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04.「ヨハネの福音書3章の『しるし』」(1)


04.「ヨハネの福音書3章の『しるし』」(1)

ベレーシート

●今回は、ヨハネの福音書3章の中から三つの「しるし」―「夜」「新しく生まれる」「永遠のいのちを持つ」―を取り上げます。

1. 「夜」

【新改訳2017】ヨハネの福音書 3章1~2節
1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
2 この人が、(「ヌュクス」νύξ)、イエスのもとに来て言った。・・・・

●3章で最初に取り上げるしるしは、「夜」です。これは、1章5節にあった「光は闇の中に輝いている」の「闇」に類似する語彙です。3章19節にも「人々が光よりも闇を愛した」で扱われています。今回登場する「ニコデモ」は「夜」、および「肉」と「蛇」を代表する人物です。しかし19章39節では、「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た」と記しており、彼がイェシュアを信じる者へと変えられている姿を見るのです。

●まず、ニコデモがなぜ「夜」にイェシュアのところに来たと記しているのでしょうか。普通に考えられるのは、彼が人目を気にする「弱い人」というイメージです。彼はパリサイ人の一人です。パリサイ人というのはユダヤ教の中でも最も厳格なグループで、神の戒め(トーラー)に対して一生涯守り抜くと神に誓約を立てた、いわば宗教的エリートです。当時のユダヤで六千人ほどしかいなかったようです。しかもニコデモは「ユダヤ人の議員であり、教師(3:10)」でもあったとありますから、学識と教養、地位と名声と権威を持っていた人であったと推測できます。さらに、4節から言えることは、彼が人生の老年期に達していて、人生経験の豊かな老人であったことも分かります。そうした人物がなぜ、イェシュアのもとに来たのでしょうか。しかも、聖書では「夜」とあります。これは、文字通りの「夜」とも考えられますが、ヨハネの福音書を「しるしの書」と考えるならば、「夜」は「暗闇の力に閉じ込められているしるし」と考えることができます。なぜなら、3章には「夜」だけでなく、「肉」と「蛇」も同じことを表す「しるし」となっているからです。

●ヨハネの福音書には「霊的な夜」についての記述が三つあります。①は弟子たちに対するイェシュアのことばとして、②はイスカリオテのユダについて、そして③はペテロについての記述です。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書 9章4節
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができないが来ます。

●「だれも働くことができない夜が来ます」とは、エックレーシアが携挙された後に、イスラエルの歴史において未曾有の大患難が来る時です。

②【新改訳2017】 ヨハネの福音書13章30節
ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時はであった。

●悪魔(サタン)はイスカリオテのユダの心に、イェシュアを売ろうとする思いを入れていました。彼がそれを実行したのは最後の晩餐の時、つまり「夜」です。その夜は「暗闇が支配した時」であり、イェシュアに受難と死をもたらしました。しかし三日目に、その「夜」は打ち破られ、イェシュアは死からよみがえられたのです。

③【新改訳2017】ヨハネの福音書21章3、11節
3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、そのは何も捕れなかった。
11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。

●イェシュアの復活後、シモン・ペテロは「霊的な夜」を経験しています。彼と他の弟子たちが漁に出かけます。しかしその夜は何も捕れなかったとあります。ところが夜が明け始めていたころ、イェシュアは岸辺に立たれて、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」と言います。そこで彼らが網を打つと、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかったのです。そこで彼らは魚の入った網を引いて戻って行き、網を陸地に引き上げると、百五十三匹の大きな魚でいっぱいであったにもかかわらず、網は破れていなかったという話です。これは何を意味しているのでしょうか。鍵は「百五十三」(153)という数です。これは弟子たちが「漁師」という元の仕事に戻ることなく、「人を捕る(漁る)」神の務めに専心するという「しるし」なのです。「百五十三」(153)という数は、神のわざを証しする「冠詞付きの網」のゲマトリアの倍数です。

