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Ps119の瞑想的説教「みことばは私の喜び」(3)

Ps119の瞑想的説教 「みことばは私の喜び」(3)

はじめに

  • 「みことばは私の喜び」(3)は、詩篇119篇の中の有名な130節を取り上げて考えてみたいと思います。(1)では、私たちの生き方には二通りの生き方があって、一つは「しなければならないことをする」生き方です。それはある意味で、義務であり、強制であり、それをしなければ生きていけない事柄、人間関係もスムーズに行かない事柄です。それとは別にもう一つの生き方、つまり自分から「したいことする」生き方です。人から、あるいは周りから何かを言われて、強制されて、規則だからかするのではない、自分から自発的に「したいことをする」生き方です。そのような生き方には、自由があり、意欲があり、生きる輝きがあります。また、一見、遊んでいるように見えます。しかし自由に遊んでいるようなところに創造的なものが生み出されます。
  • 「しなけれはならない」生き方が、次第に「したいことをする」生き方に変えられていくとすれば、それはその人に充実した人生になるだろうと思います。この二つの生き方が、詩篇119篇では、各段ごとに、繰り返されているのです。
  • 「みことばは私の喜び」(2)では、自ら「したいことをする」という生き方をするということは必ずしも容易なことではないことをお話ししました。果たして、自分が「したいこと」ってなんだろうと悩んでしまう人が多いのです。長年務めた会社や仕事を一生懸命、働いて、そこを辞め、リタイアすると、これからなにをして良いか分からずに、落ち込んだり、病気になったりして、長く生きられないということが起こってきます。政治家と芸術家、江戸時代の武士と農民・商人の生き方の違いをお話ししました。
  • また、高齢者の持つ特権―すなわち、自分の好きなことに熱中できる多くの時間をもっているという特権―これからの高齢者の生き方がこれからの日本を変えるというようなことにまで話が展開しました。また当教会のヴィジョンである「なつめやしプランニング」の意義がそこにあること、等。
  • しかし、いかにして自分の生活の中に「したいことをする」という生き方を取りこんでいくことができるのか、今まで人や周りのことばかり考え、それに縛られて、あるいは世間から認められることばかり考えていきているとしたら、自分の「したいこと」がなにか、いつのまにか分からなくなってしまい、またわかったとしても、それを実践するには、実に勇気がいることなのだと気づかされるのです。
  • 詩篇119篇を読んでいますと「神の道」と「自分の道」、それはしばしば一致しないのですが、その二つの道が重なり合っているのです。作者は、この二つの道が重なるような生き方に導かれたと証しています。それはどうようにしてかと言いますと、「苦しみに会ったことによって」なのです。
  • 67節では「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今、あなたのことばを守ります。」(ここでいう「守る」ということばば規則として、義務として守るということではなく、自ら、自発的に、神に対する愛のゆえに「守ります」という自分の意思を表わしたことばです。苦しみに会う前には、そうした自分の意思で「守ります」という思いはなかった。むしろ、苦しみに会う前には、作者は「あやまちを犯しました」と告白しています。「あやまちを犯す」とは「迷いに迷った」ということです。人の目を気にしながら生きている。そこにごまかしや偽善が生じて来る。しかし、苦しみに会うことによって、私は「本音で」生きることを学んだということです。詩篇の作者は、幸か不幸か、苦しみの経験を通ったので、今は迷いを吹っ切りましたといっているのです。
  • 71節にもこのことを裏づけることばがあります。
    「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」苦しみの体験を通して、作者は、迷いから吹っ切れたと証しし、本音として、みことばが自分の喜びとなったことを証しているのです。

1. 自分が「わきまえのない者」であることを悟ること

  • 130節に目を留めたいと思います。二つの生き方を結びつけるものとしての苦難の経験があったことを述べましたが、それとは異なるもうひとつ大切なポイントです。まずは130節をいろいろな聖書の訳で味わってみましょう。

新改訳 
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
口語訳
「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」
新共同訳
「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」
LB訳 
「神様のご計画が明らかにされると、それは頭の鈍い者にさえ理解できるのです。」
岩波訳
「あなたのことばの戸は輝き、未塾者らを悟らせる。」
あるいは「あなたのことばを開き、未熟者らを照らして悟らせてください。」
ATD訳
「あなたの言葉の門は光りかがやき、愚かな者たちに知恵を与えます。」
文語訳
「聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ。」

