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朽ちることのない宝を天に積み上げるとは

41. 朽ちることのない宝を天に積み上げるとは

【聖書箇所】 12章13節~34節

はじめに

  • ルカの12章13~34節の聖書箇所の範囲の中で、33節にある「持ち物を売って、施しをしなさい」という1節にのみ目が止まってしまう人が意外と多いのに驚きます。その場合、多くはこのことばが語られた文脈を無視して、33節のみことばに焦点を当てることで、慈善をすること、すなわちそれが「天に宝を積むことだ」と考えてしまっているのです。慈善すること、それ自体はすばらしいことかもしれませんが、ここで言わんとしている真意を正しく理解するためには、このことばだけを文脈から取り出すのではなく文脈の中で考える必要があります。でなければ、キリストの教えは、単に行いの宗教、律法的な宗教となってしまいます。
  • 今回の聖書は「いのちという宝を天に積む」ということがテーマで、群衆に対する教えと、弟子たちに対する教えからなっているのです。

1. 「ゾーエー」(ζωη)のいのちと「プシュケー」(φυχη)のいのち

  • 今回の話は、群衆の中の一人が兄弟との「遺産」分与についてかかわってほしいとの願いを契機としてイエスが語られた話が記されています。最初は、人々に向かって語られたもので、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と言って、ひとつのたとえを話されました。
  • 遺産の分与をめぐって、肉親の間に(親子や兄弟、および親戚に)争いが起こってしまうことは古今東西共通の問題です。貪欲な思いが強ければ強いほど問題はより深刻化します。ですから、イエスが「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」と語ったことは理にかなっています。しかし後半の「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」という意味を正しく理解した人々はどれくらいいたでしょうか。ここに登場する「いのち」と訳された原語は、ギリシア語で「ゾーエー」ζωηです。この「いのち」こそイエスの弟子たちの宝となるべきものでした。
  • ギリシア語の「ゾーエー」ζωηは、神のいのち、私たち人間の霊を生かして、生きていく力を与えていく根源的ないのちです。一方の「プシュケー」ψυχήの「いのち」は「魂」とも訳され、肉体的身体的な生命だけでなく、精神的な意味でのいのちを意味します。〔脚注〕
  • 前者は神から与えられる霊的ないのち、後者は人間の精神、肉体を生かすいのちです。後者は財産によって、つまり金銭があることで、そのゆとりがあることで安心や安楽を保障すると思わせる力をもっています。ですから多くの人は、金銭に貪欲になったりします。しかし、神からの「ゾーエー」としてのいのちは、この世の財産によって豊かにすることはできないし、その力もありません。ですからイエスは、「いくら豊かな人でも、その人のいのち(ζωη)は財産にあるのではない」と言われたのです。
  • 自分のために「財産」をたくわえたとしても、「たましい」(ψυχή)が取り去られて死んでしまえば、そのたくわえた財産はその人にとって何の関係もなくなってしまいます。しかし神から与えられた「いのち」ζωηを持っている人は、失われるものはなにひとつありません。なぜなら、その「いのち」は永遠のいのちであり、より豊かになっていくものだからです。このいのちを宝として、その豊かさを積み上げることが主の弟子たちに求められているのです。

2. プシュケーの「いのち」は神の国を求め続ける者に神が保証して下さる

  • イエスが語る22節~25節の中に「いのち」ということばが3回出てきますが、すべて「プシュケー」ψυχήのいのちです。
    「いのちのことで心配するのはやめなさい。」(22節)
    「いのちは食べ物よりもたいせつであり・・」(23節)
    「あなたがたのうちだれが、心配したからといって自分のいのち
    (長さを表わす「ペーキュス」)を少しでも延ばすことができますか。」(25節)
  • 確かに、私たちの「プシュケー」としてのいのちは大切です。ですからそのことに思いが行って「気をもむこと」になります。しかしイエスは自然の中に生きている「烏」や「ゆりの花」を題材にしながら、それらがどのように生きているか、どのように成長しているかを注意深く考えてみなさいと語っています。24節の「考えてみなさい」とは、「じっくりと見極める、注意深く考察する、真剣に注意を集中する」という意味の「カタノエオー」κατανοέωという動詞です。それは、神が烏を養い、神がゆりの花さえこのように装って下さるなら、なおのこと、自分の子に(イエスの弟子たちに)よくしてくださらないわけがないということを強調するためです。
  • 神の国を求め続けるならば、私たちの肉体や精神が必要とするいのち(プシュケー)は、付録として与えられることを明言しておられます。これはイエスの弟子たちに対する特権なのです。ですから、自分のために、まず、自分を根源的に支えてくるところの「いのち」(ゾーエー)をまず求めていくなら、自ずと、他の人にそれを与えていくことができるのです。これは「施し」という行為によって与えられるいのちではなく、与えられているがゆえに、そのあかしとして「施す」ことができるのです。本当に大切なものを知っているがゆえに、自分の物に執着することなく、売り払うことができるのです。ただし、私たちの心と私たちの宝が真のいのちで満たされている必要があるのです。
  • 「朽ちることのない宝を天に積み上げるため」に、私たちはもっと熱心に神の国(神の愛と恵みと正義に基づくご支配)とその義(かかわりとしての義)」を求め続け、自らを聖い生きた供え物として自発的に「ささげる」(原語は「パリステーミ」παριστημι)決意が必要なのです。それが出来てこそ、はじめて、他の弟子たちをも「神の前に立たせる」(原語は同じく「パリステーミ」παριστημι)ことができるのです。

〔脚注〕
フランシスコ会訳では「ゾーエー」を「命」と訳し、「プシュケー」を「生命(せいめい)」と訳しています。新改訳、新共同訳、塚本訳は、いずれも「命」と訳しているため、原語の正しいニュアンスは伝わってきません。

2012.2.2


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