****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「そうすれば」

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4. 「そうすれば」

聖書箇所 4:1~43

1. 命令と約束

  • 申命記4章のキーワードを1節と6節にある「そうすれば」とします。それは「神の命令」と「約束」を結ぶことばだからです。

1節 
今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。


6節
これを守り行いなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言うであろう。

  • 神の命令は、①「聞きなさい。」②「守り行いなさい。」です。

何を「聞くのか」、何を「守り行うのか」。それは「神がモーセを通して教えたおきてと定め」です。

  • 神の約束は、①「生きる」②「地を所有する」③「国々の民に知恵と悟りを示す」です。

2. 「聞き従う」ことは、神を愛すること

  • 神の子どもであることと、神に従順な子どもであることとは、全く別のことです。従順は何よりも神に喜ばれることです。預言者サムエルがサウル王に語った言葉が思い起こされます。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)。ここには「聞く」(「シャーマ」שָׁמַע)ということばの真の意味が語られています。つまり、「聞く」とは神の御声に耳を傾けて従うことです。神に従順であること、服従することを意味します。しかも神は、それをすべてのいけにえにまさって喜ばれるのです。
  • イェシュアは最後の教え(訣別説教)の中で、神を愛することと、神の戒めを守ることは同義であることを弟子たちに教えられました。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)。同様のテーマは、ヨハネの手紙の中でも語られています。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:3)と。神の戒めは、神の愛の尊い表現であり、それに対して従順である者に、神はことばでは到底表現し切れないほどの祝福―つまり「三位一体の神がともに住む」という祝福―を約束しておられます。
  • 4章1節に述べられている神のおしえに聞き従うことに失敗した神の民―第一世代の神の民、いや、バビロン捕囚となった神の民、いや、そこから逸脱して律法主義と化してしまった神の民―のために、「踏み直して」くださった神の御子イェシュアの足跡を歩むようにと私たちは召されています。この方こそ、ただひとり、申命記で語られたことに従順であられました。

3. 聖書との対峙

  • 新約聖書で「聖書」と言われているのは、申命記で教えられている神のトーラーのことです。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:15~16)とあります。とはいえ、単に「聖書信仰」を標榜するだけでは力はありません。福音主義の立場に立ち、「聖書は、私たちの生活のすべての規範です」と告白するだけでも力はありません。日々、神のことばを聞き、学びつつ、それに「聞き従う」ことが問われています。
  • 教会の歴史を学ぶ時、そこに見られるひとつの原則は、いつの時代であっても、神の教会が覚醒されていのちを回復するときには、必ず、神のことばがその時代の人々にとってよりいっそう豊かな意味をもって開示されるということです。神のことばに対する鋭い問いかけがなされ、そこからより深いいのちに導く真理に導かれていることです。神が新しいことを始められる時には、いつも神のことばを真剣に「聞く」者たちがいるという事実です。はたして、今日に生きる私たちはそうした者たちの部類に数えられることができるのか、いつも問われています。その意味では、申命記4章の1節、6節の命令と約束は「今日的課題」なのです。

  • 詩篇119篇の作者も同じく神の命令と約束を「今日的課題」として、危機感をもって受け留めていたのです。

    ●119:27
    「あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。」
    ●119:44
    「こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。」
    ●119:47
    「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。」



【付記】(2017.8.23)

●申命記4章に入るととても目立つ語彙があります。それは「シャーマル」(שָׁמַר)という動詞です。「気をつける、注意する、心する、心を留める、警戒する、守る、慎む」といった意味で使われています。すでにこの動詞は2章にも登場していますが、そこではエドム人の国を通過する上で、決して自分たちから争いを起こさないように「よく注意するように」という意味で使われています(4節)。ところが4章以降からは、新しい世代に対して、約束の地を受け継ぐことで起こってくる問題(危機)に対して、主はご自身の「おきて」(フッキーム」חֻקִּים)と「定め」(「ミシュパーティーム」מִשְׁפָּטִים)を守るようにと命じています。「おきて」と「定め」には、神を愛し、神を礼拝することがどういうことかを実際の生活の中で実践することを内容としています。カナンの地にある異民族には多くの偶像が存在しています。罪を犯した人間が生存と防衛の保障を求めて、まことの神ではなく、偶像に傾くことを主はご存知でした。それゆえ、「気をつけよ、注意せよ、心せよ、心を留めよ、警戒せよ、守れ、慎しめ」と語る必要があったのです。

●偶像の背後にはやみを支配する力が存在しています。神の民は神を信じ、神を愛することを通してその力に立ち向かい、この世に神の知恵と悟りを示す(あかしする)務めと責任が与えられています。「やみの中から呼び出された光」の中に、神はすべてのものを造られました。神は人をご自身のかたちに似せて造られた後に、エデンの園に人を置かれました。そしてそこを守らせたのです。どのように守らせたかと言えば、その中央にある二つの木のうちのひとつ、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」というひとつの戒めを置きそれを守らせようとしたのです。その目的は、おそらく人に、目には見えない「やみ」の存在を教えるためであったと思われます。神の戒めを守ることで、初めて人は光の中に生きることが保証されていたのです。しかしその戒めは破られてしまい、人はエデンの園から追放されてしまったのです。

●再び、エデンの園に神と人とが住むことが回復されるためには、人が神を愛し、神を信じて、神の「おきて」と「定め」とを守る必要があるのです。そのことを繰り返し、繰り返し警告しているのが、申命記なのです。これは神の民にとって、古くて新しい課題なのです。やがてイェシュアによって与えられる「新しい契約」では、それが神の主権によって完全に可能となります。

●使徒パウロが「光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう」と述べているように、そこには何の一致もありません。ですから、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはならないのです。明確な分離が求められています。これが神の民の永遠に変わることのない神とのかかわりの原則なのです(Ⅱコリント6:14~18)。

画像の説明

「シャーマル」を構成するヘブル文字
שׁ(シン)は、歯を意味し、神のことばを食べることから、「神を尋ね求める」ことを意味します。
מ(メーム)は、永遠に変わることのない真理を意味します。
ר(レーシュ)は、神のご計画、意図、考え、目的などを意味します。

●ヘブル語の「シャーマル」(שָׁמַר)は、神の真理、つまり、神のご計画や意図を熱心に尋ね求めることを意味します。イェシュアはその模範でした。神を愛することは、神の「おきて」や「定め」の意図を深く知り、それを絶えず尋ね求めることを意味するのです。単にある決まりを守ればそれで良いというものではありません。むしろ、より積極的な意味が隠されているのです。



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