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人を恐れたダビデの失態

18. 人を恐れたダビデの失態

【聖書箇所】 21章1節~15節

はじめに

  • 箴言29:25に「人を恐れるとわなに陥る」とあります。これまで主を恐れ、主の御名の力を信頼して勝利してきたダビデが一転して人を恐れています。21章には、ダビデの逃亡生活の始まりおける最初の二つの出来事が記されています。

1. 祭司アヒメレクのもとに逃れ、パンと武器を求めたダビデ

  • ダビデからパンを求められた祭司アヒメレクはダビデが一人であることに不信を持ちますが、ダビデはうまく嘘をついてその場をしのぎました。もしここで正直に、サウルが自分を殺そうとしているので私は逃げてきましたと行ったとしたら、そのダビデを助け、匿うことは王に対する反逆罪となりかねません。だとすればパンも武器も得られなくなります。ダビデにしてみれば、ある意味、知恵を用いたつもりだったのでしょうが、21:7「-その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止められていた。その名はドエグとって、エドム人であり、サウルの牧者のつわものであった。」とあります。このドエムが自分への信頼の点数稼ぎに、サウル王にアヒメレクがダビデにパンと武器を与えたことを密告します(それは次章22章にあります)。
  • ドエグはおそらくサウル王がエドムと戦ったときの捕虜で、王の家畜を見張る牧者となったようだ。そもそもサウル王は秀でた者たちを自分のもとに集めていたので、ドエグも自分が引き立てられる機会を待っていたのかもしれません。その彼が「主の前に引き止められていた」という表現は、彼の存在と彼がした行為がすべて主の御計画のために用いられたとも受け取れます。したがって、単に、嘘は必ずばれてしまうのだという道徳的な教訓ではないと言えます。

2. 気違いを装ったダビデ

  • ダビデがペリシテ領のガテの王アキシュのところへ逃げのびたとき、アキシュの家来が「この人は、あの国のダビデではないか」とダビデのことを見破りました。このことばを聞いたダビデは、「そのことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた」とあります。それでダビデは気違いを演じたのでした。演技力があったと見えて、それはまんまんと成功しました。しかしこの出来事はダビデにとって、つまり自分と神とのかかわりにおいて心に大きな傷痕を残したようです。

3. 詩篇34篇とのかかわり

  • 後に、ダビデはこの出来事を背景に詩篇34篇を書いたようです。34篇の表題には「ダビデによる」とあります。そしてその後に「彼がアビメレク(これはアキシュの別名、1サム21:11~16)の前で気狂いを装い、彼に追われて去った時」とあります。原文では「彼(ダビデ)の判断、分別を狂わせた時」となっています。ですから、一見、その時に作られたかのように思いますが、実はそうではありません。「時」と訳された原語は「ヴェ」という前置詞で、ここでは「・・した経験をもとに(踏まえて)」というニュアンスです。追放された出来事は実はやがてイスラエルが経験する捕囚の出来事と重ねあわせているのです。ダビデがサウルに追われて、アキシュのもとで自分の判断力、分別を狂わせた経験を通って、はじめてこの34篇の詩篇が作られているのです。
  • 詩篇34篇には分別を失った姿は全くありません。むしろ、確かな主に対する分別をもって書かれています。ダビデが経験した荒野の放浪は確かな分別を失ったことが背景になっているのです。これはひとつの型なのです。神の民が自分たちの国を失い、しかもバビロンの地に捕囚となるという辱めの経験、破局、崩壊、滅亡の経験、零点状況、氷点状況から復興した信仰の息遣いが詩篇の中にあるのです。ですから、「詩篇が私たちと神とのかかわりを建て上げるに最もふさわしいテキストである」ということが言えます。
  • 詩篇34篇はアルファベット詩篇であり、教訓的詩篇です。ダビデは自分の失敗の経験をもとに、真に主を恐れることの大切さとその祝福を子孫たちに教えようとしたのです。8節に「主のすばらしさわ味わい、これを見つめよ」とありますが、私たちが人を恐れるとき、神から与えられている良いものまでも見失ってしまうのです。神のトーヴに目を向けながら、人を恐れず、主を恐れることを学びたいと願わされます。

2012.6.21


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