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Ps119の瞑想的説教「みことばは私の喜び」(2)

Ps119の瞑想的説教 「みことばは私の喜び」(2)

〔聖書箇所〕詩119篇92節
もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。


はじめに

  • 詩119篇には「みことばは、私の喜びです」とする表現が多く出てきます。

①詩 119:16 [新改訳
「私は、あなたのおきてを喜びとし(「シャーア」שָׁעַע)、あなたのことばを忘れません。」(〔共〕「楽しみとする」)
②詩 119:24 [新改訳
「まことに、あなたのさとしは私の喜び(「シャアシューイーム」שַׁעֲשׁוּעִים、私の相談相手です。」(〔共〕「楽しみです」)
③詩 119:35 [新改訳
「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいます(「ハーフェーツ」חָפֵץ)から。」(〔共〕「愛しています」)(詩篇1篇2節でも、「主の教えを愛し」(共)、「主のむみおしえを喜びとし」とあります)
④詩 119:47 [新改訳
「私は、あなたの仰せを喜びとします(「シァーア」שָׁעַע)。それは私の愛するものです。」(〔共〕「楽しみとします」)
⑤詩 119:70 [新改訳
「しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます(「シャーア」שָׁעַע)。」(〔共〕「楽しみとします」)
⑥詩 119:77 [新改訳
「私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。
あなたのみおしえが私の喜び(「シャアシューイーム」שַׁעֲשׁוּעִים)だからです。」(〔共〕「楽しみです」)
⑦詩 119:92 [新改訳
「もしあなたのみおしえが私の喜び(「シャアシューイーム」שַׁעֲשׁוּעִים)でなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」〔共〕「楽しみでなかったら」
⑧詩 119:111 [新改訳
「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜び(「サーソーン」שָׂשׂוֹן )です。」(〔共〕「私の心の喜びです」)
⑨詩 119:143 [新改訳
「苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは、私の喜び(「シャアシューイーム」
שַׁעֲשׁוּעִים)です。」(〔共〕「楽しみです」)
⑩詩 119:162 [新改訳
「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます(「スース」שׂוּשׂ)。」(〔共〕「喜びです」)
⑪詩 119: 174 [新改訳
「私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜び(「シャアシューイーム」שַׁעֲשׁוּעִים)です。」(〔共〕「楽しみです」)


  • 「喜びをもって生きる」ということについて考えてみたいと思います。私たちは生きる喜びを持っているでしょうか。何を喜びとして生きているだろうか。果たして、喜びがいかに大きな生きる力であるかを知っているでしょうか。そうした問いかけを自分にしながら、共に考えてみたいと思います。

1. 人生に輝きを与える「喜び」をもたらすもの

  • 詩119篇から人生を百倍楽しむ秘訣について学ぼうとしています。先回、人生には二通りの生き方があるということをお話しました。一つは「しなければならないからする」という生き方です。そして、もう一つは「自分のしたいこと、好きなことをする」生き方です。この二つの生き方はいずれも大切です。一方だけではうまくいきません。「自分のしたいことだけ、好きなことだけして生きる」ことは、その人自身は気づかなくても、おうおうにして周りに迷惑をかけてしまいます。反対に、「しなければならないこと(仕事、つきあい、教会生活等)だけをして生きることは、決して生きる喜びをもたらしません。」 この二つがうまくバランスをもって生きることが多くの実を結ぶ人生であると思います。いずれも大切な生き方です。ただバランスが難しいのです。

