****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ブライダル・パラダイム (4)

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5. ブライダル・パラダイム (4) ー雅歌から学ぶ花嫁①

【聖書箇所】雅歌1章、Ⅱコリント2章14~17節 

ベレーシート

  • 前回は、「キリストと教会」のかかわりを表わす多くの比喩の中で、「花婿と花嫁」はきわめて夢のある終末的・未来志向をもった比喩だということをお話ししました。この「ブライダル・パラダイム」を明確にすることによって、今日のキリスト教会にいのちの回復をもたらすと信じますが、その「ブライダル・パラダイム」をどのようにして豊かに身につけて行ったらよいのか。その導きの最高のテキストが旧約聖書の「雅歌」にあることに導かれています。この「雅歌」は読んですんなりと分かるという書では決してありません。とても難解な書です。一見、「男と女の愛」の書のようにみえますが、そこには神のご計画に隠された「秘密」があります。今日のキリスト教会が「ブライダル・パラダイム」を構築する上で、雅歌の学びは不可欠であり、将来に向かっての大きな示唆を与えてくれると信じます。それで今回は、この雅歌の第1章の中から「ブライダル・パラダイム」について学んでみたいと思います。雅歌の1章を開いておいてください。
  • 雅歌の1章1節には「ソロモンの雅歌」とあります。まずは「雅歌」という言葉ですが、それは「歌の中の歌」という意味で、ヘブル語では「歌」を意味する単数形の「シール」(שִיר)と、冠詞付の複数形「ハッシーリーム」(הַשִּׁירִים)を並べることで、「歌の中の歌」「多くの歌の中の最高傑作としての歌」を意味します。単数と複数形を並記する方法はヘブル的な強調表現です。
  • 次に「ソロモンの」という意味ですが、「ソロモンの」とあれば、普通はソロモンが書いたと思われます。しかし必ずしも彼が書いたと理解すべき必然性はありません。原文では「アシェル・リシェローモー」(אֲשֶׁר לִשְׁלֹמֹה)とあり、これは「ソロモン的な」という意味で、ソロモンという人物以上に、その名前がもっている語幹、つまり、שׁלםから派生する語彙群のニュアンスが重要なのではないかと考えます。

(1) 動詞「シャーレーム」(שָׁלֵם)、無傷である、完成する、報いる、償う、誓いを果たす。
(2) 形容詞「シャーレーム」(שָׁלֵם)、自然のままの、完全な、平和な、豊かな、全くひとつの。
(3) 名詞「シェレム」(שֶׁלֶם) 、和解のいけにえ
(4) 固有名詞「シャーレーム」(שָׁלֵם)、エルサレムの別称。
(5) 固有名詞「シェローモー」(שְׁלֹמֹה)、ソロモン。
(6) 名詞「シャーローム」(שָׁלוֹם)、神と人とのかかわりの祝福を総括する語彙。平和、繁栄、十全、無事、完全。

  • ソロモンが書いたと言っても良いのですが、そのソロモンを越えたところのものが含まれていることを表わそうとしたのが、「ソロモンの」という意味であろうと考えます。そのように考えると、固有名詞の「ソロモン」は語幹から派生する一つでしかありません。神と人とのかかわりから見る語幹のイメージ、あるいは神のご計画から見る語幹のイメージは、「傷のないもの」であり、しかも本来あった「ありのまま」のかかわりであり、全く一つとされた祝福のかかわりであり、それがエルサレムにおいて、王なる方によって完成・成就されるものと言えます。まさに雅歌は、そのような愛の世界を歌った預言的な歌と言えるのではないかと思います。
  • もうひとつ、この「雅歌」を理解する上で知っておいてほしいことは、この書は「顔と顔を合わせる」(face to face)世界だということです。ヘブル語では「パーニーム・エル・パーニーム」(פָּנִים אֶל פָּנִים)です。これは愛の究極的表現です。
  • 創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した。」とありますが、聖書における「天」と「地」は別々のものではなくて、向かい合っている関係にあります。地にあるすべてのものは、天にあるものの写し(copy)なのです。したがって「向かい合っている」という愛のかかわりの本源も天にあります。それは、御父と御子にある関係です。
  • 新約聖書のヨハネの福音書の冒頭は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」とあります。「〜と共にあった」の「共に」に使われているギリシア語は「プロス」(πρός)で、それは「向かい合っているかかわりとしての共に」を意味します。マイクが2本並列しているかたちでの「共に」ではありません。天では御父と御子が向かい合っているのであり、その写しの地的現実が男と女(夫と妻)のかかわりです。結婚の奥義は天にある「プロス」の神秘とつながっているのです。
  • 救いの究極は、黙示録22章4節にある「神の御顔を仰ぎ見る」ことです。つまり、このかかわりの神秘を「雅歌」が啓示しているように思います。「雅歌」の世界は、単なる男女を超越した、天と地、神と人、夫妻、花婿と花嫁が「向かい合うこと」によって一つ(「エハッド」אֶחַד)になる喜びの世界を描いています。いわば、「雅歌」の中には、神のご計画における「奥義の中の奥義」が隠されているように思われます。
  • ところで、雅歌1章には二つの方向をもった呼びかけがあります。一つは花婿が花嫁に向けて語る呼びかけと、もう一つは花嫁が花婿に向けて語る呼びかけです。その呼びかけが異なることで、誰が語っているかが明瞭になります。

