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「幻」と「先見のことば」について

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補完No.3. 「幻」と「先見のことば」について

【聖書箇所】1章1節、2章1節

ベレーシート

  • イザヤ書の1章1節と2章1節にある「表題」ともいえる箇所に注目したいと思います。

1章1 節「イザヤの幻
「ハゾーン・イェシャヤーフー」 (חֲזוֹן יְשַׁעְיָהוּ)


2章1 節「イザヤが示された先見のことば
「ハッダーヴァール・アシェル・ハーザー・イェシャヤーフー」
(הַדָּבָר אֲשֶׁר חָזָה יְשַׁעְיָהוּ)

※2章1節にある「先見」を意味する語彙が原文にはありません。原文直訳は「イザヤが見たことば」です。


1. 「幻」と「示された先見のことば」

  • 1節の「幻」を意味する「ハゾーン」(חֲזוֹן)は名詞「ハーゾーン」(חָזוֹן)の連語形で、その語源は動詞の「ハーザー」(חָזָה)です。そして2章1節の「示された」は動詞の「ハーザー」(חָזָה)です。つまり、1節の「幻」も2章1節の「示された」も語源は同一なのです。そこで、「ハーザー」について詳しく調べてみたいと思います。
  • 2章1節の原文の直訳の「イザヤが見たことば」と1章1節の「幻」は、本質的には同じ意味です。いずれもイザヤは「ユダとエルサレム」について起こる出来事を見るのです。といっても預言者は神からの啓示を肉体的な目と耳ではなく、霊的な心の目で見たのです。「示された」という動詞「ハーザー」(חָזָה)には預言的完了形が用いられています。つまり、やがて必ず実現することを、イザヤは絵画のような静止画ではなく、おそらくインパクトのある動画を見るように見たのです。
  • 預言者が神からのメッセージを受容する器官は心の「耳」であり「目」です。彼らは「神のことば」を聞き、また、「幻」としても見るのです。ですから、そのような預言者は「先見者」とも「予見者」とも呼ばれるのです。詩篇11篇7節に「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」とあります。「仰ぎ見る」と訳された「ハーザー」(חָזָה)は「見る、目を注ぐ、注視する、見渡す、預言する、仰ぎ見る」という意味です。すでに11篇4節にもこの動詞が使われていますが、そこでは主の目が人の子らを注視する、見渡すという意味で使われています。詩篇11篇7節、17篇15節では「御顔」を、27篇4節では「主の麗しさ」を、46篇8節では「主のみわざ」を、63篇2節では「あなた」を、作者は仰ぎ見ています。
  • 動詞の「ハーザー」(חָזָה)が名詞になると「ハーゾーン」(חָזוֹן)で、意味は「幻、黙示、預言」となります。箴言29章18節に「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」とあります。ここにある「幻」が「ハーゾーン」(חָזוֹן) です。口語訳では「預言」と訳されています。この言葉は、このままでは本当の意味は伝わりません。なぜなら、ここで「幻」と訳されている言葉の原語の意味は日本語とは異なっているからです。「幻」という言葉は、例えば広辞苑では「実在しないのに、その姿が実在するように見えるもの。」と説明されています。それゆえ、この訳語のままであれば、「本来は実在しないものだが、実在するように見えるものがなかったら、民は堕落する」という奇妙な意味になってしまいます。この箴言29章18節の意味は、「神の国という確固たる実在(主の定め)を見つめていない民は滅びる」ということです。つまり、より鳥瞰的な神のご計画における御国のヴィジョンを見つめることなしには、神の民が堅く立つことはできないことを示唆していています。
  • 前方(将来)に見るべきものを持たないとき、人間は混乱し、精神に確固たる秩序を失い、荒廃するということです。この世がまさにその通りです。神の国を見つめることをせず、金や快楽、地位、名声などを見つめていくときには、人間は手綱を失った馬のように銘々が勝手な方向に行き、互いに争い、憎んだり、戦ったりするようになります。そして、そのあげくには滅びということになるのです。
  • 詩篇119篇18節に「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」とあります。この願いは、神のみおしえである「トーラー」の中に啓示されている神のご計画とみこころ、御旨と目的に、霊の目が開かれることを求める祈りです。つまり、それは旧約の預言者たちが見た幻を正しく理解することではないかと考えます。今日のキリスト教会は、神がなそうとしておられることにより強い関心を持ちつつ、天の御父の心を深く悟る必要があります。そのために、聖書を読み直すことが求められているのです。