「冠詞付きの網」「ト・ディクテュオン」(τὸ δίκτυον)=300+70+4+10+20+300+400+70+50=1224
1224=153×8

「冠詞付きの網」は、捕れた魚の数(153)と、復活・昇天・着座されたイェシュアの数(8)を掛けたものです。また、その網が「舟の右側に打たれた」とは、「復活・昇天・父の右に着座された勝利のイェシュア」を意味しています。使徒たちのなすべき務めは「夜」に象徴されるこの世での務めではなく、「昼」に象徴される神のわざが現されるための務め、すなわち決して破れることのない「網」を用いて「人を捕る」務めを意味しているのです。それは、やがて「イスラエルの残りの者」が起こされ、彼らによって大勢の異邦人を捕る(漁る)務めがなされることのしるしでもあります(マタイ24:14、黙示録7:4~17参照)。

【新改訳2017】マタイの福音書13章47~50節
47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集めるのようなものです。
48 がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

●「海のあらゆる種類の魚」とは「大勢の異邦人(「ゴーイム」גּוֹיִם)」のことです。ここでの「網」は「冠詞付きの網」「ト・ディクテュオン」(τὸ δίκτυον)ではなく、「地引き網」という単数形の「サゲーネー」(σαγήνη)という語彙が使われていますが、御国における網の重要性は変わりません。「網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ」の「人々」とは「イスラエルの残りの者」のことです。より分けるのは、御使いたちの務めです。


●使徒パウロも「夜」について語っています。
①【新改訳2017】ローマ人への手紙 13章12節
は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。
②【新改訳2017】Ⅰテサロニケ人への手紙 5章2節
主の日は、盗人がやって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
③【新改訳2017】Ⅰテサロニケ人への手紙 5章5節
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちはの者、闇の者ではありません。

●このように、「夜」は「暗闇の支配」を意味し、「その支配の中に閉じ込められている人々や世」を意味しています。そこから救い出してくれるのが「光」です。その光こそ御子イェシュアです。「神の都、新しいエルサレム」には「夜」がありません。そこには神に敵対する勢力(敵意)がないからです。
①【新改訳2017】ヨハネの黙示録 21章25節
都の門は一日中、決して閉じられない。そこにはがないからである。
②【新改訳2017】ヨハネの黙示録 22章5節
もはやがない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

2. 「新しく生まれる」(=新生、再生)

●「新しく生まれる」ことについては、シリーズ「ヨハネの福音書のエキス」の第一回目「神の住まいを建て上げるために」ですでに取り上げていますが、大切なことなので再度取り上げます。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章2~5節
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

●イェシュアのところに来たニコデモは、イェシュアのなされた奇蹟を見て、「神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」と言って、イェシュアを「神のもとから来られた教師である」ことを認めています。ニコデモはイェシュアに新しい教えを求めて来た人のようです。新しいことに飛びつく好奇心旺盛なタイプは多くいます。しかしイェシュアはご自分が単なるこの世の教師ではないこと教えるために、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」という唐突な表現で相手を問答に引き込みます。ここにイェシュアの蛇にまさる知恵を見ることができます。イェシュアはヘブル的修辞法によって、「新しく生まれる」ことを「水と御霊によって生まれる」と言い直しました。そして、さらにそれを「御霊によって生まれた者は霊です」とも言い直されたのです。

画像の説明

●ヘブル修辞法のパラレリズムでは、5節の「水と御霊によって生まれ(る)」ことと、6節の「御霊によって生まれた者は霊」は同義です。「水」は神のことばのメタファーです。この「水」を「ヨハネの水のバプテスマ」(=死)と理解し、「御霊」を「イェシュアの聖霊のバプテスマ」(復活)とする解釈があります。「水」を母体の羊水だとする解釈よりは妥当な見解です。しかし、イェシュアの口から出ることばそのものが「霊であり、いのち」(ヨハネ6:63)ですから、それを理解するためには、私たちの霊が再生されなければイェシュアのことばを理解することが出来ません。「悔い改め」が起こるためには、私たちの霊に働きかける何かがなければなりません。ですから、ここでの「水」はイェシュアの「いのちを与える霊」と理解します。つまり「復活の視点からの解釈」です。

