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レビ人たちを登用した礼拝改革の準備

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15. レビ人たちを登用した礼拝改革の準備

【聖書箇所】Ⅰ歴代誌 15章1~29節

ベレーシート

  • 神の契約の箱をエルサレムに移すとい国家的プロジェクトは、イスラエルにおける新しい礼拝のスタイルの導入をもたらすようになります。最初の失敗を通して、ダビデは神の方法によって箱を運ばなければならないことを、再度、神の箱をエルサレムに運び上げる三か月後までに学びました。
  • 最初の失敗では、ダビデは主を恐れて、神の箱をオベデ・エドムの家に回します。しかし、神はオベデ・エドムとその家族、および彼に属するすべての者を祝福されたのを知り、再び、神の箱をエルサレムに運び上る事を決行します。そのときに、レビ人たちの大集団の登用が、新しい礼拝のスタイルを担っていく者たちとなります。レビ人たちはダビデによってこの新しい礼拝に深くかかわって行くことになることを、15章は記しています。
  • ちなみに、「オベデ・エドム」がどのように祝福されたか、それについては、Ⅰ歴代誌26章4~8節を参照。彼の息子は神が祝福されたことで、8人与えられ、彼に属する者たちは総勢62名と記録されています。彼らはエルサレムの門衛の奉仕にふさわしい力ある勇敢な人とされています。

1. レビ人たちの登用

  • ダビデの時代において、神の礼拝の刷新においてレビ人たちの存在は欠かせません。そもそもレビたちは神に仕えるためにイスラエルの民から取り分けられた存在です。今回の神の箱の移動から安置まで、そしてそこでの新しい務めにおいて、特に、音楽を導入した新しい礼拝のスタイルにおいて、レビ人たちの存在は不可欠となって行きます。
  • 神の箱(「アローン」אֲרוֹן、ちなみに、大祭司の「アロン」の綴りは「アハローン」אַהֲרֹןです。契約の箱と深くかかわることのできたのは大祭司アロンですから、関係があります。)の移動に際して、ダビデは祭司の他に、総勢862名というレビ人たちを集めて、主への喜びの声をあげて歌うように命じました。レビ人たちの役割分担は以下のとおり。

    A.「青銅のシンバルをもって歌う歌うたい」の三人の賛美リーダー
    (1) へマン(ヨエルの子)、ケハテ族(Ⅰ歴代6:33)。
    (2) アサフ(ベクレヤの子)、ゲルション族
    (3) エタン(クシャヤの子)、メラリ族

    B. 「十弦の琴を弾く」レビ人の第二の部類の者たち

    C. 「八弦の立琴」に合わせて聖歌隊を指揮するレビ人の第二の部類の者たち

    D. 神の箱の前でラッパを吹き鳴らす祭司たち

  • 15章28節には、「全イスラエルは、歓声を上げ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った」とあります。

2. 王であると同時に、祭司であるダビデ

  • この章で、ダビデが着ていた服に注目したいと思います。

    【新改訳改訂第3版】Ⅰ歴代 15:27
    ダビデは白亜麻布の衣を身にまとっていた。箱をかつぐすべてのレビ人、歌うたいたち、荷物係長ケナヌヤ、歌うたいたちも、同様であった。ダビデは亜麻布のエポデを着けていた

  • ダビデは祭司やレビ人たちが着る服を着ていたことが分かります。王である者が祭司的務めを果たしているということです。これはやがて登場するダビデ的メシアであるイエス・キリストを予表しています。
  • 王でありながら、同時に祭司でもあるのです。祭司的務めは神を礼拝する務めです。つまり、ダビデは神への礼拝の責任を担う新しい務めをしているのです。新しい務めとは、これまでのモーセの幕屋の礼拝におれる動物のいけにえによる礼拝ではなく、音楽を伴いながら、精神的なささげものによる新しい礼拝をリードする祭司的務めです。
  • 精神的なささげものとは、詩篇の中に出て来るように、「義のいけにえ」「賛美のいけにえ」「感謝のいけにえ」「喜びのいけにえ」「従順のいけにえ」といったものです。ダビデはそうしたいけにえを神にささげるために、礼拝の中に音楽を取り入れた人物でした。もしダビデが音楽家でなかったとしたら思いつかなかったかも知れません。これは神が定められたものではありませんが、神に受け入れられたのです。
  • 「歌」(名詞)も「歌う」(動詞)も、ヘブル語では同じく「シール」(שִׁיר)と言います。この語彙はイスラエルの歴史においてはじめて登場するのは、イスラエルの民が出エジプトしたときです(出15章)。また、戦いにおいて勝利をもたらした時に、人々は喜びの歌を歌いました。しかし、ダビデは神ヘの礼拝に歌を用いるという改革をしました。しかも「歌」ともに、「踊り」も取り入れたのです。

