モーセの召命と使命(1)
出エジプト記の目次
3. モーセの召命と使命(1)
【聖書箇所】出エジプト記 2章23節~3章22節
はじめに
- エジプトからイスラエルの民を救い出すという使命を与えられたモーセの召命が、出エジプト記3章と4章に記されています。モーセが神から召命を受けたのは80歳でした。その40年前には、自分の同胞のためになんとかしたいという思いから、良かれと思ってしたことでエジプトから逃亡することとなってしまったのでした。その後の40年間のミデヤンでの羊飼いとしての生活は、神のご計画にとってどんな意味があったのでしょうか。
- 神はモーセをご自身の計画の中ですでに召していたはずですが、実際にその声をかけたのは時が至ったからでした。エジプトでのイスラエルの苦悩の叫びが頂点に達してから、モーセが神に呼ばれたのです。人生の2/3の年になってから、モーセは神の大プロジェクトのために召し出されたのです。例えば、100歳まで生きるとして、その2/3は66歳、90歳まで生きるとして、その2/3は60歳からです。いわば、定年を迎えてこれからゆっくりと自分の人生を楽しもうという時期に、神は声をかけられる方だと言えます。しかもそれは「あなたならできる」というような領域をはるかに越えた、それまでの経験がほとんど必要とされない内容の使命かもしれないのです。そうした神のチャレンジを受けるためには、神がどのような方であるかを知らなければなりません。
- かつてのモーセがエジプトで自分の素性がヘブル人であることを知った時、アブラハムやイサク、そしてヤコブに語られた神の約束を伝え聞いていたのかもしれません。しかし、モーセがこの神の大プロジェクトに自分が召し出されるとは思っても考えてもみなかっただろうと思います。自分の力に頼って同胞を助け出そうとした試みが完全に失敗に終わったかつての経験は、彼の傷として心に刻み込まれていたと思われます。しかしその痛みは、神の計画の中では実は尊い経験だったのです。それは彼が自分の力に頼らず、神に信頼することなしにはなし得ないプロジェクトだからです。神の働き人にとって過去の失敗や挫折の経験は決してマイナスのことではなく、むしろ尊い経験であるのです。
1. モーセに対する神の召し(呼びかけ)
- 燃えているのに焼け尽きない柴の中から語られた神のことば、それはモーセにとって忘れがたい印象を与えたことと思います。モーセに対する神の召命は10節にあります。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
しかも連れ出す目的は、イスラエルの民を「広い良い地、乳と蜜の流れる地」に上らせるためでした。
- モーセは神の召命の声を聞いたときに、13節で「今、私はイスラエル人のところに行きます」と答えています。そして、神との多くのやり取りをしています。それはすべて神からの召命に答えるための質疑でした。神はモーセの尋ねることにひとつひとつ答えていきますが、モーセが尋ねるたびごとに、神についての新しい情報が引き出されているのです。たとえば、神の名前がそうです。もしモーセが尋ね求めなければ知り得なかったものばかりです。このモーセの尋ね求める姿勢はとても重要だと思います。隠された大切なものは、神に尋ねることによってより明らかにされるようになっているからです。
- 創世記においても多くの神の名前が登場しています。たとえば、
「神」(エローヒーム)、「主」(アドナイ)、「神」(エール)、「いと高き神」(エル・エルヨーン)、「全能の神」(エル・シャダーイ)、「顧みる神」(エール・ロイ)、「備えられる主」(アドナイ・イルエ)などがそうです。ちなみに、その中でも唯一、神がアブラハムに対して直接に啓示された名は、「全能の神」でした。
2. モーセにはじめて啓示された神の新しい名
- しかし、出エジプト記ではじめて明らかにされた神の名は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でした。これはモーセにはじめて啓示された名前です。もうひとつは「エイェ・アシェル・エイェ」です。
いろいろと訳されているのですが、「わたしは、『わたしはある』という者である」、英語では、I am that(who) I amと訳されており、I am that(who) I am の定式の後に来る内容が重要なのです。
- ヨハネの福音書では神の御子イェシュアはご自分のことを「わたしは・・・である」という構文の「・・・」に、「いのちのパン」(6:35)、「世の光」(8:12)、「門」(10:9)、「良い牧者」(10:11)、「よみがえりであり、いのち」(11:25)、「道であり、真理であり、いのち」(14:6)、「まことのぶどうの木」(15:1)と自己宣言しておられますが、このように、ひとつのことばでは言い切れないために、「わたしは、『わたしはある』という者である」としたのだと思われます。この名前は、まことに、神の永遠性、超越性、不変性を表わすのにふさわしいものと言えます。
- モーセが自分を遣わされる神の名前が何であるかを知ることはとても重要であったのですが、「エイェ・アシェル・エイェ」だけではよく分からなかったのではないかと思います。やがて出エジプトを経験する者たちがいろいろな神経験をするなかではじめて知っていく名前だったからです。たとえば、出エジプト記では、「わたしは主、あなたをいやす者である。」(15:26)、「わたしはあなたがたを聖別する主である」(31:13)、「主はあわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者」(34:6)と宣言されています。
3. 出エジプト記3章12節後半と21, 22節における動詞の時制について
- 私がいつも使用している新改訳聖書(第三版)では、3章12節の後半の部分が、以下のように命令形のように訳されています。
「あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
- しかし、他の聖書の訳を見ると次のように訳されています。
【新共同訳】
「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
【岩波訳】
「あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたたちはこの山で神に仕えるだろう」
【フランシスコ会訳】
「おまえが民をエジプトから導き出したとき、おまえたちはこの山で神に仕えるであろう」
【NKJV】
you shall serve God on this mountain.
