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主の再臨の目的は地に火を投じること

43. 主の再臨の目的は地に火を投じること

【聖書箇所】12章49節~59節

はじめに

  • 聖書を読む時、文脈(コンテキスト)を大切にして読むことは重要です。12章35~48節の箇所の主題は「主の再臨に対する弟子たちの心構え、および、権威と多くの知識を与えられている者の心構えと責任について」述べられていました。主人が帰ってくるという再臨は当時の弟子たちや群衆には開かれていなかった奥義でした。しかしイエスはやがて起こることを語っていきます。主の再臨を知らずにいるならば、愚かな者のたとえ話にあるように、自分のいのちは財産にあると考えてしまう危険があります。イエスは「人のいのちは財産にあるのではない」(12:15)ことを教え、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒すること」(消極的表現)、むしろ「天に宝を積む」生き方をすべきこと(積極的表現)を教えられました。そこには、主の再び帰ってくるという前提があります。
  • 今日の聖書箇所もその前提が流れています。つまり、主が再び戻って来られるその目的は、「地に火を投げ込む」こと、すなわち、地に神のさばきがもたらされることが主題となって語られています。ここには三つの話が並んでいます。そしてそのポイントは「さばきの警告」、「さばきの訪れの時を見分けようとしないことへの糾弾」、「和解の勧め」です。

1. 主の再臨によるさばきの警告

  • 今日の12:49~59までに語られている箇所を理解しやすくするために、便宜上、49節と50節を除いてみたいと思います。そうすると、マタイ福音書とルカの福音書にある「わたしが来たのは」という共通するフレーズを比較することができます。マタイでは10:34、ルカでは12:51です。

新改訳改訂第3版 
【マタイの福音書】
10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります


【ルカの福音書】
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。

  • まず比較して気がつくことは、いずれの福音書にも「平和のために来た」ということがどちらも否定されています。マタイは「剣」をもたらすため、ルカは「分裂」をもたらすために来たとあります。表現は異なりますが結果としては最も親しい家族が敵対するようになるということは同じです。
  • まずここで注意したいことは、「後者」(この場合では「剣」や「分裂」)を強調するために、前者の「平和」が完全に否定されていることです。これはヘブル的表現です。決して「平和」が否定されているのではありません。事実、イエスは平和をもたらすために来ました。「天には神の栄光が、地には平和」と御使いたちがイエスの誕生の時に賛美しています。イエスは平和の君としてそれを実現するために来られたのですが、マタイとルカのここでの表現は「剣」や「分裂」がもたらされるということが強調されているのです。
  • イエスの再臨前には「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせる」(マタイ13:12)ということが起こります。特に「わたしの名」のために、あなたがた(イエスの弟子たち)は、みなの者に憎まれますとイエスは語っています(マタイ13:13)。ルカも同様に、人々はイエスとのかかわり方によって、家族の中にさえ、互いに敵となり、分裂をもたらすことになるという事実が語られています。これはマタイもルカも語る対象がイエスの弟子であるということも共通しています。

2. さばきの訪れの時を見分けようとしないことへの糾弾

  • 54節からは群衆に対してイエスは語っています。自然の営みによって何が起こるかを見分けることを知っていながら、「どうして今の時代を見分けることができないのか」とイエスは叱責しています。群衆はイエスのなさっている奇蹟や教えを見聞きしているにもかかわらず、これから起こることを見分けようとしなかったからです。
  • 当時の、律法学者たちやパリサイ人たちはイエスを神が遣わされた者だということを認めようとはしませんでした。群衆はそうした指導者たちの言いなりなって、自分で物事を判断しようとしなかったのです。神のさばきが必ず訪れようとしているのに、何の危機感も感じずに入る群衆に対して、「偽善者たち」と糾弾されているのです。「地や空の現象を見分けることを知りながら、神のさばきの訪れを見分けることができない」ことへの糾弾です。自分から進んで、何が正しいかを判断することを訴えています。

3. 手遅れになる前に和解することへの勧め

  • 57節以降はたとえです。ここで語られていることは、告発する者があなたを裁判官のところに連れて行く前に、告発する者と和解するようにという勧めです。そうでないと手遅れになってしまうことをイエスは語っています。途中でも「熱心に告発する者と和解するように努めなさい」とは、さばきが確定していることが前提となっています。
  • おそらくここでの「告発者」はイエス自身と考えることができます。イエスと和解するとは、自分の罪を認めて悔い改め、イエスを信じることです。そうしなければさばきは免れないということをここでのたとえは意味しています。