(1) 「わが愛する者(よ)」

  • 9〜11節は花嫁に対する初めての花婿の言葉ですが、花婿が花嫁を呼ぶときに、決まって「わが愛する者(よ)」と呼びかけます。原語は「ラヤーティー」(רַעְיָתִי)で、雅歌では9回(1:9, 15/2:2, 10, 13/4:1, 7/5:2/6:4)使われています。

(2ーA) 「私の愛する方」

  • 花嫁が花婿に向かって呼びかけるときは、「私の愛する方」です。原語は「ドーディー」(דּוֹדִי)で20回(1:13, 14. 16/2:3, 9, 10, 16, 17/4:16/5:4, 5, 8, 10, 16/6:2, 3/7:10, 11, 13/8:14)使われています。

(2)ーB 「私の愛している人」

  • もう一つ、花嫁が花婿に向かって呼びかけるもう一つの呼びかけがあります。その呼びかけは1章7節に初めて登場しますが、それは「私の愛している人」です。原語は「シェアーハヴァー・ナフシー」(שֶׁאָהֲבָה נַפְשִׁי)で5回(1:7/3:1, 2, 3, 4)使われています。直訳すると「私の魂が愛しているところの人」となります。新共同訳は「わたしの恋い慕う人」と訳しています。「魂」を意味する「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)は、本来「喉」を意味する語で、そこからあらゆる欲望の座として用いられ、渇きや所有を伴う熱愛を意味します。したがって「私の魂の熱愛する人」とも訳せます。以下は、この呼びかけが使われている箇所の引用です。

【新改訳改訂第3版】
(1) 1章7節
私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の
群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。
(2) 3章1節
私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
(3) 3章2節
「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見あたりません
でした。
(4) 3章3節
町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」
(5) 3章4節
彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。

  • よく観察していただくと分かるように、ここには、花婿を探し続けて、最後には見つけるという花嫁の姿があります。花婿をどこまでも探そうとするのは花嫁の大切な霊性です。「探し求めて」、そして「見つける」というのは、雅歌における重要なテーマだということが分かります。使徒パウロもこの花嫁の霊性を持った人です。ですから彼は多くの奥義を啓示されたのです。そのパウロが次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント書13章12節
今、私たちは鏡にぼんやり写る物を見ていますが、その時には顔と顔とを合わせてみることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

  • 以上のように、雅歌には花婿の声以上に花嫁の声が多く語られています。9対25で、圧倒的に花嫁が花婿を求め、捜し、見つけようとしているのです。まさに雅歌は花嫁の霊性を彷彿とさせてくれる書なのです。そこで、1章の最初の部分から花嫁が語っていることばに注目したいと思います。2~4節は序文のような部分ですが、すでにそこにおいて、花婿を慕い求める花嫁の霊性は明確に記されています。

2. 「あの方が私に口づけしてくださったら良いのに」

【新改訳改訂第3版】雅歌1章2節
あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。
【新共同訳】
どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづけしてくださるように。
【フランシスコ会訳】
あの方が、わたしに熱い口づけをしてくださいますように。

