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すべての空しさの根源には死がある

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伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

9. すべての空しさの根源には死がある

【聖書箇所】9章1~18節

ベレーシート

  • 「日の下」で起こる最悪の出来事は「死」です。しかも「死」はすべての人にとって百パーセント、例外なく起こるという点で一致しています。人々はこの「死」という現実から決して逃れることができません。この現実を背景にして、「日の下」には人それぞれの人生哲学があると言っても過言ではありません。「死」の向こうには「よみ」(「シェオール」שְׁאוֹל)があると考えられ、そこは「働きも企ても知識も知恵もない」世界だと考えられていたようです(9:10)。

1. 同じ結末がすべての人に来る

【新改訳改訂第3版】伝道者の書9章3節
同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

【新共同訳】
太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。


  • 伝道者は、「同じ結末がすべての人に来る」という現実から、「人の子らの心は悪に満ち、その心には狂気が満ち」ているため、大方、そのように傾いて行くかもしれないと想定したうえで、「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。」(9節)、「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。」(10節)(新共同訳は「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。」と訳しています)と勧めています。これはいわば「日の下」の健全な人生哲学と言えます。
  • たとえ、この世の歴史に自分の名を残そうとすばらしい働きをしたとしても、この世そのものが永続しない限り、すべての記憶は消されてしまう運命にあります。これも実に「空しい」ことです。

2. 「主にあってなされた労苦が決してむだにならない」世界

  • ところが、すでに神の御子イェシュアが復活して下さったことによって、やがて、主にあってなされたすべての労苦が報われる世界が到来するのです。それゆえ、使徒パウロが述べた以下のことばを信仰をもって心に銘記すべきです。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント書15章57~58節
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

  • 57節の「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」とは、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(15:20)という事実を意味しています。つまり、死が私たちを支配しないということを可能としてくださったのです。死の代わりに新しい永遠のいのちが信じる者の内に与えられます。しかしそのいのちはやがてその開花が約束され、保障されてはいますが、キリストの再臨までは種のようなものです。しかし、時が来れば、私たちの思いや考えをはるかに越えた朽ちないからだが与えられるのです。
  • それは、伝道者の言う「あなたが行こうとしているよみには、働き(「マアセ」מַעֲשֶׂה)も企て(「ヘシュボーン」חֶשְׁבּוֹן)も知識(「ダアット」דַּעַת)も知恵(「ホフマー」חָכְמָה)もない」という世界ではなく、むしろ正反対で、それらがあり余るほどに与えられる世界、つまり「御国」なのです。
  • 完成される「御国」においては、「自分たちの労苦が、主にあってむだでない」世界となるのです。「むだ」と訳されたギリシア語は形容詞の「ケノス」(κενός)ですが、ヘブル語でそれに相当する語は「レーク」(רֵק)です。名詞形では「空しさ・空虚」を意味する「リーク」(רִיק)です。「むだにはならない」、「ロー・ラーリーク」(לֹא לָרִיק)の世界があるのです。それゆえ、この「日の下」において、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励」むことができるのです。このことはきわめて重要なことです。
  • もし、私たちがふと空しさを感じるなら、その心の思いを、Ⅰコリント15章58節のみことばによって、信仰によって、明確に打ち消さなくてはなりません。

堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。


●ギリシア語原文では「堅く立つ」と「動かされない」は形容詞です。つまり、「堅く立つ者」「動かされない者」と「なれ」(「ギノマイ」γίνομαιの現中態)と命令されています。つまり、「堅く立つ者であり続けよ」「動かされない者であり続けよ」ということです。

●「励みなさい」と訳されたことばは、「豊かになる、卓越する」という意味の動詞「ペリッセウオー」(περισσεύω)の分詞形で、主の働きにおいて卓越する者で「あり続けよ」(「ギリマイ」γίνομαιの現中態)となっています。これをヘブル語にすると「残る・余る・超過する」という意味の「アーダフ」(עָדַף)が使われ、「余すところなく」といったイメージとなり、まさに使徒パウロの生き方そのものと言えます。

●「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」というこの命令を可能とさせ続けるのは、自分の働きが主にあって無駄にはならず、主に永遠に覚えられて、それに対する報いが約束されているという確信があるからです。イェシュアの死からのよみがえりの勝利とそれに対する信仰は、日の下にありながらも、私たちの歩みを根本から動機付ける力となるのです。それゆえ、御国における喜びに与るために、「いつもあなたは白い衣を着よ。''頭には油を絶やしてはならない。」のです(【新改訳2017】伝 9:8)。


2016.3.22


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