4. 結論的要点

  • さて、以上のことを見てもわかるように、三つの話はいずれも神のさばきがイエスによってもたらされることが前提となって語られています。とすれば、最初の「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです」という意味が理解しやすくなります。ここでの「火」はコンテキストを考えるなら、当然、神のさばきを表わす「火」だと結論付けることができます。
  • ところで、理解しがたい点は50節の「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんな苦しむことでしょう」ということばの意味です。従来の解釈では、「わたしには受けるバプテスマがある」というのは、イエスの受難(十字架)のことだとしています。だとしても、なぜそのことがここで語られる必然性があるのかという問題です。50節だけを取り出して解釈するならば、そのような理解になります。ギリシャ語の原文を見ても、文法的にはアオリストの受動態が使われています。ですから、確かに「わたしには受けるバプテスマがある」と訳さなければなりません。そうすると49節、50節、そして51節の流れが良く理解出来ないのです。聖書信仰の立場(聖書はそのギリシャ語原典において誤りなき神のことばである)を表明する私としては分からなくてもそのまま受け入れざるを得ません。

  • ところで、12章50節に関してこれまで解釈を翻すような新しい解釈をしている本があります。ダヴィッド・ビヴィン/ロイ・ブリザード著『イエスはヘブライ語を話したか』(河合一充訳、ミルトス社)、1999年、絶版)の「キリストの火」136~155頁)に詳しく書かれています。
  • この本のタイトルは『イエスはヘブライ語を話したか』ですが、原題は「イエスの難解な言葉の理解」(1983年改訂版)です。そのひとつにルカの12章50節があげられているのです。二人の著者は米国出身ですが、二人とも「エルサレム学派」(共観福音書のヘブライ的背景をクリスチャンとユダヤ人の研究者が共同で研究するグループです。メシアニック・ジューではありません)のメンバーです。ちなみに、訳者の河合氏は現在「ヘブライ語対訳シリーズ」を刊行しているミルトス社の社長です。
  • この本の執筆意図は「新約聖書全体はヘブライ的観点からのみ真に理解することができることを示す」ことのようです。つまり、新約も旧約も含め、聖書を理解する上で最も重要な道具はヘブライ語であり、イエスの言葉を理解する鍵がヘブライ語にあると主張しています。
  • この本に記されている内容についての要点をいくつか列挙すると以下のようになります。それぞれについての主張の根拠が詳しく書かれていますが。それについては省略します。

(1) 12章50節はヘブライ語がギリシャ語に翻訳された時の誤訳であるということ。

(2) 本来のオリジナルのヘブライ語は「わたしには受けるべきバプテスマ」ではなく、「わたしには授けるべきバプテスマ」である。とすれば、バプテスマのヨハネがマタイ3章11節で触れているバプテスマの同じものをイエスは言及したことになるとしています。ちなみに、マタイ3:章11節には「私は、あなたがたに悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私の後から来られる方は、・・・あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」とあります。

(3) もしイエスがヘブライ語で語ったとすれば、ヘブライ語特有のパラレリズム(並行法)を49節、50節、51節に見ることができる。(パラレリズムとは同じ意味するところを別のことばで表現する修辞法です)

A. 49節「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」
B. 50節「わたしには授けるべきバプテスマがあります。」
C. 51節「平和を与えるためにではなく、むしろ、分裂です。」

このパラレリズムによって、神のさばきという目的のために主は再臨されることが強調されていることが明白になります。

  • このほかにもいくつかの論拠があげられていますが、詳しくは本を参照のこと。
  • 以上の論拠から、イエスの語られた語録のオリジナルは以下のような意味合いになります。

わたしの任務は地に火をつけることである。それをわたしはやっている。地は燃えている。わたしはすでに裁きの種をまき始めた。いつの日にか最後の審判があるだう。しかし、わたしは裁きの日が来ることを待ち望んではいない。その時は、わたしの再臨の時だが、人にはもうわたしを主として受け入れる機会はない。わたしがどうしてそれを望もうか。わたしは地をバプテスマする、つまり地を裁くよう命じられている。だがしばしの間、裁きが完結するまで、わたしにとっていかに厳しいことか。ある者はわたしの弟子となる決意をし、ある者はわたしのメシアとしての主張を拒否しようとする。それゆえ、いかにわたしは苦しむことか」(149頁)

  • 昨今、ヘブル的視点から聖書を解釈することが叫ばれるようになってきました。つまり、聖書のことば(イエスのことば)をヘブル的文化や思惟の中で理解するという考え方です。そうすることで、今までよく理解できなかったことがよく理解できるようになって来ているのです。1948年のイスラエルの建国以来、メシアニック・ジューの台頭、およびメシアニック・ジューのラビたちや、今回取り上げた「エルサレム学派」による聖書の新たな視点による解釈も、神の救いのご計画の最終段階に入ってきているように感じられます。神の最終段階とはユダヤ人の救いと霊的開眼です。彼らが救われることなくして、クリスチャンの救いも完成しないからです。

イザヤ書  新改訳改訂第3版 
2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ


2012.3.8


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