  • 「口づけ」と訳された「ネシーカー」(נְשִׁיקָה)は「花婿のことば」を意味します。しかもそれが複数形で記されているのは、花嫁がたえず花婿のことばを喝望しているからです。ですから、複数形の「ネシーコート」(נְּשִׁיקוֹת)は望み(願い)の熱烈さを表しているのです。フランシスコ会訳は「熱い口づけ」と訳し、NEB訳では「口づけでわたしを窒息させるほどに」と訳しています。このように「口づけ」が複数形になっているのは、熱烈な愛を表現するためのヘブル的強調表現なのです。
  • ところで、ここでの「口づけ」とは神のみおしえ(トーラー)、あるいは花婿をとおして語られる神のことばが啓示されることの比喩的表現です。ここが「自然的解釈」と異なる点です。そもそも「口づけ」するということは、花婿と花嫁が顔と顔を合わせる行為です。花嫁がその熱い口づけを求めているのは、花婿の心と思いを知ろうとする熱意のためです。花嫁の唯一の希求は花婿を知ることなのです。今、花嫁はぼんやりとしか見えていません。一部分しか知っていないのです(Ⅰコリント13:12)。しかし、やがて花婿が来られて顔と顔を合わせる時には、すべてをはっきりと完全に見る(知る)ことができるのです。花婿に対する愛は神のことばの開示であり、それを切望することこそ花嫁の霊性です。その視点から、2節前半を再度読んでみると、願望と確信の狭間で、神のみことばの開示を待ち望んでいる花嫁の姿が浮かび上がってきます。

3. ぶどう酒に勝る花婿の愛

  • 2節は「あの方が私に(熱い)口づけしてくださったらよいのに。」といわば花嫁の独り言のように語っているのに対して、2節の後半の人称が「あの方」(原文は「彼」)から「あなた(の〇〇)」とあるように、3人称から2人称に急に変わっています。この変化は、「わたし」と「あなた」という関係の意識的転換を意味しているのかも知れません。
  • 花婿の愛は、この世の喜びや楽しみを意味する「ぶどう酒」よりもはるかに勝るものだと花嫁は告白しています。しかし同時に、聖書における「ぶどう酒」は人の心を喜ばす神のトーラー(みおしえ)を表わす比喩でもあるのです。神のトーラー(神のことば)がなぜ「ぶどう酒」にたとえられるのかと言えば、それを受ける人の心を喜びで酔わせ、生命力を与えて、まなざしも行動も新しい輝きを帯びさせるからです。ぶどう酒は「いのちの象徴」なのです。
  • 神のトーラーは命令や禁止事項を並べ立てたものではなく、本来は人に対する神の啓示全体を意味するものであり、そこには神の愛があふれているのです。人となって来られたイェシュアは、神のトーラーをそのように解釈しました(マルコ12:28~33)。神のトーラーの目的をイェシュアはどのように解釈されたのでしょうか。その一つは「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛するようになる」こと、もう一つは「隣人を自分自身のように愛するようになる」ことです。これが神のトーラーの究極的目的であり、最終的には神ご自身の主権によって実現するものです。
  • つまり、メシアの再臨によって御国がこの地上に実現される時に、メシアは諸国の民をこの神のトーラーによって治められるのです。そこでは、神のトーラーが人の心の内に刻まれ、また人も朽ちない身体に変えられることで、そのことが容易に実践できるようになるのです。これは「新しい契約」に基づくものです。それゆえ、御国においては「喜び」が基調となるのです。「ぶどう酒」にたとえられる神のトーラーの源泉は神の愛です。その意味において、「ぶどう酒」にまさる「あなたの愛」という表現は理にかなっているのです。
  • 今日、「ぶどう酒」である神のトーラー(みことば)が私たちの口に甘くないのは、私たちの中に神を求めようとしない罪があるからです。しかしみことばに対する渇きは、神の不思議な導きの中で引き起こされるのだと思います。今日のキリスト教会は「みことばの飢饉」を招いています。その飢饉とは、みことばを聞いても満たされないという霊的現実です。その飢饉は神のご計画の全体、神のヴィジョンとその完成、イェシュアが語った「御国の福音」が見えないことに現わされているように思います。

4. あなたの名は注がれる香油のようにかぐわしい

【新改訳改訂3】 雅歌 1章3節前半
あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名はそそがれる香油のよう。
【新共同訳】
あなたの香油、流れるその香油のように/あなたの名はかぐわしい。

