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あなたの目はあなたの教師を見続けよう

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21. あなたの目はあなたの教師を見続けよう

【聖書箇所】30章1~33節

ベレーシート

1. 「何もしないラバブ」

  • 主はユダの民を「反逆の子ら」と呼んでいます。なぜなら、彼らが神から離れて、エジプトのパロの保護を頼るようになっていたからです。しかし、パロの軍事的保護に頼ることは恥と侮辱(屈辱)をもたらすことをイザヤを通して語っています。
  • 7節に「何もしないラハブ」というフレーズがあります。「ラハブ」(רַהַב)とは「高ぶる、せがむ、攻撃する、傲慢になる、自慢する」を意味する動詞「ラーハヴ」(רָהַב)から由来したエジプトの象徴的名称で、海の海獣をも意味します。その「ラハブ」に対して、主は皮肉を込めて、『何もしないラハブ』と呼んでいます。自信に満ち、ユダの人々の願いを受けて助けようと豪語しながらも、実際には「何もしないで休んでいる」(「シャーヴァット」שָׁבַת)というわけです。そんな頼りにならないエジプトに頼ることがどんな結果をもたらすかを警告しています(12~14節)。

2. 主のおしえを聞こうとしない不義にとそれに対する神のさばき

(1) 徹底した、容赦のない破滅

  • 主のおしえに聞こうとしない不義に対するさばきは徹底したものです。その特徴は二つの劇的な比喩的表現によって表わされています。ひとつは、一瞬にしてもたらされる破滅(13節)。もう一つは、土の器が打ち砕かれるような容赦ない完全な破滅(14節)です。陶器師のつぼが砕かれたならば何の役にも立ちません。古代においては陶器の破片は何らかの利用価値がありました。しかし利用できる陶器がひとかけらもないほどに、粉々に打ち砕かれることを意味しています。そのようにユダのエジプトに頼ろうとする政策は全く無益であるどころか、きわめて悲惨な結果をもたらすことが述べられています。

(2) 丘の上の旗しか残らない

  • 神である主は、預言者イザヤを通して、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と救いを約束したにもかかわらず、ユダの人々はこれを望まなかったとあります。「望まなかった」とは、神に従うことを「望まなかった、欲しなかった」という意味です。「立ち返る」ことはそう簡単なことではないことが分かります。
  • ところで30章16~17節は難解です。どのように解釈すべきでしょうか。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書30章16~17節
16 あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。


「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」という訳の「逃げよう」ということばはどうしても「敵から逃亡する」というイメージになります。しかし樋口信平氏は原語の「ヌース」(נוּס)をすばやい動きを示すことばだとしています。つまりここは「疾走する」という意味と理解して、エジプトの馬をもってして敵陣に向って疾走(突進)していくイメージです。それゆえ16節は、以下のように考えると理解しやすいはずです。
「私たちは馬に乗って敵陣へと疾走しよう。」と。それに対して主は、「ならば、そうしてみよ。」。すると民はなおも「私たちは早馬に乗って(突進する)」と言います。すると主は、「よろしい。ならばそうしてみよ。むしろあなたがたの敵である(アッシリヤ)のほうが、逆に(あなたがた以上に)すばやく動いて追いかけてくる。」というかなりの補訳ですが、これが16~17節の真意ではないかと思います。


その結果が、以下の17節に記されているのです。

17 ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。


まことに、敵に容易に打ち負かされ、追い散らされて、山の頂には、軍旗だけが残っているような、そんな悲惨な結果になるだけだ、ということです。


3. 右に行くにも左に行くにも

  • 主の目には結果がすでに見えています。そんな彼らの罪をさばいて罰する必要があるにもかかわらず、主は忍耐をもって、民が悔い改めるのを待とうとしています。それが「それゆえ」で始まる18節です。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書30章18節
それゆえ、【主】はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。【主】は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