  • 「わきまえのない者」と訳されたことば、別の聖書ですと「無学な者」「無知な者」「未熟者」「頭の鈍い者」というように訳されています。ある人にとっては、カチーン! と来ることばではないでしょうか。自分には学がある、知識がある、大学にも入ってこれこれの学歴があると思っている者にとっては・・・。
  • 聖書にはしばしばこうした「カチーン! 」と来るような表現があります。たとえば、コリント第一1章26節以降などはそうです。
    「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」
  • これを書いているのは使徒パウロです。彼はユダヤ教の中ではエリート中のエリートでした。その彼が自分は別として、「兄弟たち、あなたがたの召しは・・」と言っているかというとそうではありません。自分も実はそうであると認識しているのです。
  • 「使徒の働き」9章には、「目からうろこ」を経験したパウロの回心の記事が記されています。
    突然、サウロに「天からの光」が巡り照らした。・・・「彼の目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。」そして、彼は、諸会堂で、「イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」のである。これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」しかし、サウロはますます力を増し、イエス・キリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。(使徒9章)
  • パウロ(救いにあずかる前はサウロ・・つまりユダヤ名)は、天からの光に照らされるまでは、自分のしていること、自分の立っている立場、自分の考えていることは正しいと思っていました。彼は、主のために、イエスをキリストとする者たちはみな間違っていると思い、そのような者たちを迫害し、牢に入れたり、殺害したりしていたのです。ところが、上からの光りの経験によって、彼は盲目にされ、目が開いたときには、「目からうろこのようなものが落ちた」と聖書はしるしているのです。
  • 私たちの世界、この世の世界では、確かに知識のある者、無学ではなく、学歴や頭の良い人たちは多くいます。しかし、神の世界に関してはだれもが無知なのです。わかっているようなことを言っていたとしても、本当は何もわかっていないのです。そのことをわからせるために、神の御前でだれをも誇らせないために、神は、あえて、(本当はみな愚かで、無知なのですが・・)
    「この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれたのです。この世の偉い人であってもいいのですが、そうした人が多く選ばれると、そうした人が神の御前で自慢し、誇るようになるからだと思います。
  • 神のことについて、人間は誰一人として正しく知る者はいない、というのがパウロの、いや聖書の一貫した教えです。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」(コリント第一、1章21節)
  • 自分が神について、神の世界について、「わきまえのない者」「無学な者」「愚かな者」であることを知るというのは、とても大切なことであり、とても謙遜な人なのです。「私に言わせれば、神なんて・・、あるいは宗教なんてみな同じ」という人は傲慢な人であり、最も「わきまえのない者」「愚かな者」「無学な者」「未熟者」であることを自ら宣伝しているようなものです。
  • イエス・キリストは言いました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていくものが多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7章13, 14節)
  • 神の近くに引き寄せられている人は、自分のこれまでの経験、知識を括弧にくくることが求められています。自分のものさしを捨てるように求められているのです。自分はひょっとしたら何も知らない、無知な者であるかもしれないと考えることです。

2. みことばを通して神の心の声を聞くことの大切さ

  • 「みことばの戸が開くと、光が差し込む」―差し込む光とは、どのような光であろうか。それは、上から来る、真理の光、希望の光、信仰の光、愛の光、慰めの光、そして啓示の光です。その光は私たちのうちにはないものです。ヨハネというイエス弟子は、「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」(1章10節) 「知らなかった」だけでなく、この光を認めず、拒否したのです。そのためにイエスキリストは十字架につけられました。人間が神の光を拒絶した象徴的な出来事です。
  • 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節) このいのちとは、聖書では神との交わりを意味します。「永遠のいのち」という表現もそうです。「永遠」とは神ご自身に最もふさわしい表現です。その神は唯一にして、三位一体の交わりの神です。そこには永遠の交わりが存在します。その交わりの中に招き入れられることが「いのちを持つ」ということです。「いのちの光を持つ」という言い方も、いのちは交わりを意味し、光は神ご自身を表わします。ですから、この「いのちの光を持つ」とは、神の生ける交わりの中に生かされることを意味します。
  • こうした交わりを持つためには、私たちは日々、神のことばを通して、神の心を聞く訓練が必要です。私たちは日々、どれほ、神の声を聞き、また神の心を聞いているでしょうか。語るよりも、聞くことのほうがより大きな奉仕です。このことを私たちはしばしば忘れているのではないかと思うのです。


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