2. 「預言者」「予見者」「先見者」について

  • 上記に挙げた三つの言葉についてそれぞれの意味するところを説明したいと思います。

(1) 「預言者」(「ナーヴィー」נָבִיא)

  • 「預言者」(「ナーヴィー」נָבִיא)は旧約中317回、女預言者(「ネヴィーアー」נְבִיאָה)も含めると323回用いられています。神によって呼び出された者、召された者を意味します。預言者とは何かを知るために、預言者中の預言者であるモーセに目を留めてみることにしましょう。

【新改訳改訂第3版】申命記34章10節
モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。

●この聖句から、預言者とは神と特別な関係をもって選び出された者であることが分かります。さらに、申命記18章18節を見ると以下のように記されています。


【新改訳改訂第3版】申命記 18章18節
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。

●この聖句では、預言者の働きとは、神が授けたことばをみな神の民に告げることであったことが分かります。


●このように、預言者の本質とは、働きのための能力というよりは、まず神との関係において特別に選び出された者であり、その働きは神の口となって、神に代わり、神から授けられたことばを、そのままみな、告げる者のことだと分かります。


(2) 予見者(「ローエ」רֹאֶה)

  • 「予見者」は旧約では12回使われています。主に「サムエル」について用いられています(8回)。「ローエ」(רֹאֶה)は、「見る」を意味する動詞「ラーアー」(רָאָה)の分詞形です。予見者が何を見るのかが重要です。そこで、サムエルがなにゆえに「予見者」と呼ばれているのかを知るために、以下の箇所を見てみましょう。
  • Ⅰサムエル記9章には、サウルと若者が失われたろばを探して三日間探し回ったが見つからなかったことが記されています。疲れ果てた彼らが、ろばの行方を教えてもらおうとして、サムエルの所に行ったのです。9節にはこう記されています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰサムエル 9章9 節
──昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである──

  • サムエルの時代の前には、すでに預言者という言葉が定着していたようですが、サムエルの時代には預言者の代わりに「予見者」という言葉が使用されていたということです。その場合、予見者とは、預言者のように神の口の代弁者というよりも、普通の人には見えないこと、将来の運命を予見する人という意味として使われています。

(3) 先見者(「ホーゼ」חֹזֶה)

【新改訳改訂第3版】Ⅱサムエル記 15章27節
王(=ダビデ)は祭司ツァドクにまた言った。「先見者よ。あなたは安心して町に帰りなさい。あなたがたのふたりの子、あなたの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンも、あなたがたといっしょに。

  • この語彙は旧約で17回用いられています。「ホーゼ」(חֹזֶה/ חוֹזֶה)の由来する動詞は「ハーザー」(חָזָה)で、一般的な「見る」(「ラーアー」רָאָה)よりも、もっと「深く見る」「見通す」というニュアンスがあります。では、「予見者」と比べてどちらが「深く見るか」は断定できません。むしろ同義(同列)と理解すべきです(イザヤ30:10)。ユダの王ヒゼキヤの時代に「先見者」と言われる者たちがいました。

【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌 29章25節
さらに、彼は、ダビデおよび王の先見者ガド、預言者ナタンの命令のとおりに、レビ人にシンバルと十弦の琴と立琴を持たせて、【主】の宮に立たせた。この命令は【主】から出たものであり、その預言者たちを通して与えられたものだからである。


【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌 29章30節
ヒゼキヤ王とつかさたちが、ダビデおよび先見者アサフのことばをもって【主】をほめたたえるようにレビ人に命じると、彼らは喜びつつほめたたえた。そして、一同はひざまずき、伏し拝んだ。


2017.12.22


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