●また「水と御霊によって」の「御霊」は、原文では「冠詞なしの霊」となっていることから、「人の霊」であると解釈します。つまり「水と御霊によって生まれる」とは、「いのちを与える復活の霊と、それによって再生された人の霊によって、人は新しく生まれることになり、その者が「神の国に入ることができる」」と言い換えることができます。同様に、6節の「御霊によって生まれた者は霊」の「御霊」は「冠詞付きの霊」、つまり「神の霊」であり、それによって生まれた者の「霊」は、冠詞なしの「人の霊」となります。このことは、使徒パウロが「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(ローマ8:16)と言っていることと、整合性が取れます。

●ヨハネの多くの「しるし」は「復活の視点」からのものです。ヨハネ特有のフレーズである「まことに、まことに、あなたがたに言います」も、その内容はすべて、復活の視点からでなければ理解することができません。このフレーズが「新生(再生)」を語っている今回の3章3~5節で2回も登場しています。「新生」は奥義です。その働きを言葉で十分に説明することはできないのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章7~8節
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

●6節前半の「肉によって生まれた者は肉です」に戻ります。「」(「サルクス」σάρξ)は、霊によってコントロールされない「たましいとからだ」(=「心とからだ」)を意味します。生来の人の「たましい」は、そこにサタンが足場を築いているため神に敵対します。この語彙を最も多く使っているパウロが言うように、「肉の思いは死」であり、「肉の思いは神に敵対する」(ローマ8:6,7)のです。ですから、「肉によって生まれた者」は、決して神の国に入ることはできないのです。このことが律法の教師であったニコデモには理解できませんでした。彼が「夜」の人であったからです。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」というニコデモの不信に対して、イェシュアは三度目の「まことに、まことに、あなたに言います」を語ります。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章11~12節
11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
12 わたしはあなたがた地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

●「まことに、まことに、あなたに言います」ということばは、直接ニコデモに対して語られていますが、11節の途中から「わたしたち」と「あなたがた」の設定に変化しています。このことばは預言的、奥義的、そして重層的です。14章で「あなたがた」は「弟子たち」を、「わたしたち」は「三一の神」を指して使われています(14:16~17, 23)。

●3章11節の「あなたがた」とは、当時のユダヤの宗教指導者たちのことです。11~13節には「地上のこと」と「天上のこと」とあります。彼らのトーラーの学びは尋常ではありません。トーラーポーションと言って、毎日、聖書を学んでいるのですが、彼らは聖書を文字(もんじ)として読んでいるのです。これをイェシュアは「地上のこと」と言っています。イェシュアは「主の祈り」の中で「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るよう教えられました(マタイ6:10)。イェシュアは地上で起こることが、すでに天上で起こっていることを言っているのです。換言するなら、「地上のこと」は「天上のこと」の写しと影だということです。新生や再生の話は「地上のこと」ですが、そのことが起こるのは本体である「天上のこと」として定まっているからです。この論理を理解できず、信じることができないなら、「天上のことを話して、どうして信じるでしょうか」とイェシュアは語っています。しかし再度、イェシュアは「地上のこと」を語って、天上にある大切な真理を語るのです。その前にイェシュアは13節で「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です」と言っているのは、自分こそが天上にある重要な事柄を語る資格があることを述べています。その事柄とは、16節の「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ということです。要約するなら、「御子を信じる者が、永遠のいのちを持つ」ということが「天上のこと」として定められているということなのです。ヨハネの福音書には、3章から17章の中に「永遠のいのち」が17回も使われていますが、その最初の箇所が3章16節なのです。

3.「永遠のいのちを持つ」

●「新しく生まれる」と「永遠のいのちを持つ」は同義です。イェシュアは「天上のこと」を理解させるために、「地上のこと」、すなわち「青銅の蛇」の話をしています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章14~16節
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

●ユダヤ人の聖書(タナフ)に「永遠のいのち」という語彙は一回しかありません。それはダニエル書12章2節です。

【新改訳2017】ダニエル書12章1~4節
1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。
国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる
2 ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。
3 賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者(原文は複数)は、世々限りなく、星のようになる。
4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。」

