****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

3章15節


創世記 3章 15節

【新改訳2017】創世記3章15節

「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

【聖書協会共同訳】創世記3章15節

「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

טו וְאֵיבָה ׀ אָשִׁית בֵּינְךָ וּבֵין הָאִשָּׁה
וּבֵין זַרְעֲךָ וּבֵין זַרְעָהּ
הוּא יְשׁוּפְךָ רֹאשׁ וְאַתָּה תְּשׁוּפֶנּוּ עָקֵב׃ ס

●15節の最後にあるסという文字は「セトゥーマー」(סְתוּמָא)と言い、テキストの段落の終わりと次の行の間の空白を意味します。


ベレーシート

●14節は蛇に対する神ののろいの宣言でした。それは罪を犯した人間に対する神の恵みの消極面と言えますが、15節はその恵みの積極面が語られています。

●文章の構成は、初めに「敵意をわたしは置く」とあり、次にその「敵意」がどこに置かれるかが記されています。つまり、「おまえと女の間に」、そして「おまえの子孫と女の子孫の間に」です。「おまえ」とは、直接的には「蛇」ですが、真の意味はその蛇の背後にいる「サタン」です。また「女」は、直接的には「人の妻」ですが、「女の子孫」の「子孫」(単数)は集合名詞として「神の民イスラエル」(教会)を指すこともあれば、「メシア」とも解釈されます(創世記22:17参照)。「蛇の子孫」と「女の子孫」との敵意(憎悪)は世の終わりまで継続されますが、究極的には、蛇であるサタンには敗北が定まっていることが預言されています。特に、「頭を砕く」という表現は致命的な敗北の象徴です。

●サタンは人間が造られる以前から存在していましたが、蛇という形で初めて地上に現われたのは、創世記3章1節です。それ以来、すべての時代を通して、蛇は(黙示録20章10節「火と硫黄のの池に」投げ込まれるまでは)絶えず活動しています。ですから、サタンの汚染を免れている時代は、創世記1~2章と黙示録21~22章だけなのです。ただ異なっているのは、創世記2章で「園」であったのが、黙示録21章では「都」に変わっていることです。

画像の説明

1. 敵意

●15節で最も強調されているのは、冒頭にある語彙、すなわち「敵意」(「エーヴァー」אֵיבָה)です。それは「憎しみ、憎悪、恨み、対立、enmity」とも訳されます。口語訳は「恨み」と訳しています。語源の動詞は「アーヤヴ」(אָיַב)で「敵対する、敵となる」という意味ですが、分詞で(名詞的に)使われることが多いようです。「敵意」は「終わりの時」に近づくにつれて増してきます。つまり、サタンと神との対立の戦いは大きくなっていくということです。

(A) 旧約時代での「敵意」

【新改訳2017】エゼキエル書25章15節(ペリシテ人)
【神】である主はこう言われる。「ペリシテ人は復讐を企て、心の底から嘲ってひどい復讐をし、いつまでも敵意をもって滅ぼそうとした。

【新改訳2017】エゼキエル書35章5節(エドム人)
おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人の災難の時、すなわち彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣の力に引き渡した。

●エゼキエル書25章には、エルサレムが陥落し、ユダの人々が捕囚の憂き目にあったとき、周辺諸国がそれに対してどのような態度を取ったか、それに対する神の審判がなされています。周辺諸国として名が挙げられているのは、アンモン、モアブ、エドム、ペリシテ人の四つの国です。ペリシテを除けば、あとの三つはセム系の民族でした。

●エゼキエル書35章では、エドムを代表する「セイル山」に向かって預言するようエゼキエルは命じられました。「エドム人」はヤコブの兄エサウから出た氏族の総称です。新約時代では「エドム人」の子孫である「イドマヤ人」がいます。ヘロデ家はその流れです。

●35章5節のフレーズの中に「おまえはいつまでも敵意を抱き」とあるように、エドム人はヤコブの子孫を憎み続けました。エドムの執念深い恨み、兄弟を赦そうとしない心の頑なさ、同時に兄弟の最も苦しい姿を喜ぶ冷酷さがあります。それゆえ、彼らはそのヤコブの子孫であるユダがバビロンによって滅ぼされるときに手助けをした(実際に、エルサレムから逃れて来る者を剣で殺しました)だけでなく、窮地に便乗して土地の乗っ取りを謀ろうとする腹黒さがありました。事実、捕囚時にはユダの南部に侵入してその土地を自分たちのものにしようとしたのです。

●「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた」ではじまる詩篇137篇の7節に、「主よ 思い出してください。エルサレムの日に、『破壊せよ、破壊せよ。その基までも』と言ったエドムの子らを」との祈りがあります。そこには、兄弟関係にありながらも、その冷酷無慈悲な態度と腹黒い魂胆が見え隠れしたエドムの背景があったのです。エドムは常に反ユダヤ主義を代表しています。

●エルサレムがバビロンによって陥落した後で、エドム人たちはひそかに「二つの民、二つの国」を自分たちのものとして占領しようと企んでしました(エゼ35:10)。「二つの民、二つの国」とは北イスラエルと南ユダのことです。神が彼らに与えた相続地を自分たちの地として占領しようとしたのです。しかし、そこは神がご自身の民に与えられた相続地です。やがて、そこに神の民を帰す計画を神はもっておられました。したがって、そこを占領したエドムを一掃するさばきが命じられたのです。そのさばきとは、エドムを「荒れ果てさせ、廃墟とする」ことでした。