(1) 政治家と芸術家に象徴される生き方

  • ある新聞に、政治家よりも、作家とか画家とかー芸術家の方―に長寿の人たちが多いという記事を読んだことがあります。政治家は引退するとそう長くは生きられないそうです。しかし芸術家などは、結構、長生きすると言われます。なぜ、画家とか、作家とか、芸術家は長生きするのでしょう。画家のピカソは91歳まで生きましたし、シャガールという画家は97歳まで生きました。シベリウスというフィンランドの作曲家は91歳、ピアニストでショパン弾きのルーヴィンシュタインは94歳といった具合です。昆虫学者のファーブルという人も91歳まで生きています。彼らの長生きの秘訣は、比較的、人に縛られることなく、自分の好きなこと、したいことをしていたからです。彼らは単に長い生きしただけでなく、仕事を続けたという共通点があるということです。画家のピカソなどは80歳を越えても創作意欲が衰えることはなく、91歳になってもベッドの側で創作活動を続けたと言われます。つまり、生涯を通して熱中できるもの、情熱を傾けるもの、打ち込めるものをもっていたということです。

(2) 江戸時代の武士と農民・商人の生き方の違い

  • 江戸時代では、農民と商人が趣味に興じて生き生きとしていたのに対して、武士はまったくの精彩のない生活を送っていたそうです。その理由は、農民や商人はどのような仕事をどれだけするかを自分自身で決めることかできたからです。つまり自分の運命を自分で決められる立場にいたからである(もちろんすべての農民や商人がそうであったわけではないと思いますが、比較的・・ということでしょう)。それに対して、武士たちは組織の中で息詰まるような生活を送っていました。すべてが組織の中で決められ、生活のすべてを組織に依存せざるを得ませんでした。そして、平和な時代ではいわば不況業種であったのです。したがって、藩は単に生活の面倒を見るだけのために武士階級を養い続けたわけです。
  • 現在の日本はこれを似た状態に陥っています。企業は事業の発展のためではなく、従業員の生活を維持するために雇用を続けることを余儀なくされています。そうした状態が長く続けば、江戸時代の藩と同じように会社が沈没することになる。そして幕藩体制が崩壊したように、日本の社会そのものが崩壊する懸念があります。日本はまさにそうした瀬戸際にあると言えます。日本の活性化とは、そうした状態から脱却することです。
  • これからの日本は確実に高齢化することは避けられません。2050年頃には三人に一人以上が65歳以上という、未曾有宇の「超」高齢化を迎えます。日本は高齢化という点で世界で最も深刻な問題に直面するのです。
  • これまで日本は、毎日のように新しい家や建造物が建ち、日々めまぐるしく変化していく時代でした。町には若者が溢れ、企業もピラミッド型の年功序列の構造を維持できていましたが、これからの日本はそれとは異質の社会になります。しかし、それは必ずしも、日本が衰退していくことを意味するものではありません。むしろ多くの人が充実して満ち足りた生活を送れる成熟社会になることを意味するのです。単なる衰退に向かうか、それとも成熟した充実に向かうかは、リタイアの年齢に達した人々がどのように生きるかで決まると言えます。いたずらに定年を延長することは、社会を沈滞化させるのです。
  • 江戸時代後半は成熟社会であったと言われます。今日、成熟社会というものがどのようなものであるかを考えるにあたって、江戸時代後半の社会は今日の日本の社会に貴重なヒントを与えてくれるという点で注目されています。
  • 江戸時代の隠居は、社会からの厄介払いではなかったようです。伊能忠敬、芭蕉、西鶴のように、自分が本当にやりたいことを実現するために、積極的に隠居するという人が多かったのです。そこまでいかなくても、「道楽」に打ち込むことは普通でした。また、「隠居」が地域社会の中で重要な役割を果たしたことは間違いないのです。

