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イザヤの召命に先立つ見神の経験

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5. イザヤの召命に先立つ見神の経験 

【聖書箇所】6章1~13節

ベレーシート

  • イザヤ書の注解を書いている鍋谷堯爾(Gyouji Nabetani)氏は、「イザヤの召命の記録を読み、感激して献身の生涯に入った人は非常に多い。しかし一方において、この6章ほど誤解されたまま読まれている章も少ないのではなかろうか。それは、数節が断片的に読まれて、統一的な読み方がなされていないためである。」と書いておられます(「新聖書注解 旧約3」、いのちのことば社、527頁)。おそらくそれは、6章8節にある主の声を聞いたイザヤとのやり取りのことばだけを知って献身しようとすることを意味しているのだと思われます。
  • ところで、私の恩師小林和夫師が「イザヤの見たもの」というタイトルで、このイザヤ書6章から三回のすぐれた連続説教を著しておられます(「イザヤ書講解説教 (上)」)。その説教では、イザヤの見神の経験がきわめて重要であること、しかもそれはイザヤの生涯を決定づけるほどの経験であったことを強調して語っておられます。小林師の三つの説教を「要約するとこうです」と、そのアウトラインを書き表わすことができたとしても、それによって聞く者を震えあがせるほどの師の鋭いメッセージは伝わってきません。今回、特に、召命に先立つイザヤの見神の経験、およびセラフィムの声がイザヤに与えた影響がいかなるものであったかに目を留めてみたいと思います。

1. 「私は、主を見た」という不思議な表現

(1) ウジヤ王が死んだ年に

  • イザヤ書6章の冒頭に、イザヤが主を見た時が、「ウジヤ王が死んだ年に」と書き記していることは重要です。「ウジヤ王が死んだ年」は、ある意味においての象徴的な出来事と言えると思います。たとえば、アブラムにとっての父テラの死、ヨシュアにとってのモーセの死、そしてイザヤにとってのウジヤの死がそうです。そこには「死」という出来事が新しい使命を担って召される者たちにとって意味のある神の時となっているということです。
  • ウジヤ王の存在は神によって与えられた繁栄の祝福の象徴です。しかし彼はその生涯の半ばで、高ぶりと不信の罪によって神に打たれてツァラアトにかかった後に死にます。彼の死は、単にウジヤ個人にとどまらず、ユダの国にとっても、見せかけの繁栄に酔っていた時代が終わったことを暗示する象徴的な出来事とも言えます。そのような年にイザヤは「主を見る」という経験をしたのです。

(2) 高くあげられた王座に座している主のヴィジョン

  • さて、「私は、主を見た」と訳されている原文は「エルエ、エット・アドーナーイ」(אֶרְאֶה אֶת־אֲדֹנָי)とあり、直訳的には「私は見た。私の主を」です。しかもその「主」が大文字の【主】(יהוה)ではなく、主人を意味する「アドーナーイ」(אֲדֹנָי)です。このことは何を意味しているのでしょうか。また、天に御座に座す主の裾が地上の神殿(本堂を意味する「ハ・ヘーハール」הַהֵיכָל)一杯に広がっている光景(幻)をイザヤは目にしたのです。

(3) セラフィムが交唱する賛美

  • その主の座の上に「セラフィム」(原語は「セラーフィーム」שְׂרָפִים)がいるのをイザヤは見ます。「セラフィム」はイザヤ書6章にしか登場しない御使いです。彼らのその位置は、おそらく王座の上ではなく、その前か、あるいはそのまわりに(あるいは、それを取り巻くように)と訳すべきです。イザヤは「セラフィム」がそれぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛んでいる光景を見ますが、その数については不明です。しかもその姿形について何も説明なしですが、イザヤは彼らが互いに「聖なる、聖なる、聖なる。万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と呼び交わして賛美している声を聞いたのです。
  • 「王座に座しておられる方」とそのまわりにいる「セラフィム」の啓示については、明確ではなくても、それらはきわめて象徴的性格を持っています。「高くあげられた王座」は神の至高性を表わし、「セラフィム」が二つの翼で顔を覆うのは、尊敬と畏れをもって礼拝される神の尊厳性、威厳性を示し、両足を覆うのも神に対する謙遜を表わす象徴的行為です。また、セラフィムの賛美にある「聖なる」というフレーズは神の本質を表わす聖性を意味し、「その栄光は全地に満つ」とは、地上における神の権威の力がおよぶ支配の普遍性を象徴しているとも言えます。また4節にある「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた」という表現も、単に地震が起こって、煙が充満した」ということではなく、それまで自分を支えていたものが、根底から揺さぶられるという「ファンデーション・ショック(foundation shock)」の象徴的表現とも言えるのです。
  • 以上のような象徴的表現によってしか表せない神の啓示の不思議さは、それを経験した者の生涯にきわめて大きな影響を与えるという事実です。つまり、神の啓示そのことよりも、それによってイザヤが何を経験したのかという内実の方がより重要だということです。この霊的経験を、イザヤは「主を見た」、あるいは「万軍の主である王をこの目で見た」という表現をしているのだと考えられます。