  • 「待っておられる」と訳された動詞は「ハーハー」(חָכָה)で、放蕩息子の父がいつ帰って来るのか分からない自分の息子を忍耐と大いなる期待をもって待っている(ルカ15:20)、そんなニュアンスの語彙です。「ハーハー」の名詞「ハッカー」(חַכָּה)が「釣り針」を意味するのもうなずけます。そしてひとたび民が主に立ち返るなら、主は彼らを「あわれもうと立ち上がられる」のです。これも放蕩息子の父のイメージです。「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」という息子に対して、父はなんら責めることなく、彼を受け入れ、最高のもてなしをしています。これが「あわれもうと立ち上がられる」という意味です。
  • 同じく18節に「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」とありますが、ここでの「待ち望む」も、主が民に対して示している「ハーハー」と同じ語彙が使われています。つまり、主を信頼して、忍耐と熱心な期待とをもって主を待つことを意味します。そのような者たちは「幸いなこと」だとしています。そして20~21節に「主を待ち望む者たち」に臨む「幸い」一つが語られています。それが以下のことです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書30章20~21節
20 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたのはあなたの教師を見続けよう。
21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたのはうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く

  • 20節の「教師」と訳されたことばは名詞の「モール」(מוֹר)で、「導く方」「師」「導師」とも訳されています。複数形が使われていますが、動詞が単数であるため、ここでは「神」を表わす「エローヒーム」(אֱלֹהִים)と同様に畏敬複数と考えられます。ここでの「教師」は神のトーラーの真意と秘密を教えることのできる教師です。20節の「たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても」とは、バビロン捕囚での生活を預言していると考えられます。しかし、「あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。」というのは、ある種の永遠的な教師の存在を感じさせられます。とすれば、ここでの「教師」は神、あるいは神に油注がれた預言者と考えるならば、教師としてのメシア・イェシュアの他にはおりません。このメシア・イェシュアこそ民の歩みの明確な方向を示して下さる方なのです。
  • イザヤの時代のユダの人々は、主のおしえを聞こうとしない者たちでした。それゆえに神は彼らを罰し、神の正義を示すと同時に、彼らが悔いて帰ってくる折りには、「立ち上がって」祝福を与えて下さる方であることを「人称なき存在」(御霊)が語っています。しかしこのことが完全に実現するのは、神のマスタープランによれば、メシアが再臨するときです。そのときには、霊的な目と耳の障害は完全にいやされ、神の民たちは自分たちの教師を見続け、また主のおしえを聞き続けるようになるのです。メシア王国は一つの国です。国には国を統治する王がおり、その王に従う民がおり、彼らが烏合の衆にならないための「主のおしえ」がなくてはなりません。そのおしえに喜んで聞き従っていく「その日」がやがて訪れるのです。
  • ちなみに、「教師」「導かれる方」の語源は動詞「ヤーラー」(יָרָה)です。基本形では「投げる「(矢を)射る」、使役形のヒフィル態では「教える」「示す」「(雨のように)水をかけるという意味があります。名詞の「トーラー」(תּוֹרָה)もこの動詞から由来しています。「あなたの教師」を見続けると同時に、背後からその教師の語られる声を聞くようになるという預言です。「背後から」「うしろから」というのは、牧者が羊を導くときに、後ろから羊に声をかける様子を表わした言葉だと言われています。いわば牧羊語です。
  • その語られる声の内容が、新改訳と新共同訳とではニュアンスが異なっています。

【新改訳改訂3】
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。

【新共同訳】
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。

  • 新共同訳の場合は、あなたがたの行くべき道として「右に行け、左に行け」と指示する声を聞くというような訳し方です。しかし新改訳の場合は、たとえあなたが右に行こうと左に行こうとかかわりなく「これが道だ」という声を聞くとしています。ヘブル語原文ではどうなっているのでしょうか。

画像の説明

  • 原文を見る限り、新改訳の方が原文に近いように思います。つまり、あなたがたが右に行こうが、左に行こうがかかわりなく、背後から教師(導く方)の声を聞き、「これがその道、そこを歩め」という声を聞くようになるということです。「その道」(「ハ・デレフ」הַדֶּרֶךְ)とは「正しい道」です。神にとって「正しい」(「ツァッディーク」צַדִּיק)とは、善悪的な倫理概念よりも、神と人との正しい関係概念だと理解すべきです。「両者間の真っ直ぐな関係」、「両者間の最善なかかわり」のニュアンスです。つまり21節は、あなたが右に行こうと左に行こうと、主との最善のかかわりが保たれるような道に歩むように、背後から主が声をかけて下さるという意味なのです。決して、右に行けとか、左に行けといった命令の指示を背後から与えるというのではなく、むしろ、最善のかかわりの中で自由に歩むようになるという意味なのです。

2014.9.5


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