(3) 高齢者の特権と使命

  • ある本によれば、語学は高齢者向きだといわれます。なぜなら、運動だと体力が必要ですが、言葉の勉強に体力はいらないからです。語学の勉強に必要なのは時間だけです。自分の好きなことに熱中できるのは高齢者の特権です。試験勉強とか、仕事に追いまくられている者にとっては決してできないのです。自分の好きなことができるというのは、ある意味でひとつの能力だと思いますが、それができる時間が与えられているということは高齢者の特権です。人は、好きなことをしているときには輝きがあり、ゆとりがあり、時間を忘れるほど熱中しています。
  • 好きなことをするとき、人間は最も能力を発揮します。嫌いなことをムリしてするよりも、好きなことをするほうがずっと実は社会の役に立てるのです。それに比べて、政治家とかサラリーマンとかは、人と人との関係におけるさまざまな駆け引きやプレッシャーの中で生きることを強いられます。確かにそこで成功すれば、功績ありとして尊敬されたりしますが、ひとたびその仕事から離れるならば、自分でなにもすることができないのです。なにをして良いか分らなくなるとき、人は生きる力を失うのです。
  • 日本はこれから未曾有の高齢社会に突入します。定年を終えてから30年の生涯をどのように生きるか、それによって日本が成熟した社会になれるかどうか分かれるのです。高齢者の特権は、
    ①時間があること
    試験や仕事の必要に迫られて(追いまくられて)するのではなく、純粋に、学ぶ喜びだけを目的とする時間がもてる。何かに熱中するといくら時間があっても足りなくなる。自分の好きなことに熱中できるのは熟年の特権です。
    ②財力があること
    ③分からなかった秘密が分かるようになること
    知識や理解力・・若いときには難しくて理解できなかった世界の秘密を、理解できるのも熟年の特権です。それはある程度の知識を身につけることができるからです。あるいは、若いときには感動できなかったものにも感動できるからです。
  • 「リタイア」とは、何も仕事をせずに、年金だけでブラブラ過ごすことではありません。生活のために自己を犠牲にする時間から解放されることです。つまり、すべての時間を、価値あることに、自分のやりたいことのために使うことです。詩篇の作者は、神を求めることにおいて「喜び」を見出しました。そこからものすごいエネルギーが流れているのが分かります。
  • 教会の高齢者の方には、主の力によって、「喜びをもって輝いて生きる」という仕事があります。聖書には
    「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」(詩篇71編9節) 
    「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。」(詩篇71篇18節)
    これは多くの高齢者の切実な祈りではないでしょうか。しかし、神の約束を聞いてください。
    「生まれる前から選ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46章3b~4節)
    「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。詩篇92篇13~14節。
  • レバノンの杉の木のように栄え、なつめやしの木のように多くの実を結ばせてくださることを期待しましょう。もし私たちが、「しなければならないからする」というだけの生き方をしているとすれば、心にゆとりかなくなり、欲求不満に陥り、イライラし、ストレスも増して体に支障をきたしたり、病気になったりするでしょう。そして、それを解消するために、いろいろなものを消費したり(ものを買ったり、食べたり飲んだり)するのです。
  • 実に、多くの人が「しなければならないからする」ということに多くの時間と労力を費やしています。生きるためには費やさざるを得ないのです。生きる糧を得るために、それほど好きな仕事でなくてもしなければならない。あるいは自分の置かれた立場、責任ということで、しなければならないことが多くあるのです。親であるゆえに、指導者であるゆえに、会社の一員であるゆえに、家族の一員であるゆえに、・・これはある意味ではのがれられない義務であり、ある意味では拘束されるものであり、極端に言えば強制でもあります。こうなってくると、人の心は疲れてくるのです。仕事、家事、育児、勉強・・等。
  • そうした「しなければならないことが多い」毎日の生活の中で、せめて教会生活はそこから解放されるものでありたいです。教会生活―礼拝に来ることーも「しなければならない」義務になると、しまいには教会に来ることが大きなストレスとなります。これではいけないと思います。教会は確かに神を父とする家族であり、家族として生きるべき教えがあります。しかしその教えを単なる義務とか戒律的なものにとらえてしまうならば、やがて息苦しくなってしまいます。教会が自分がいてもいい場所であり、アットホームな場所であり、喜びのある場所であり、自分が安心していられる場所でなければならないはずです。
  • 教会が企業と同じように、ある成果(利益)を出さなければ存在の意味がないと考えるならば、教会にかかわることは、この世とは別の仕事に従事しなければならなくなり、次第に生きる活力が失われていくと私は考えます。企業はどこまでも利益追求することが優先されます。ですから、極端に言うなら、家族が離婚しようが、家族が崩壊しようが、それはどうでもいいことなのです。会社に対してどこまでも忠実で、良い働き人となって働いてくれる人を求め、高く評価し、賞賛します。
  • 利益を生み出さない会社員をいつまでも雇うことは、やがて会社にとって危機となります。ですからリストラされます。そうした不安の中で多くの人は歯を食いしばりながら、自分の職場にしがみついている、といった人たちが多くいると思います。そのような人に「好きなことをして生きる」ということは、働いて得たもので何かを買ったり、食べたり・・つまり消費する生き方しかないのです。そうしているうちに、太ってしまい、そういう人たちをターゲットにして、タイエットのためのいろいろな商品を売ろうとしているのです。あたかもすべてが束縛の連鎖の中に生きているようです。
  • いかにして、自分の生活の中に自分の好きなことを取り込めるかです。今まで人のことばかり考え、回りの人のことばかり考え、あるいは世間から認められることばかり考えて生きてきたとしたら、自分の好きなことをするのに慣れていないかもしれません。もしかしたらあなたは、本当は自分の好きなことをしたいと思っているけど、そんなものでは食っていけないと思って、そんな生き方をきっぱりとあきらめてしまったかもしれません。みんなガマンしてがんばっているから世の中が成り立っているのに、自分だけ好きなことをやって生きていくなんて許されるわけがない、と考えているかもしれません。
  • 世間の常識に忠実に従い、好きでもない仕事を続けているある男性について、『ソース』の著者マイク・マクマナスはこう言います。