  • 雅歌の特徴の一つとして、五感によって味わう語彙が多いということです。

    (1) 触覚・・「口づけ」
    (2) 嗅覚・・「香油のかおり」(さまざまな香料)
    (3) 味覚・・「甘いぶどう酒」
    (4) 視覚・・「あなたの目は鳩のよう」
    (5) 聴覚・・「愛する方の声」

  • 五感のすべてを通して味わう崇高な愛のかかわり、これが雅歌の世界です。雅歌における花婿と花嫁のかかわりは、言葉だけでなく、双方の香ばしい香りによってもその存在を確かめ合っているのです。「香油」(「シェメン」שֶׁמן)は愛を表す比喩的語彙です。「口づけ」も複数形でしたが、ここでも「香油」も複数形が用いられています。つまり、花婿はきわめてかぐわしい香油を注がれた存在なのです。「香り」によってある特定の存在を指し示しているのです。それゆえ雅歌にはさまざまな香料が登場します。ヘブルの世界では、名がその人を表わすように、その人の香りがその人を表わすようです。花嫁の香りは「ナルド(נֵרְדְּ)」の香りのようです。雅歌1章12節では「王(花婿)がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」とあります。数ある香料の中で花嫁の香りはナルドの香りです。花婿の花嫁をたたえることばがすごいのです。「あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」(4:10)と。これは預言的なことばです。
  • ナルドの純粋な高価な香油をイェシュアの頭に惜しみなく注いだ一人の女性がおりました。その名はイェシュアの足もとで語られることばにいつも耳を傾けていたマリヤです(マルコ14:3/ヨハネ12:3)。イェシュアが十字架の道を歩む壮絶な苦しみによって死に至ることを悟ったただひとりの女性、それがマリヤでした。そのマリヤがイェシュアの頭に(足に)注いだナルドの香りは、苦しみの道を歩むイェシュアの身体から決して消えることはなかったはずです。そのナルドの香りは、イェシュアに対するマリヤの最上の愛をあかしする香りだったのです。イェシュアもこのマリヤがした行為をいつの時代でも記念するようにと語られました。「マリヤの霊性」はまさに「花嫁の霊性」なのです。

5. 花婿キリストを知る知識の香り

  • 「あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」(雅歌4:10)とは、花嫁に対する花婿の絶賛です。そんな香りが教会にあることを、使徒パウロは以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント書 2章14~17節
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。
17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。

  • 「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」ということを信じなければなりません。しかし、私たちがキリストの香りを放ったからと言って、誰にでも喜ばれるとは限りません。その香りをもろに嫌って拒絶する人もいるでしょうし、全く問題にしない人もいるのです。しかしそうであっても、教会(私たち)はキリストの香りを放つことをやめてはいけないのです。その香りを受け入れる人が起こされるかもしれないのです。
  • ただし、決して人に媚びてはいけないのです。重要なことは2章17節にあります。そこには、二つのことが語られています。

(1) 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはしないこと

(2) 真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語ること

  • なぜなら花嫁なる教会の放つ香りが、常に「いのちから出ていのちに至らせるかおり」となるためです。そのためには、いつも、真心から、真摯に、みことばを通して神のご計画である「御国の福音」を余すところなく語らなければならないのです。耳障りのいい話ではありません。人々が経験したあかしの方が耳障りのいい話として好まれるでしょう。しかし、それだけでは、イェシュアの語った「御国の福音」を知ることはできないのです。

べアハリート

  • 結論を言うならば、花嫁のかおりとは、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語ることなのです。そのためには、キリストの花嫁である教会が花婿なるキリストの口づけをもっともっと熱心に渇望するようにならなければなりません。
  • 「口づけ」を意味するヘブル語の名詞「ネーシェク」(נֵשֱׁק)には、「武器」という意味があります。そしてその動詞(「ナーシャク」נָשַׁק)の分詞は「神の武器を身に着けている者」を意味します。「みことばの飢饉」と言われるこの時代において、花嫁である教会はますます花婿に「ふさわしい助け手」としてみことばの奥義を解き明かすことが求められているのです。「難しい」という人々の拒絶反応を恐れることなく、常に神の御前で語るという姿勢を崩さずに、御国の秘密を告げ知らせなければならないのです。これがキリストの花嫁に課せられた使命なのではないでしょうか。


2015.8.9


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