2. イザヤの汚れと滅びの自覚

  • イザヤが経験した神の啓示は、イザヤをして「ああ、私は。もうだめだ。」と言わせました(脚注)。直訳すると「わざわいだ。私は滅ぼされる」です。「終わる、滅びる」を意味する「ダーマー」(דָּמָה)の受動態が使われています。その理由としては「私はくちびるの汚れた者で、くちびるの民の間に住んでいる」ことを示されたからです。もうひとつの理由はイザヤが「万軍の主である王を、この目で見た」からです。これは別々の理由のように考えられますが、原文は理由を示す接続詞である「キー」(כִּי)を用いて、それが同義的パラレリズムとして表現しているように思われます。つまり、自分(イスラエルの民も含めて)のくちびるが汚れていることを悟ったことと、主を見たことは、同義だということです。つまり、別々の事柄ではなく、ひとつの経験を別々のことばで表現しているということです。

(1) くちびるが汚れているとは

  • それにしても、なにゆえに「くちびる」なのでしょうか。「くちびるが汚れた」とはどのような感覚なのでしょうか。「くちびる」を表わすヘブル語の「セファーティーム」(שְׂפָתִים)は、「口」「舌」「ことば」をも意味します。「くちびる」という身体の器官ではなく、そこから出て来ることばをも意味するのです。つまり、「セファーティーム」(שְׂפָתִים)は、その人の心までも含む語彙だということです。従って「くちびるが汚れている」とは、「心も汚れている」ことを意味するのです。
  • そのことをイェシュアの使徒ヤコブが鋭く教えています。

    【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙3章6~10節
    6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
    7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
    8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
    9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
    10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

(2) イザヤが自らの汚れに気づいたひとつのヘブル的推測

  • イザヤが見、そしてイザヤが聞いた「セラフィム」の存在とその賛美は、イザヤをして自分のくちびるの汚れに気づかせたと推測されます。「セラフィム」という存在、どうしてイザヤはこの天使が「セラフィム」だと知ったのでしょうか。この語の語源は「燃える」という意味の「サーラフ」(שָׂרַף)です。それが名詞になると「へび、まむし」、および、天使の「セラフィム」を意味するのです。また興味深いことに、ウジヤ王が神殿で「香をたいたこと」によって、神のさばきを招いてツァラアトになり、その汚れのゆえに王の座から身を退くことを余儀なくされましたが、彼が「香をたいたこと」が「サーラフ」(שָׂרַף)の女性名詞「セレーファー」(שְׂרֵפָה)なのです。
  • ヘブル語を知らなければ、そのような連想をすることはできませんが、思うにイザヤが「セラフィム」の存在と彼らが神を賛美しているその神の「聖」にふれたことで、自分の「汚れ」に気づかされたことは十分に考えられるのです。

(3) 民数記の「燃える蛇」の出来事

  • ちなみに、民数記に「燃える蛇」が登場します。ヘブル語では「へび」を意味する「ナーハ―シュ」(נָחָשׁ)と、「セラフィム」を意味する「セラーフィーム」(שֶׂרָפִים)が、それぞれ冠詞を伴った複数形で使われています。口語訳では「火のへび」、新共同訳では「炎のへび」、あるいは「激しいへび」とも訳されます。
  • 神の民がエジプトを出た後、荒野を旅を続けますが、その旅に神の民が我慢できなくなって、主とモーセに逆らってこう言いました。

【新改訳改訂第3版】民数記21章5~9節
5 民は神とモーセに逆らって言った。
「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

