****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

二重生活の板挟みに陥って行くダビデ

24. 二重生活の板挟みに陥って行くダビデ

【聖書箇所】 27章1節~28章2節

はじめに

  • 27章ではダビデがサウルから逃れるためにペリシテのアキシュのところに身を寄せたことと、ペリシテ領にいながらイスラエル人として生きるその狭間に立たされたダビデが描かれています。
  • ダビデの歩みはすべてオール「A」というわけではありません。時には失敗を犯します。しかし、それでもなお「愛される者」ダビデなのです。ダビデの生涯を通して、神の「いつくしみ」と「恵み」とが映し出されているのです。そうした視点からダビデを見ずに、人間的な視点でダビデを見るならばつまずくことになるでしょう。そしてそのダビデを選んで王とした神にもつまずきかねません。ダビデに注がれた神の恵み(ヘセド)はゆるぎないものです。そのことに目を向けるならば、ダビデは私たちの関心の的となり、大きな励ましを受けるはずです。

1. ペリシテ人の地に逃れたダビデ

  • なにゆえにダビデはペリシテ人の地に逃れたのか。その理由が1節に記されています。

    【新改訳改定3版】Ⅰサムエル27章1節
    ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

    【新共同訳】
    ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」

  • 1節に記されているダビデの心の思いの動機を考えると、それは「恐れ」です。人は「恐れ」を抱くと正しい判断ができなくなります。サウルのことは主の御手にゆだねているはずのダビデでしたが、ダビデはサウルを信じることができませんでした。ですから、「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるであろう」と思ったのです。この恐れの思いがダビデをしてイスラエルからペリシテの地に移らせた動機でした。
  • 「ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。」(新改訳)
    「ペリシテの地に逃れるほかはない。」(新共同訳)
    これがダビデの結論でした。「逃れる」と訳された部分の原文には「ヒマレット、イマレット」とあり、「逃れる」を意味する「マーラト」(מָלַט)が重ねられて強調されています。それほどにダビデの心の中に「恐れ」が支配していたことがわかります。
  • ダビデもその部下も、そしてそれぞれの家族もこのダビデの思いに従いました。かつては4百人であったダビデも部下もここでは6百人に増えいています。彼らはガテにあるアキシュのところに行き、そこに住みつきました。

2. 二重生活の板挟みを余儀なくされた1年4ケ月

  • ダビデの一行はアキシュの許可を得てツィケラグに住みました。ダビデの当面の課題はアキシュの信頼を得ることでした。自分がイスラエル人でありながら、ペリシテの王の一人アキシュの信頼を得るためにはそれなりのあかしを立てなければなりません。そのためにダビデはアキシュに対して嘘をつかなければなりませんでした。
  • その嘘とは、ペリシテ領にある町の住民を殺して、あたかもその町がイスラエル領にある町だと思わせることでした。アキシャはこのダビデの奸計にまんまとはまり、ダビデを自分の忠実な部下だと思ってしまいます。そしてダビデを自分の護衛に任命したのです(28:2)。
  • アキシュはダビデとその一行が自分のところに落ちのびてきたと思っていました。そして完全にダビデを信用したのでした(28:1~2)。
  • やがて、イスラエルとペリシテが全面戦争になったとき、ペリシテの首長たちはダビデを信用せず、いざ戦いになった時には裏切るかもしれないという懸念を抱いていたために、アキシュはダビデを参戦させることはできませんでした。このときダビデは胸をなでおろしたことと思います。しかし、自分の家に帰った時には、アマレク人によって、自分と部下の家族とすべての財産が奪われていました。そのことはダビデは部下たちから不信任を突き付けられ、絶対絶命の状況に陥ります。ところがダビデはそのとき主によって奮い立ち、すべての家族と持ち物を取り返します。このことによって、ダビデに対する信頼は回復され、その出来事以前にも勝って信頼されるようになるのです。
  • 恐れのゆえにペリシテ領に移ったダビデ、そしてその地においてアキシュを信頼させた数々の奸計。それらを見るときダビデにつまずく人も多いかもしれません。しかしそれでもなお、ダビデは神に「愛される者」なのです。ダビデに対する神の「いつくしみと恵み」が浮き彫りにされていきます。ダビデはまさにイスラエルの姿そのものです。型です。神はダビデに対して注いだ同じ愛(恵み/ヘセド)をもって、イスラエルのみならず、キリストにある異邦人である私たち一人ひとりに対しても、常に真実にかかわってくださる方なのです。

2012.7.4


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