●エドムに対する神のさばきの預言は、全イスラエルの回復の預言と一対になっています。主がアブラハムに語られた「あなた(アブラハムとその子孫)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」との約束は、エドムに対するさばきによってその確実性が高められたのです。それは「わたしが主であることを知る」ためのあかしとなるためです。アブラハムの子孫に対してどのような態度を取るかは、すべての人にとって重要です。それは、地上のすべての民族は、アブラハムとその子孫によって祝福されるからです。その例として、モアブ人ルツは姑のナオミに「結びついた」(「ダーヴァク」דָּבַק)ことで、神からの特別な祝福の中に加えられました。現代のキリスト教会も、ルツになるか、あるいはオルパになるか、その態度如何によって祝福されるかどうかが定められるようです。

(B) 新約時代での「敵意」

①【新改訳2017】ルカの福音書11章53節
イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意(「エネコー」ἐνέχω)を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。

②【新改訳2017】ヨハネの黙示録12章13~17節
13 竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。
14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。
15 すると蛇はその口から、女のうしろへ水を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
17 すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った

③【新改訳2017】コロサイ人への手紙1章21節
あなたがた(=異邦人)も、かつては神から離れ、敵意(אֹיְבִים)を抱き、悪い行いの中にありましたが、

④【新改訳2017】エペソ人への手紙2章14 節
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意(הָאֵיבָה)を打ち壊し、

⑤【新改訳2017】エペソ人への手紙2章16 節
二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意(הָאֵיבָה)を十字架によって滅ぼされました。


2. 「置いた」

●「置く」と訳された「シート」(שִׁית)は、ここが初出です。2章8節にも「神である主は東の方のエデンの園に設け、そこにご自分が形造った人を置かれた」とあります。ただし、そこで使われているのは「スィーム」(שִׂים)という動詞です。日本語では同じ「置く」(英語ではput)ですが、原語では語彙が異なり、意味合いも異なっています。

(1) 2章8節の「置いた」(「スィーム」שִׂים)は614回で、「置く、据える、任命する、留める」といった意味。神は人をある「使命」のために永遠に置かれたというニュアンス。その永遠の使命とは、地を耕すという使命です。

(2) 3章15節の「置いた」(「シート」שִׁית)は86回で、「定める、据える、決める、組む、授ける」といった意味。「蛇の子孫」と「女の子孫」との間に、神は深い意図をもって、歴史的・継続的な「敵意」を期間限定で置かれたというニュアンスです。


3.「頭」と「かかと」

●「頭」と「かかと」のそれぞれのへブル語は「ローシュ」(רֹאשׁ)と「アーケーヴ」(עָקֵב)です。「ローシュ」は「頭、かしら」を意味しますから、蛇の頭は「サタン」ということになります。ところで、なぜ「頭」と「足」ではなく、「かかと」なのでしょうか。「かかと」を意味する「アーケーヴ」は「ヤコブ」(「ヤァコーヴ」יַעֲקֹב)、すなわち、イスラエルと関係があるからです。すなわち、蛇であるサタンはメシアを生み出すイスラエル(あるいは「イスラエルの残りの者」黙示12:17)を打ち砕こうとするということです。

●サタンは、ヤコブの兄エサウの子孫(アマレク、エドムはその代表)によって、歴史の中で常にイスラエルに敵対しています(オバデヤ書を参照)。

4. 「打つ」

●「打つ」と訳された動詞は「シューフ」(שׁוּף)で「打ち砕く、押しつぶす、粉々に砕く、粉砕する」という意味です。創世記3章15節に2回、ヨブ記9章17節、詩篇139篇11節の4回のみ。

【新改訳2017】
「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」
【聖書協会共同訳】
砕き、・・・砕く

●原文はいずれも同じ語彙ですか、以下の訳は一見異なる語彙であるかのような訳になっているのは、人と蛇の行為の違いかもしれません。

【新改訳改訂第三版】
「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
【フランシスコ会訳】
踏みつけ、・・・咬みつく
【岩波訳】
「彼はお前の頭を〔叩き〕砕き、お前は彼のかかとを〔噛み〕砕こう

●女の子孫が蛇の(=サタン)を砕き、蛇は彼のかかと(=イスラエルの残りの者)を砕くということばは、蛇が与える打撃にもかかわらず、女の子孫の勝利の時が来ることを示唆しています。その勝利は、イェシュア・メシアの十字架と復活によってもたらされるのです。特にメシア(キリスト)の復活は、「死」という敵に対して決定的勝利をもたらす出来事なのです。

●オスカー・クルマンは、その著「キリストと時」の中で「戦争における決定的戦いはすでに為されています・・・にも拘らず、戦争はまだ続行しているのです」と述べて、それを第二次世界大戦におけるD-Day(ノルマンディー上陸作戦;フランスへの決定的上陸の日)と、V-Day(ヨーロッパ戦勝記念日;連合国の最終的勝利の日)に譬えています。つまり、イェシュアの''十字架の死と復活はD-Dayに相当し、イェシュアの再臨はV-Dayに相当します。ちなみに、D-Dayの「D」は「決定的な」を意味するDeterministic、V-Dayの「V」は「究極的勝利」を意味するVictoryです。

①【新改訳2017】ローマ人への手紙 16章20節
平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(※「踏み砕く」=「ダーハー」דָּכָא)

②【新改訳2017】ヘブル人への手紙 2章14節
そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、(※「滅ぼす」=「バータル」בָּטַל)

③【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙 3章8節
罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。(※「打ち破る」=「パーラル」פָּרַר)


2020.7.15
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