  • 有名な話です。イザヤがこの「燃える蛇」の話を知らないはずはありません。くちびるで犯した罪は死を招きました。民は口で神とモーセに逆らったからです。神が恵みとして与えて下さっている「マナ」に対して、「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」と言ったのです。これは神に対するのろいのことばです。この救済策については、神からの方法しかありませんでした。
  • 「くちびるの汚れ」は、いわば、「あなたが神や人に対して語った舌を見せよ。そして、その舌で語ったすべてのことば、会話、それらを今ここで、すべて清算せよ。」と神に責められたならば、私たちはなすすべがあるでしょうか。イザヤのように「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびる汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」としか言いようがないに違いありません。

3. イザヤの汚れの救済と新たな宣教の使命

(1) イザヤの罪の赦しの経験

  • 民数記の荒野の旅での「燃える蛇」による神のさばきのその救済処置は、「燃える蛇」を青銅で作り、それを旗竿の上につけ、すべて咬まれた者たちがそれを仰ぎ見るならば生きるということでした。イザヤの場合もその汚れの救済策は神の方から差し出されました。それがセラフィムが祭壇から火ばさみで取り出した燃えさかる炭でした。「燃えさかる炭」とは祭壇にささげられたいけにえが焼かれてできる「炭火」(「リツパー」רִצְפָּה)のことです。それは後に身代わりとなる神の子羊であるキリストを啓示しています。その「炭火」がイザヤの唇に触れた時、イザヤの咎(「アーヴォーン」עָוֹן)は一瞬にして取り去られ、イザヤの罪(「ハッター」חַטָּא)も完全に覆われたのです。
  • これは、ひとりのツァラアトがイェシュアの手に触れられたことで、一瞬にしてきよめられた奇蹟とも連動します(マタイ8:2~3)。「燃えさかる炭」がイザヤのくちびる(口)に触れることによって、「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」と宣告されたのでした。これは神からの一方的なきよめの恵みでした。

(2) イザヤの(再)献身、(再)召命

  • 不義のきよめと罪の赦しの恵みを経験したイザヤは、天上からの声を聞きます。その声の内容は「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」というものでした。イザヤはすかさず「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答えました。しかしそれは、この派遣がいかに大変なものであるか、それを十分に知った上の応答ではありませんでした。この主の派遣の目的は、私たちの思いとは全く異なる性格を持っていました。それは、イザヤの語るべきメッセージが「民の心をかたくなにする」内容のものだったのです。いわば、何ら生産性のない働きをするのです。多くの人々を神の救いに導くための働きではなく、むしろ神の救いから遠ざける働きでした。神のメッセージを語れば語るほど、人々の心は頑なになり、神から離れて行くという務めなのです。だれがこの働きに遣わそうか。だれがこの務めを引き受けて語ってくれるだろうか」という意味での主の声であったのです。そんなこととはつゆ知らず、イザヤは「私はここにおります」と言ってしまったのでした。神の真意を知らされたイザヤは「いつまでですか」と問いかけます。それに対する神の答えは意外なものでした。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書6章11~13節
11・・「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」


●この預言は「終わりの日」に神の民にふりかかる未曾有の苦難(大患難)を意味しています。多くの神の民(ユダヤ人)が滅びます。大きな木が切り倒されて焼き払われますが、その中に切り株が残り、そこから「聖なるすえ」である残りの者があるのです。その時まで、神の民の心は頑ななままなのです。

  • イザヤの召命は強制的なものではあませんでした。あくまでも、任意なのです。イザヤは自ら主の願いに答えて「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答えたのです。イザヤ自身が神と交わした約束に自ら反故にすることは、民たちがこれまで神に対してしてきたことです。イザヤの召命が再召命であるとすれば、それはあらためて神本意のメッセージを語るという自覚的な召しが新たに問われたと言えます。
  • これから終りの時代に向かっていく時に、人々のニーズのために、人々から受け入れられるメッセージを語ることではなく、神のご計画とみこころのみを語って行く者が必要とされる時代です。それは人々に決して心地よいメッセージではなく、むしろ反対に聞く人々の心を頑なにするメッセージであるかもしれません。それは果てしなく孤独への道を余儀なくされるかもしれません。「この務めにふさわしい者はだれか」と主は語られます。果たしてそこに自分の生涯をささげられるかどうか。今の私たちも問われているのです。

脚注

【新改訳2017】では「私は滅んでしまう」と訳されています。この箇所をいろいろな訳を見ると、以下のように訳されています。
①口語訳「わたしは滅びるばかりだ」
②新共同訳「わたしは滅ぼされる」
③七十人訳「まったく惨めだ」
④新改訳第三版「私は、もうだめだ」
⑤原文は「私は滅びてしまった」という完了形。


2014.7.29


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