3. ミカルがダビデをさげすんだ(軽蔑した)理由

  • 15章の国家的イベントにおいて、ダビデは神の箱を運ぶときに、「とびはねて喜び踊った」とあります(29節)。このとき、なりふりかまわぬダビデの姿を見て、ミカルは心の中でダビデをさげすみました。なぜダビデの妻のミカルはダビデの行為をさげすみ、軽蔑したのでしょうか。
  • 並行記事であるⅡサムエル6章14節以降では、ミカルはダビデが裸同然の格好で踊ったはしたない行為として目に移ったようです。そしてダビデを軽蔑したことが記されていますが、Ⅰ歴代誌15章では、ダビデは祭司の着る服をまとっており、裸同然になったとは記していません。とすれば、ミカルのダビデに対する軽蔑とはいったいどこから来るものなのでしょうか。ダビデの子どものような、なりふり構わないような純真な行為に対するものなのでしょうか。
  • 日本の教会の歴史において、新しい礼拝スタイルとしての「プレイズ&ワーシップ」が入ってきたとき、その音楽をめぐって多くの(賛美ではなく)賛否が問われました。神学論争にも勝るものでした。伝統的な礼拝のスタイルと、新しい礼拝のスタイルとの衝突です。しかし最近は、それぞれの教会が主体的に選択して落ち着いているように見えます。
  • 異なるスタイルでは礼拝ができないということは、ある意味、確かな事実なのです。ミカルの反応が単に個人的な嫌悪感か記述されているというよりは、新しいものに対する嫌悪感を象徴しているかもしれません。すべて新しいものは良いというわけではありませんが、反対にすべて伝統的なものが良いというわけでもないのです。新しいものが生まれてくる背景には、古いスタイルでは包みきれないものがあるからに他なりまん。イエスも次のように言われました。

    マタイの福音書9章17節

    また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。

  • 「新しいスタイルの礼拝に慣れてしまうと、伝統的なスタイルの礼拝(あるいは賛美)では礼拝ができないということは事実です(頭で理解していたとしても)。反対に、伝統的な礼拝スタイルでないと礼拝ができないということも事実なのです。しかし、どんなスタイルであったとしても、神への真実な礼拝がささげられているかが重要なわけで、その基準に照らすならば、それぞれの礼拝スタイルを見下げることなく、軽蔑することなく、互いに認めて、受け入れ合わなければなりません。スタイルの問題ではなく、人格の問題です。特に、賛美の中に踊りの要素が加わると、その人自身のすべてが(良い面も、醜い面も)露わにされてしまうという特徴がありますから。
  • ミカルのダビデに対する反応を記しているのは、これは神への礼拝のスタイルに対する問題を提起しているように思えるのです。
  • ちなみに、ダビデはダビデの幕屋という新しいスタイルの礼拝をもって礼拝していたので、ギデオンにある伝統的なモーセの幕屋での礼拝には一度も行っていないという事実です。おそらく、ダビデはそのスタイルで礼拝できなかったのかもしれません。

付記―二つの語彙ー

  • この章の中に繰り返される「定めておいた」「定のとおり」「定め」と訳されている二つのヘブル語の語彙に留意して置きたいと思います。契約の箱をシオンに運び入れるというダビデの計画は失敗しましたが、この失敗からダビデは「主の定め」があることを学びました。そして今回の運び入れは、主の定めのとおりに行なったのです。この出来事は、神のご計画には「主の定め」というキーワードが必要ということです。このキーワードなしに主のことばを解釈してそれに従ったとしても、的を射ていないことが可能性があるということです。

【新改訳改訂第3版】Ⅰ歴代誌15章1~3節、12~13節、
1 彼はダビデの町に自分のために家を造り、また、神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った。
2 そのとき、ダビデは言った。「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。【主】は、【主】の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」
3 ダビデは全イスラエルをエルサレムに呼び出して、【主】の箱を定めておいた場所へ運び上らせようとした。

12 彼らに言った。「あなたがたはレビ人の家のかしらです。あなたがた自身も、あなたがたの同族の者たちも、身を聖別し、イスラエルの神、【主】の箱を、私がそのために定めておいた所に運び上りなさい。
13 最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、【主】が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」


●1, 3, 12節の「定めておいた(場所)」と訳されたヘブル語は「クーム」(קוּם)です。一見、王となったダビデ自身が「定めた」ように記されていますが、むしろそれは契約の箱を安置する場所がシオンであることを神が選んだ場所としてすでに啓示しておられました。そのことを、ダビデは「定めておいた場所」と表現したのです。シオン(=エルサレムの雅名)は歴史的にも重要な場所であり、アブラハムを祝福したメルキゼデクはエルムの王であり祭司でした(イェシュアの型)。アブラハムはモリヤの山(エルサレムのシオン)でイサクを全焼のいけにえとしてささげた時、そこに神のご計画のヴィジョンが完成されるという啓示を受けました。そのような流れの中に、ダビデは主の「定め」を見ていたと考えられます。神が「定め」(整え、備え)られた場所として、シオンに契約の箱を運ぶことは、神のみこころにかなったことでした。

●13節の「定め」には「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)という語彙が使われています。この語彙が「義」(「ツェデク」צֶדֶק)とセットで使われる時には、「ミシュパート」は「公平」と訳されます。しかし、「ミシュパート」が単独で用いられる時には「神の統治」を意味する概念だと理解します。主の定めは、神の法であり、神のご計画とみこころ、御旨、目的とも関係します。本来、神が意図されているもの、それを神の民は「尋ねる」(「ダーラシュ」)ことが求められています。ダビデの最初の失敗は「私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったから」だとしています。

●今日、教会の務めとして、聖書のみことばの解釈を神の「定めのとおりに」求めなければなりません。つまりイェシュアが語られた「御国」(あるいは「御国の福音」)というキーワードによって、聖書を再度「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)すること。つまり「ミドゥラーシュ」(מִדְרָשׁ)することが求められているのです。今日、既成概念に捕らわれずに、再度、聖書をミドゥラーシュ(解釈、注解)することが求められているように思われます。教会はそのために次世代を育成しなくてはなりません。

付記ー2017.2.10


2014.1.14


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