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Ps70の「かかわりの構造」

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Ps70a

  • 詩篇70篇は「私」という存在の自己認識が明確であることが特徴です。「私は、悩む者、貧しい者です。」とあるように、前者の「悩む者」は「アニー」(עַנִי)、後者は「エヴヨーン」(אֶבְיוֹן)です。いずれも貧しさを表わす語彙ですが、特に後者のエヴヨーンは極貧状態を意味します。この二つの語彙はしばしばワンセットで用いられます。特に詩篇においては特愛用語です。この二つのことばを重ねて使うことにより、その貧しさ、貧困さの深刻さが表されているわけです。
  • この世の物質的な単純な貧しさからはじまって、貧しさゆえに、人々から踏みつけられ、圧迫されている状態を意味するようになります。さらには、貧しさゆえに人々から踏みつけられ、圧迫され、無力な存在となり、人からの助けを求めることもできなくなります。そして地上の助けが閉ざされたとき、はじめて、神を見上げるようになるのです。そんな貧しい者の存在が詩篇には多く登場します。
  • やがて、新約時代には「貧しい」ということばがギリシア語で「プトーコス」πτωχοςとなります。「ちぢこまる、うずくまる」という意味です。普通の貧しさ、貧乏ではなく、ほんとうの差し迫った窮乏、自己破産した状況を意味することばです。イエス・キリストは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものです。」(マタイ5:3)と言われましたが、ここでの「心」とは「霊において」という意味で、霊的領域において貧困を極めている者は幸いだというのです。なぜなら、その人は神から霊的な祝福を受ける最高の位置に置かれているからです。
  • 「悩む者、貧しい者」である「私」は、「私のいのちを求め」「私のわざわいを喜び」「私をあざ笑う」敵の存在にたえず攻撃されていまず。しかし同時に、この「私」は「神を慕い求める人たち」「神の救いを愛する人たち」と連帯しています。そのために、「私」という存在は神に向って嘆願をし、連帯する者たちのためにとりなしの祈りをしています。
  • このかかわりを支えているのが、実は、「急いで」(70:1, 5)という言葉です。この「急いで」ということばは「フーシュ」(חוּשׁ)で二つの意味を持っています。一つは「急いで」といった緊急性をもった意味です。もう一つは、貧しさゆえの「(利益を)受け、熱心に楽しむ」という切迫性をもった意味があります。
  • 敵からの「急いで」は、その助けが緊急であるようにと求めていますが、連帯する者たちのための「急いで」とは、神からの祝福を受けて熱心に楽しむようにという切迫性をもった祈りです。自らが「悩む者、貧しい者」であるゆえに、神を慕い求めることでその祝福にあずかれるように切迫性をもって熱心に求めているのです。

    Ps70b

  • 御子イエスも、いつも敵からいのちを狙われ、あざ笑われていました。と同時に、御子は貧しい者となられ、一切、御父と御霊に依存しておられました。詩篇70篇の「私」はまさに御子イエスと言えます。

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