****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

パリサイ人と律法学者のパン種に気をつけよ

40. パリサイ人と律法学者のパン種に気をつけよ

【聖書箇所】 11章37節~12章12節

はじめに

  • 聖書箇所としては少し長いのですが、ひとつのまとまった流れを形成しています。前半(11章37節~41節)と後半(12章1節~12節)とでは、いずれもイエスが語った言葉が記されていますが、語られている対象と内容が異なります。前半の対象はパリサイ人、律法の専門家(律法学者)に対してしであり、後半の対象はイエスの弟子たちに対してのものです。内容も、前半はパリサイ人と律法学者たちに対する悲しみを秘めた辛辣な非難であり、後半は、そんな彼らに対して決して恐れてはならないことを諭しています。

1. 「忌まわしいものだ」(イエスの「ウーアイ」ούαι)

  • イエスが「ひとりのパリサイ人」が彼のところでしきりに食事をするようにお願いをするので、イエスは家に入って食卓につかれた(横になった)。ところが、イエスが食事の前の「きよめの洗い」をしなかったことに驚いた。それは「手を水で浸す」、正確には「手が水で浸される」こと(「バプティゾウ」βαπτίζωのアオリスト受3単)でした。このことを契機に、パリサイ人に対するイエスの強烈な叱責が始まります。果たして、イエスがその家で食事をしたのかどうかは定かではありません。

画像の説明

  • 織田昭氏の「ギリシア語小辞典」によれば、「ウーアイ」ούαιは、悲嘆、悲痛をあらわす間投詞で、何と悲しいことか、あなたがたのことを考えると私の胸は張り裂ける!という意味で、「禍あれ」ではないとあります。いろいろなイエスのため息を言葉に表わすために苦労しているのがわかります。
  • そもそも事の発端は、イエスが食事の前の「きよめの洗い」をしなかったことにイエスを食事に招いたパリサイ人が驚いたことに対して、イエスが心の伴わない儀式だけを重視するパリサイ人の信仰姿勢を厳しく非難されことによります。

1)そもそも、食前の「きよめの洗い」自体は、律法で定められていることではなく、後に加えられた言い伝えに過ぎなかったこと。

2)律法の要求以上にすべてのものの十分の一を納めていると自ら誇っていること。

3)社会的地位、世間体を重んじ、人との接触によって自分が汚れると思い上がっていること。

4)モーセの律法に規制を追加して人々を拘束しながら、自分たちは抜け道を考えている独善的な宗教家であること。

5)預言者たちの墓を建て、表面的には彼らを敬っているかのように装いながら、実際には預言者たちの預言の成就である救い主、イエスを拒むことにより、結局は先祖と同じように彼らもまた、預言者たちの教えを拒んでいるということ。

6)間違った律法解釈と神学体系を築き上げることにより、人々を神の御旨から目をくらませ、迷わせ、神の国に入ろうとする人々を妨害していること。

  • イエスの厳しい糾弾に、パリサイ人、律法学者たちはこぞってイエスを陥れる陰謀をはかり始めたのです。53節に「激しい敵対がはじまった」とありますが、これは「恐ろしいほど恨みはじめた」ということです。イエスの彼らに対する歯に衣を着せぬ糾弾はどこまでも、神から遣わされたイエスの語ることや働きを見聞きしていながらも、それを頑なに拒んで悔い改めようとしない彼らの態度に対する悲しみと怒りの混ざった思いから出たものでした。

2. 聖霊をけがす者は赦されません

  • 12章1節から12節まではイエスの弟子たちに語られたものです。その内容をまとめると以下のようになります。

(1) パリサイ人のパン種(偽善)に気をつけるべきこと。

(2) おおいかぶされているもの、隠されているものは、必ず、現わにされること。

(3) 現されるのはパリサイ人の偽善のみならず、弟子たちの語ることばもやがて言い広められるようになること。

(4) その時に起こる迫害を恐れてはならないこと。真に恐れるべき方を恐れなければならないこと。

(5) たとえ、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されないということ。

  • 特に、最後の(5)については説明が必要です。ここで言われている「聖霊をけがす者」とは誰のことを言っているのかを文脈にそって理解する必要があります。文脈を無視して、この部分だけを安易に用いて、「あなたは聖霊をけがす者で、けっして赦されない」と独善的に断罪してはいけないのです。特に、キリスト教会の指導者は気をつけなればなりません。
  • ここでイエスが語っている「聖霊をけがす者」とは、イエスのわざを見ながらもそれが神のわざだと受け入れることなく、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」(ルカ11:15)というパリサイ人や律法学者たち、および、11章42節以降でイエスがなんども「忌まわしいものだ」と嘆かざるを得なかった者たちのことを指しているのです。
  • つまり「聖霊をけがす罪」とは、イエスのしるしと奇蹟を目撃し、それが神のわざであることを知りつつも、あえて悪霊のわざであると主張する者に対して、かつ罪の意識さえも感じていない律法学者やパリサイ人たちに対して適用されるべきものです。
  • 12章1~12節では、イエスは弟子たちにそうした彼らを決して恐れてはならないということを教えようとしたのです。しかも、恐れのゆえに信仰を捨ててはならないことも教えられたのです。
  • ところで、ヘブル的修辞法のひとつとして、一方を強調するために、他方を完全に否定するというのがあります。たとえば「主はエサウを憎み、ヤコブを愛した」がそうです。主がヤコブを愛したことを強調するために、エサウが完全に否定されているのです。他にも、ルカ10章20節「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」がそうです。後者の事柄を強調されるために前者が完全否定されているのです。「悪霊が服従する」ことを喜んでもよいのです、しかし、あくまでも後者を強調するために前者が否定されているのです。マリアが「良い方を選んだ」ということを強調するために、マルタが否定されているのも同じ表現です。強調することを正しく理解し、それをあくまでも正しく受けとめる責任があるのです。ここでどちらも大切だとして中庸精神を発揮することは、強調しようとしている事柄を骨抜にしてしまう危険があるのです。
  • さて、ルカ12章10節の場合も修辞法としては同じですが、ここの場合は、強調されるべき後者が否定的な表現であるために、前者が完全肯定されているのです。修辞法としては同じですが、強調する後者が否定されているので、前者が完全肯定されているのです。決して人の子をそしることが推奨されているわけではありません。

3. 「聖霊」(「神の指」)についての記述

  • 聖書の文脈を決しておろそかにしないことが正しい聖書解釈につながります。ルカの福音書10章から12章の文脈の中に、音楽で言うならば「通奏低音」のように置かれている「ひとつの語彙」があります。それは「聖霊」です。

(1) 10章21節
「イエスは聖霊によって喜びにあふれた」
(2) 11章13節
「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。」
(3) 11章20節
「わたしが、神の指(聖霊)によって悪霊どもを追い出しているなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」
(4) 12章10節
聖霊をけがす者は赦されません」
(5) 12章12節
「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」

  • ルカは、かなり意識的に「聖霊」についてふれているのです。

2012.1.26


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