●1節の「その時」とは「終わりの時」です。「あなたの国の人々」の「あなた」とはダニエルのことで、彼はペルシアにいます。「あなたの国の人々」とはイスラエルの人々です。つまりここでは、終わりの時にイスラエルに起こることが預言されているのです。「終わりの時に、イスラエルの人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる」とし、それは「国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る」という理由からです。「かつてなかったほどの苦難の時」とは、獣と呼ばれる反キリストによってもたらされる大患難です。「しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる」のです。「あの書」とは、天にある「いのちの書」です。そこに名が記されているなら、たとえ大患難であってもみな救われるのです。これは神が定めた「天上のこと」です。ですから、イェシュアは伝道から帰ってきて報告する弟子たちに対して、以下のように語っています。

【新改訳2017】ルカの福音書 10章20節
「・・・霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

●最大の喜びとは、霊どもがあなたがたに服従することではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることなのです。だれが「いのちの書に書き記されている」のか、それは誰にも分かりません。分かっていることは、「あの書」すなわち「いのちの書に記されている者」は、3節にある「賢明な者たち」であり、または「多くの者を義に導いた者(原文は複数)」であることです。「賢明な者たち」の正体は「イスラエルの残りの者」(イスラエルの各部族からなる144,000人)です。彼らは終わりの時に「恵みと嘆願の霊」を与えられることで悔い改め、イェシュアをメシアと信じて救われるのです。さらに彼らは短い期間に、イェシュアが語った御国の福音を語って「多くの者(異邦人)を義に導く者たち」です。彼らの出現は歴史の中で最もエキサイティングであり、神のご計画の中でも最大の出来事となります。イェシュアをメシアと信じる者は、生きていようと、あるいは「ちりの大地の中に眠って」いようと、「永遠のいのちを持っている」のです。このことは、隠された事柄なのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章14~15節
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

●ヨハネの福音書で「蛇」が出てくるのはこの箇所だけです。
「モーセが荒野で蛇を上げた」という話は、ユダヤ人ならばだれもが知っている話です。イェシュアは、旧約にある「青銅の蛇」の出来事がイェシュアの贖いの型であることを語りました。

【新改訳2017】民数記21章4~9節
4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。
パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8 すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。
蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた

「青銅の蛇」は「ネハシュ・ネホーシェット」(נְחַשׁ נְחֹשֶׁת)です。「蛇」も「青銅」も語源が同じです。蛇を意味する「ナーハーシュ」(נָחָשׁ)のゲマトリアは、50+8+300=358。「キリスト」を意味する「マーシーアッハ」(מָשִׁיחַ)のゲマトリアは、40+300+10+8=358で、置き換えが可能なのです。

●この出来事は預言的・奥義的です。なぜなら、イェシュアが人の子として十字架の上に上げられる預言的出来事を意味していたからです。この「青銅の蛇を仰ぎ見る」とは、ニコデモが善良な人であり、道徳的な人であったとしても、「蛇」の性質を持っていることを認めることで、はじめて生きることになるのだという話です。自分が罪人であるだけでなく、蛇でもあると突きつけられて、もし怒るなら永遠のいのちを持つことはできません。私たちは生まれつき、「ツァラアト」であり、「盲人」であり、「足の不自由な者」であると言われても、それを認めて十字架に上げられた人の子イェシュアを仰ぎ見るなら、救われ、永遠のいのちを持つことができるのです。このような者こそ、天にある「いのちの書」に名が記されている者なのです。まさに「イスラエルの残りの者」がそうなのです。

べアハリート

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章16、21節
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

●「御子を信じる者」とは「真理を行う者」であり、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来るようにあらかじめ定められているのです。このことが「永遠のいのち」ということばに隠されています。というのは、「永遠」を意味する「オーラーム」(עוֹלָם)の語源「アーラム」(עָלַם)が「神が隠す」という意味だからです。イスラエルの民の中でだれがイェシュアをメシアと信じて「イスラエルの残りの者」となるのかは、隠されています。異邦人である私たちも同様に隠されているのです。イェシュアを信じることは、実は、不思議なことなのです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2024.3.10
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