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主の再臨を目を覚まして待つしもべ

42. 主の再臨を目を覚まして待つしもべ

【聖書箇所】  12章35節~48節

はじめに

  • この箇所において、誰が誰に語られているかを確認しておきます。ここでの語り手はイエス。そして聞き手は弟子たちです。54節から聞き手が群集となります。
  • 35~48節までの箇所は大きく二つに分かれています。しかしその二つにある主題は共通しています。共通する主題は「主の再臨」です。そのことに対する弟子たちの心構え、および、権威と多くの知識を与えられている者の心構えと責任について述べられています。

1. 主人の帰りを待ち受けるしもべ

  • たとえの中にある「主人」は婚礼に出かけています。当時の婚礼は一週間ほど続いたようで、いつ主人が帰ってくるかわからない状況でした。イエスは弟子たちに対して、確実に帰ってくる主人の帰りを「待ち受けている人」のようでありなさいと警告しています。これは主イエスが花婿として再臨される日を、花嫁なる教会が待つべき心構えとして教えようとしたものです。
  • 主人の帰りを「待ち受ける」(「プロスデコマイ」προσδέχομαι)という語彙は新約に8回使われています。これに類する待望用語としては、「プロスドカオー」(προσδοκάω)が7回。「アベクデコマイ」(ἀποδέχομαι)が5回。「アナメノー」(ἀναμένω)の1回、などがあります。そしてこの「待望」表現をルカはさまざまな語彙を使って表わしています。

    ①「腰に帯を締めている」(35節)―緊急事態に備えた行為(出12:11にも同じ表現があります)を意味します。
    ②「あかりをともしている」(35節)―夜に帰ってもいいように対処していることを意味します。
    ③「目をさましている」(37節)―いつでも対処できる構えを意味します 脚注
    ④「用心している、あるいは、用意している」(40節)―警戒と備えを意味します。

  • なぜそのようにして待ち受けるべきか。その理由は、主人、すなわち「人の子は、思いがけない時に来る」からです。つまり人の子の来るべき時(再臨の時)は人間にとって予測不可能であるということです。
  • 主人が帰ってきた時に、待ち受けていたしもべたちは幸いだと評価されています。37節では不思議なことに「主人の方が帯を締めて、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」とあります。「そばにいて」と訳されたギリシャ語は「パレルコマイ」παρέρχομαιで、「進み寄る、近寄る、進み寄って来て、そばに来て」とも訳されます。「パレルコマイ」の本来の意味は「通り過ぎる」(マルコ6:48)ですが、単に通過するという意味ではなくて、それは神の顕現を示す言葉なのです。
  • つまり、ここでは主人の再臨による神の国の完成時には、しもべたちは「主の食卓」に招かれて、それにあずかることができるという終末的救いが語られています。天に上げられたイエスが終末の日に神として私たちに顕れる、しかも、給仕として顕れるのです。「そのような食卓に招かれたならどんなに幸せなことか、あなたがたも目を覚まして用意していなさい」というのが、ここでのテキスト全体のメッセージなのです。

2. 権威と多くの知識を与えられたしもべたちに対する警告

  • ルカ12章42節~48節には、すべてのしもべたちに対してではなく、そのしもべたちを任されて管理する指導者たちに対する警告が、主の再臨という視点からさばかれることが語られています。
  • もし託された管理を立派に果たした指導者には、主人が帰って来た時にその報いとしてさらなる責任が与えられること。しかし、与えられた権威をふりまわして悪用し、勝手な真似をしている指導者に対しては、主人が帰ってきたときは厳しく罰せられることが語られています。
  • 「下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったり」というのは、主人の留守をいいことに、権威の乱用と主人の財産で贅沢な生活、放縦な生活をすることを意味しています。そんな指導者に対しては弁解の余地すらないほど、厳しい御沙汰がくだされるのです。ただし、主人の心を知っているその度合いに応じて、その責任の問われ方は異なるようです。「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(48節)という格言はそのことを意味しています。

3. 主の再臨に対する心構え

  • このイエスの語られた「人の子の再臨」の教えは、実は当時のイエスの弟子たちには全く理解できないことでした。なぜなら、人の子の到来は「終わりの日」、つまり、一回限りだと考えられていたからです。しかし主のご計画は違っていました。イエスの初臨と再臨は奥義です。つまり隠された事柄だったのです。イエスの十字架の死と復活後、イエスは弟子たちの見ている前で昇天されました。そのとき、御使いは「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)と言います。
  • 聖霊降臨後、使徒たちはこの意味するところを正しく理解し、イエス・キリストの再臨に対する信仰をもって福音を伝え、またキリストの弟子たちを励ましました。新約聖書の手紙には主の再臨についてふれていない書はないほどに、再臨は重要な教えなのです。むしろキリスト者の信仰と倫理的な生き方はこの主の再臨から位置づけられているのです。
  • 1ペテロ1章7節にはこう語られています。「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」と。また、13節にもこう語られています。「あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを。ひたすら待ち望みなさい。」と。
  • 内村鑑三という人は明治10年(1877)16歳で札幌農学校(今日の北海道大学)に入り、翌年に洗礼を受けました。しかし彼は51歳にして長女の「ルツ子」の死を契機として明確な復活信仰を得ています。そして55歳にしてキリストの再臨に目が開かれました。そして彼は「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその脳髄であろう。再臨なくして十字架は意味をなさない。したがって、我々クリスチャンは再臨の立場に立って聖書を通覧する必要がある。・・信仰維持のために、再臨の希望は必要欠くべからざるものである。」と述べています。
  • 再臨の信仰は救いの完成の信仰であり、キリスト教信仰において極めて重要なものです。ですからサタンは必死になってこの教えを混乱させ、にせ預言者を出現させて脱線させようとします。再臨信仰が崩されれば、すべてが宙に浮いてしまいます。それゆえ再臨に対する正しい認識が是非とも必要なのです。


38節の「真夜中」と訳された語は「第二の時刻」。「夜明け」と訳された語は「第三の時刻」で、ユダヤの慣例では夜を四つの時刻に分けていました。ちなみに、第一の時刻は午後6時から9時まで、第二の時刻は午後9時から12時まで。第三の時刻は午前0時から午前3時まで、第四の時刻は午前3時から午前6時までです。「時刻」と訳された「プラケー」φυλακήは夜警が交代する時刻を意味します。したがって、第一の夜回り、第二の夜回りという言い方もあります。

2012.3.1


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