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3章8節


創世記 3章8節

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【新改訳2017】創世記3章8節
そよ風の吹くころ、
彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。
それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、
園の木の間に身を隠した。

【聖書協会共同訳】創世記3章8節
その日,風の吹く頃、
彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。
そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、
園の木の間に身を隠した。

ח וַיִּשְׁמְעוּ אֶת־קֹול יְהוָה אֱלֹהִים מִתְהַלֵּךְ בַּגָּן
לְרוּחַ הַיּוֹם
וַיִּתְחַבֵּא הָאָדָם וְאִשְׁתֹּו מִפְּנֵי יְהוָה אֱלֹהִים
בְּתֹוךְ עֵץ הַגָּן׃

ベレーシート

●8節は、蛇の言うことをことを聞いて罪を犯した人とその妻に対して、神である主が初めて取った行動が記されています。また、その神の行動に対して、人とその妻が取った行動も記されています。それは非常に重要な箇所で、神と人との原初的な軋轢の型が表されています。以下の四つの事柄を取り上げます。

(1) 「そよ風の吹くころ」とは何か。
(2) 「神である【主】が園を歩き回られる音」とは何か。
(3) 「人とその妻は、神である主の顔を避けた」のは何故か。
(4) 「園の木の間に身を隠した」とはどういうことか。


1.「そよ風の吹くころ」(「レルーアッハ ハッヨーム」)とは何か。

●8節冒頭にある「そよ風の吹くころ」とは不可思議な訳です。「レルーアッハ・ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)というフレーズはここにしか出てきません。他の訳も微妙に異なっています。

【新改訳2017】・・・・「そよ風の吹くころ」
【聖書協会訳共同訳】・・「その日、風の吹く頃」
【新改訳改訂第三版】・・「そよ風の吹くころ」
【口語訳】・・・・・・・「日の涼しい風の吹くころ」
【新共同訳】・・・・・・「その日、風の吹くころ」
【岩波訳】・・・・・・・「その日の風の[吹く]ころ」
【フランシスコ会訳】・・「いつもそのようにそよ風の吹き始めるころ」
【関根訳】・・・・・・・「夕方の風が吹く頃」
【七十人訳聖書】・・・・「夕方」

●ヘブル語原文は「レルーアッハ ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)です。直訳は「その日の風によって」、あるいは「その日の霊に従って」です。「ハッヨーム」(הַיּוֹם)は冠詞がついた日で「その日」です。「ルーアッハ」(רוּחַ)は「風、息、霊」という意味ですが、多くの訳が「風」の意味で訳しています。これは連語形で「この日の風」です。それに付いている「レ」(לְ)を時を表わす前置詞「~の時、~の頃」として、「この日、風の吹く頃」と訳されています。このフレーズはそれほど意味のない単なる状況設定のためでしょうか。前後関係の流れから考えると、この訳の必然性が理解できません。この場面は人間が最初に堕罪した場面です。それに対して神が初めて起こす行動が記されていています。とすれば、この「レルーアッハ ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)」にはもっと重大な隠された意味が含まれているように思われます。

●8節の文の流れを見るなら、「すると、彼ら(人とその妻)は聞いた」から始まっています。何を聞いたと言えば、「神である主が歩き回っている音」です。「歩き回っている」その場所とは「園の中」です。その後に「レルーアッハ ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)があります。そして、人とその妻は「神の顔を避けて、隠れた」という反応を示しているのです。

●従来の優しいイメージの訳とは異なる厳しいイメージの訳、すなわち、「レルーアッハ ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)を「神の激しい憤りと裁きを表す嵐」として解釈している人たちもいるようです。このイメージで理解するなら、8節にある神の動きの意味がよりよく理解できるように思えます。その検証をしてみたいと思います。

●「この日」と訳された「ハッヨーム」(הַיּוֹם)は、聖書においては終末の預言でも使われる用語です。つまり、「この日」に神は神の民イスラエルに対してなされる「さばき」(「ミシュパート」)関係する用語です。「ミシュバート」(מִשְׁפָּט)は神の統治用語で、神の審判と回復を内包する用語です。旧約の預言書には必ず神の「審判と回復」が書かれています。例えばイザヤ書4章にはこうあります。4章はやがてイスラエルに対する大患難時代の預言が記されています。

【新改訳2017】イザヤ書4章1~6節
1 その日、七人の女が、一人の男にすがりついて言う。「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。私たちがあなたの名で呼ばれるようにして、恥辱を取り去ってください。」
2 その日、【主】の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。
3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖なる者と呼ばれるようになる。みなエルサレムに生きる者として書き記されている。
4 主が、さばきの霊焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い落とし、エルサレムの血をその町の中から洗い流すとき、
5 【主】は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼には雲を、夜には煙と燃え立つ火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に覆いとなり、
6 その仮庵は昼に暑さを避ける陰となり、嵐と雨から逃れる避け所、また隠れ家となる。

