとして主の御前でとりなす者がいないことに、主は「驚かれた」とあります。まずは、「主は人のいないのを見」とあるように、民を思慮深く治める人がいない、義と真理のために立ちあがる人もいない、不義なる者に抵抗し、無知なる者を保護するために立ち上がる人もいない。民を救うことの出来る人はだれひとりとしていないのです。また、神と人との間に立ってとりなす人、助けようと思う人がいない、そのことに驚かれたのです。
- この「驚かれた」という動詞は「シャーマム」(שָׁמַם)の強意形ヒットパエル態です。口語訳は「あやしまれた」、岩波訳は「訝る(いぶかる)」、フランシスコ会訳は「あきれ果てられた」とそれぞれ訳しています。それゆえ、主の出番です。主が登場してくださらなければ、人間は絶望の淵をさまようことになり滅びの運命にあるのです。
(2) 主は御腕と義をささえとされる
- 絶望的な人間の状態に対して、主は「ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた」(16節後半)とあります。「御腕」とは神の力の象徴です。また、「義」とは「救い」、あるいは「勝利」の意味です。このことにおいて、主はいかなる人間の支えも必要とされることはないのです。
- 私の恩師、小林和夫師は59章16~17節をメシアの第一降臨(初臨)とし、18~21節をメシアの第二降臨(再臨)として区分し、メシア来臨の二重性を説明しています。
3. 主が神の民を救われる
(1) 戦士として
【新改訳改訂第3版】イザヤ書59章17節
主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。
- 主が戦士として神の民のために戦われることが記されています。そして戦士の武装を身におおい、神の民の救いのために戦われる様が比喩的表現で描かれています。
(2) 敵に対する正しい報復的さばきによって主への恐れがもたらされる
【新改訳改訂第3版】イザヤ書59章18~19節
18 主は彼らのしうちに応じて報い、その仇(「ツァル」צַר)には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。
19 そうして、西のほうでは、【主】の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主(原文では「仇」)は激しい流れのように来られ、その中で【主】の息が吹きまくっている。
- 18節で記されているように、神は、神の敵、あるいは神の民の内部にいる仇、そして「島々」とあるように、主はその民イスラエルに反逆した異邦諸国に対して報復的さばきをもたらします。しかし19節では、主のさばきによって、全地の人々が主の主権を認めて主を恐れるようになることが預言されています。ちなみに、「西の方」と「日の上る方」、つまり「東の方」とは両極を意味する「メリズマ法」です。つまりそうした表現によって、全地のすべてを表わそうとするヘブル語の修辞法です。
(3) 「主は激しい流れのように来られる」
- 「主は激しい流れのように来られる」と訳されていますが、「主」ということばはありません。18節に「仇」ということがありますし、19節も同じく「仇」(「ツァル」צַר)があります。ですから、そこは主ではなく、「仇が激しい流れのように来る」が、「その(=流れ)中で【主】の息が吹きまくっている」とあります。原文では、主の息(「ルーアッハ」רוּחַ)が仇を「追い立てる」という表現になっています。原語は「逃げる、消え去る」を意味する「ヌース」(נוּס)ですが、ここでは強意形のピエル態で「追い立てる」という意味合いで使われています。主の霊が「仇」である反キリストを「追い立てる」ようにして来られるということで、これは終わりの日のキリストの再臨前のことが預言されているのです。※脚注
4. 主は、主に立ち返る者のところに来る
【新改訳改訂第3版】イザヤ書59章20~21節
20 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」──【主】の御告げ──
21 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と【主】は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と【主】は仰せられる。
- ここで注意しなければならないことは、20節にある「ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る」という表現です。特に、「そむきの罪を悔い改める」という表現です。この表現は実は正しくありません。「悔い改める」という動詞は、常に、神に立ち返ることを意味し、「・・の中から、・・の状況から」という語彙を伴います。どんなに罪を認め、悔い、謝ったところで、神に立ち返ることがなければ救いはありません。イェシュアが語られた放蕩息子のたとえ話も、完全に行き詰ってしまった弟息子が、我に返って、自分の父のもとに帰ろうと決心したことが、父の祝福を受けた動因です。どんなに、自分のしたことを悔いて反省したとしても、父のもとに立ち帰ることが無かったとしたら、弟息子は生き返ることはできなかったのです。
- 従って、ここの「(主は)・・そむきの罪を悔い改める者のところに来る」という部分は、「(主は)・・そむきの罪から神に立ち帰る者のところに来る」と訳すべきです。そうするなら、「悔い改め」についての正しい理解において、不具合を解消することができます。詳しいことは、⇒「悔い改め」という訳語の脆弱性について扱った文書を参照のこと。
- 最後の21節では、主の激しい「霊」(「ルーアッハ」רוּחַ)と主の確かな「ことば」(「ダーバール」דָבָר)によって、主に立ち帰る者たちは、主との永遠の契約を結ぶことが預言されています。これらの出来事(「出来事」も同じ「ダーバール」という語彙です)のすべてが、主の主権性によってなされるのです。
- 「終わりの日」に成就する主の契約とは、イスラエルの民たちが、恵みと哀願の霊を注がれてはじめて神に立ち帰ることが出来(ゼカリヤ12:10)、王であるメシアの支配のもとで真の神の民としての回復がなされるというものです。
※脚注
「イザヤ書59章19節の注解」
【新改訳改訂第3版】イザヤ書59章19節
そうして、西のほうでは、【主】の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で【主】の息が吹きまくっている。【新共同訳】イザヤ書59章19節
西では主の御名を畏れ/東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み/主の霊がその上を吹く。●イザヤ書59章19節の日本語訳(新改訳)では、主語が「主の御名」「主の栄光」であるかのように訳されていますが、原文での主格は「彼ら」、つまり「諸国の民」です。「彼らは恐れる」とある「彼ら」とは、18節にある「仇」と「敵」(いずれも複数)です。その彼らが何を恐れるのかと言えば、「日の沈む方」(=西の方)では「主の御名」を、「日の昇る方」(=東の方)では「主の栄光」を恐れるのです。恐れる(畏れる)とは神を最高度に敬うことを意味してます。日本語(新改訳)では受動態のように「恐れられる」と訳していますが、原文は「彼らは畏れ敬うようになる」のです。なぜなら、神に敵対する者(仇=「ツァル」צַר=反キリスト)が激しい流れのように来たとしても、主の霊(息)が彼を追い立てるからです。神に敵対する反キリストが激流のように神の民イスラエルに押し寄せたとしても、主だけがそれに対抗して、敵は勝つことができないという意味なのです。このように、19節の最後の部分は同義的パラレリズムではなく、反意的パラレリズムなのです。
2014.11.26
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