主の栄光が主の宮に満ちた
31. 主の栄光が主の宮に満ちた
【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 7章1~22節
ベレーシート
- 神と人とが共に住む神殿(主の宮)が完成したとき、栄光の雲が宮を満たしました。「雲」「火」「光」は神の臨在の象徴です。モーセの幕屋の時にも同様です。
【新改訳改訂第3版】出エジプト記40章34~38節
34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。
- 神殿奉献のための祈りがソロモンによってささげられた後には、天から火が下りました。その火によって全焼のいけにえは焼き尽くされて、その祈りといけにえが神に受け入れられたことが示されています。天から火が下る場合、それは神のさばきという面(Ⅱ列王記1:10, 12, 14、ヨブ1:16)と、神によって受け入れられたことを示す面(Ⅱ歴代誌7:1)があります。後者の場合を、神の栄光が現わされたと聖書は記しています。そもそも、なにゆえに「火」なのでしょうか。
1. 天からの「火」は、神と神の民とかかわりを表わす象徴
- 聖書において神と神の民との関係は夫婦の関係と同義です。イスラエルの民は主なる神の「妻」なのです。ヘブル語の「夫」は「イーシュ」(אִישׁ)で、「妻」は「イッシャー」(אִשָּׁה)です。夫と妻は一体であるべきですが、二つのヘブル語の中に「主」があり、「火」という文字が存在しています(図を参照のこと)。
- 神とイスラエルのかかわりにおいて、「火」は受容と導きを表わす象徴であると同時に、そのかかわりが民によって拒絶される場合には「さばき」となって矯正するしるしでもあるのです。つまり、火、愛の火であり、「熱情とねたみ」を包み込んでいる象徴と言えます。
2.「彼らの地をいやそう」という主の約束
- 7章14節のみことばは、しばしばリバイバル集会のテキストとして用いられています(私もこの主の約束を信じてどれほど日本のリバイバルのために祈り続けてきたことか)。しかしここはそうした解釈から離れて、客観的に味わってみたいと思います。
- 神の民がみずからの罪によって天が閉ざされて雨が降らず、いなごによって地が食い尽くされ、疫病が蔓延するようになった場合、イスラエルの王とその民がどうすべきかが記されています。
【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌 7章14節
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
●ここには神の民がすべきことが太字に表示しています。
(1) 「へりくだる」・・「カーナ」(כָּנַע)の受動態(ニファル態)。(2)「祈る」・・「みずから」は「祈る」という動詞にかかっています。というのは「祈る」(「パーラル」פָּלַל)に強意形ヒットパエル態が使われているからです。ピットパエル態は自ら、自発的・主体的な行為を意味します。
(3) 「慕い求める」・・「バーカシュ」(בָּקַשׁ)は、主ご自身を心から慕い求める動詞です。希求用語として、他に「ダーラシュ」()がありますが、それは理性的な意味合いが強いですが、「バーカシュ」の特徴は心情的希求に強調点があります。
(4) 「立ち返る」・・「シューヴ」(שׁוּב)は、悪の道(生き方)から神に向きを変えることを意味します。そして神によって新しいライフスタイルを目指すことが含まれています。
●(1)(2)(3)(4)の条件を満たすなら、神が神の民の罪を赦し、地をいやそうと約束しておられます。新改訳は「わたしが親しく」と訳していますが、「親しく」を示す語彙は原文にありませんが、ここは、独立人称代名詞の「わたし」(「」)が使われていて、しばしば「わたし自身」と訳されます。しかしそれを「わたしが親しく」と訳しています。「わたし自身」と訳すよりも、「わたしが親しく」と訳すことで、独立人称代名詞が使われている意味を解釈しようとしています。「親しく」という訳語を入れることで、神の喜びが伝わってくる感じがします。妙訳だと思います。
2017.4.11
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