※1, 2節に「その日」は(直訳では新共同訳のように「その日には」です)「バッヨーム・ハフー」(בַּיּוֿם הַהוּא)ですが、「ハッヨーム」と同義です。また、「その日」とは、イザヤ書2章2節にある「終わりの日」とも同義です。

●この預言には、「その日」には、神である主が「さばきの霊と焼き尽くす霊によって」シオンの娘たち(=イスラエルの民たち)の汚れを洗い落とすとあります。そのことによって、彼らの上に主の栄光の臨在が回復されるという預言です。この神の統治(審判と回復)の最初の型が創世記3章8節にある「レルーアッハ ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)というフレーズに隠されていると考えることができるのです。つまり、8節の「レルーアッハ ハッヨーム」というフレーズの中に、歴史の中で啓示される神の統治の概念が示されているということです。しかし、罪を犯した人とその妻はそのことを理解することなく、「身を隠してしまった」のです。これが蛇が人にしようとした惑わしだったのです。

2. 「神である【主】が園を歩き回られる音」とは何か

●人とその妻が聞いたのは、「神である主が園の中を歩き回る音」です。「レルーアッハ・ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)という句は「園の中を歩き回る音」を修飾しています。もし「レルーアッハ」(לְרוּחַ)のレ(לְ)の前置詞を、時を表す前置詞として理解すると、「その日、嵐の風の時に、歩き回る神の声を彼らは聞いた」となります。しかし前置詞「レ」(לְ)を場所・方向を表す前置詞として理解すれば、「歩き回る」という動詞と組み合わさって、「嵐の風の中を、歩き回られる神の音を聞いた」となります。

●神である主が「歩き回られる」と訳された動詞は、「歩く」を意味する「ハーラフ」(הָלַךְ)の強調形ヒットパエル(再帰動詞)態の「メトハッレーフ」(מִתְהַלֵּךְ)です(ヒットパエル態を分詞化したもの)。神が主語でこの態が用いられるのもこの箇所だけです。単に「散歩をする」といった意味ではなく、むしろ、神が園の中を「歩き回る、行き来する、行ったり来たりする」といった意味です。人とその妻が罪を犯してしまったことに対する神の憤りを、この表現の中にイメージさせます。

●新改訳改訂第三版までは「コール」(קוֹל)を「声」と訳していましたが、【新改訳2017】では「音」と改訳されました。他の聖書もすべて「音」と訳されています。

3. 人とその妻が「神である主の顔を避けた」のは何故か

●「すると男と彼の妻は、嵐の風の中、園を行ったり来たりする主なる神の憤りを聞いた」と解するならば、彼らが「恐れた」のは当然です。事実、10節でアダムが「私は、あなたの足音を園の中できいたので」と言っています。とはいえ、彼らが神に対して「恐れる」(「ヤーラー」יָרָא)という感情を持ったのは初めてのことでした(このことについては10節で再度扱います)。それゆえ、彼らは「神の御顔を避けた」のでした。

●「神である主の御顔を避けた」とありますが、「避ける」という語彙はありません。実際は「神である【主】の顔から「ミップネー」(מִפְּנֵי )」です。同様の表現は、カイン(創世記4:14)やヨナ(ヨナ書1:3, 10)にも見られます。神のみこころを逆らった最初の自然な行為が「御顔を避ける」ことです。「御顔」は「神ご自身」と同義です。

4.「園の木の間に身を隠した」とはどういうことか

●罪を犯した人間の反応は、まず、神であるに対する「恐れ」でした。その「恐れ」のゆえに、「御顔を避けた」だけではなく、「園の木の間に身を隠した」とあります。「身を隠した」と訳された「ハーヴァー」(חָבָא)は自己防衛的行為ですが、神の前で身を隠すことなどできないことは言うまでもありません。

●人とその妻がどこに「身を隠した」のかといえば、それは「園の木の間に」とあります。その木とは「善悪の知識の木」であり、「~の間に」とは「ベトーフ」(בְּתוֹךְ)「~の中央に、まっただ中に」という意味です。彼らが「園の木の間に身を隠した」という表現がどういうことかを知るには、イェシュアが来臨された当時の宗教指導者たちを見ればおのずと理解できます。それは、サドカイ人たちの「形式主義」やパリサイ人たちや律法学者たちの「言い伝え」「人間の教え」「文字の教え」と言われるものです。彼らは「それらのただ中に身を隠していた」のですか、それが「善悪の知識の木」であると気づていたわけではありません。「いのちの木」であるイェシュアこそが、そのことを指摘し、彼らに悔い改めを迫ったのです。それは彼らをさばいて滅ぼすためではなく、あくまでも救うためでした。このイェシュアの行為こそ、「嵐の風の中を、歩き回られる神の音(声)」であり、彼らはそれを確かに「聞いた」のです。

2020.6.19
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