    「彼は責任ある社会人のように見えますが、実はそうではないのです。彼はまわりの人間 の願望を満たすことに一生懸命で、自分自身の夢や願望を忘れていました。本当の自分を置き去りにしてしまいました。人生の途中で自分の魂を見捨ててしまったのですから、それはもっとも無責任な行為といえます。自分自身に無責任な人は、家族や友人知人、仕事、ペットにさえ、責任をもつことができません。なぜならその人からはゆううつ、イライラ、怒り、恨み、不満、むなしさなどが漂い、それがまわりの人間たちにも伝わるからです」


2. 輝いて生きる知恵を求めよう

  • 「しなければならないこと」と「自分のしたいこと」を両立させる知恵を求めましょう。これは時間がかかると思います。まず、意識改革が必要だからです。

①自分を閉じ込めている律法主義から自分を解放することです。
②主にある自由を手に入れることを求めることです。
③「希望」を失わないことです。

  • 人生には自分を解放してくれるチャンスが必ずあるということです。それはしはしば「破れ」を通してやってきます。「破れの経験」です。詩篇の作者たちにとっては、それはバビロンの捕囚という経験でした。
  • 悩み、つまずき、悲しみ、辱め、病気など・・・その意味を見出すのは大変だけれど、すごく大きな意味を持っているのだと思います。悩んでいる時は、まわりが八方ふさがりに見えます。こんがらがってもつれた糸のように・・・。もつれた糸をほどくのには、ふわっと抱え込んで、ふわーふわーっと、あっち引っ張ったり、こっちほぐしたりするのがいい。ふわーふわーっとやっていると、ほどける時にはパラパラッと一気にほどけます。本当に 不思議だけれど。
  • 失敗やつまずき=発展(成長)、発展(成長)=つまずき・・・つまずきが大きいほど発展(成長)の可能性も大きい。だから希望を持ち続けること。素晴らしい発展は、同時に大きな苦しみを伴うのだから、その苦しみをちゃんと引き受けること。そんな中で、人は気づかないうちに、心を使って「生きる」という大事業をやっていくのだと思います。失敗・つまずきの中では暗中模索して頑張るしかないけれど、その時大事なことは・・・「希望」を失わないことです。
  • 119篇の作者は、苦しみの中で、自分に吹っ切れる経験、迷うことから吹っ切れた経験をしました。そして神のことばに唯一の慰めを見いだしたのです。
    81節「私はあなたのみことばを待ち望んでいます。私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。『いつあなたは私を慰めてくださいますか。』と言っています。たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。」

 


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