- 原文では、「仕える」という動詞は複数男性二人称未完了パアル態となっています。
- 同じく3章の21節、22節においても、新改訳聖書では動詞が命令形であるかのように訳されています。他の聖書の訳も挙げてみます。赤のマーカーは「命令形の訳」、水色のマーカーは「そうなるであろう」という「確約の訳」、緑色のマーカーは「許容の訳」となっています。
(1) 新改訳聖書(第三版)
21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。
22 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」(2) 新共同訳
21 そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。
22 女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」(3) 関根訳
21 わたしはエジプト人の恩顧をこの民に与えよう。だから君たちが立ち去る時、空手で立ち去ることはないであろう。
22 女はその隣人や同居者に、銀や金の器、衣服を乞い求め、それらを君たちの息子や息女たちに背負わせるがよい。そのようにして君たちはエジプト人の物を分捕ることができる。(4) 岩波訳
21 わたしがこの民をエジプト人の気に入らせるので、あなたたちは立ち去るとき、手ぶらで立ち去ることはない。
22 女はそれぞれ女性の隣人や同居人から銀と器物や上着を求め、あなたたちがそれらを息子、娘たちに背負わせなさい。あなたたちはエジプト人からはぎ取ることができる。(5) KJV
21 And I will give this people favour in the sight of the Egyptians: and it shall come to pass, that, when ye go, ye shall not go empty:
22 But every woman shall borrow of her neighbour, and of her that sojourneth in her house, jewels of silver, and jewels of gold, and raiment: and ye shall put [them] upon your sons, and upon your daughters; and ye shall spoil the Egyptians.(6) NIV
21 "And I will make the Egyptians favorably disposed toward this people, so that when you leave you will not go empty-handed.
22 Every woman is to ask her neighbor and any woman living in her house for articles of silver and gold and for clothing, whichyou will put on your sons and daughters.
And so you will plunder the Egyptians."(7) NASB
21 "I will grant this people favor in the sight of the Egyptians; and it shall be that when you go, you will not go empty-handed.
22 "But every woman shall ask of her neighbor and the woman who lives in her house, articles of silver and articles of gold, and clothing; and you will put them on your sons and daughters. Thus you will plunder the Egyptians."
- 原文では、どのような時制になっているかを見てみます。
(1) 21節の新改訳では「何も持たずに出て行ってはならない。」とありますが、原文では否定詞の「ロー」לֹאの後に、「行け」という「ハーラフ」הָלַךְの2人称複数未完了形が続き、その後に「空手で」という副詞が続いています。新改訳はここを「空手で行くな」と命令形のように訳していますが、新共同訳、関根訳、岩波訳では未完了形で訳しています。英訳ではほとんどYou shall not go empty(-handed) と未完了形で訳していますが、これは新改訳のように命令否定表現です。
(2) 22節では、原文ではすべての動詞が完了形で記されていますが、訳文では新改訳は一貫して命令形で訳しています。なぜなら、ここの完了形は「倒置ヴァヴ法」で、その前にある「あなたがたは行くな」を意味する「ロー・テールフー」(לֹא תֵלְכוּ)という否定命令を引き継いでいるからです。にもかかわらず、他の日本訳はまちまちです。
2011.12.29
a:22120 t:1 y:5