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信仰の継承を担う家族の祝福

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84. 信仰の継承を担う家族の祝福ー「トールドート」の秘密ー

【聖書箇所】マタイの福音書19章13~15節

ベレーシート

●19章1~15節は、御国に関する重要な事柄として「結婚・独身・子ども」が取り上げられています。今回の13~15節はとても短い箇所ですが、イェシュアに「手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた」ことが何を意味するのかを考えてみたいと思います。まずはテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書19章13~15節
13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。
14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。

●前回のメッセージでは、パリサイ人たちの離別に関する質問から男と女の「結婚」の本質へ、そしてそれに関する弟子たちの質問を契機にして「独身」の話へと変わり、今回はイェシュアに手を置いて祈ってもらおうとして子どもたちを連れて来た人たちを弟子たちが叱ったことから、「子どもたち」へと話が及んでいます。一見、何気ない問題を扱っているように見えますが、そうではありません。神のご計画に関わる内容を秘めています。それはすべての者が、キリストにおいて神の家族となり、キリストにおいて「一つ(一体)となる」ことが扱われているのです。つまり、男と女の「結婚」は「子ども」を産むことによって、また、結婚しない「独身」の賜物を神から与えられている者は信仰者を生み出すことによって、また、イスラエルにしても、教会にしても、「子を生む(産む)」という歴史(継承)が御国の家族を構成するということです。そのために、大祭司イェシュアの祈りは不可欠なのです。なぜなら、イェシュアこそ神の家族の長子であり、長子の権利を持つ者だけが人を祝福することができるからです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ(イェシュアの父ヨセフも含めます)、イェシュアの流れは長子の権利を持つ系図です。私たちの主イェシュア・メシアが天にあるすべての霊的祝福を私たちにもたらすことができたのはどうしてでしょうか。それはイェシュアが私たちの長子となられたためであり、大祭司としての務めを御父から与えられているからです。

●今回のテキストには、単なる「子どもたち」のための祝福の祈りということではなく、イェシュアこそが私たちを祝福できる唯一の長子だということを証ししている出来事なのです。その祝福を受ける側として、イェシュアのもとに子どもたちを連れて来た人々と、その人々が連れて来た子どもたちをセットとして考えなくてはなりません。子が祝福されることは、親も祝福されることになるからです。

1. 連れて来られた「子どもたち」

●ここの「子どもたち」の「子」とは「パイディオン」(παιδίον)という語彙が使われています。それは、生まれて間もない乳児から13歳までの子どもを含んでいます。ユダヤ教においては、「バル・ミツヴァー」(בַּר מִצְוַה)を受ける13歳までは一人前の扱いはされていませんでした。つまり、「成人」として認められなかったのです。女子の場合は「バット・ミツヴァー」(בַּת מִצְוַה)と呼ばれ12歳です。自分の行動に責任を持てる年齢に達したという意味で「成人」と考えられているのですが、イスラエルにおいて民を構成するのは20歳以上でした。しかも、女性や幼子や子どもたちはイスラエルの構成員としてその数に入っていなかったのです。天の御国における構成員の年齢制限はありませんが、彼らがいなければ神の歴史は創れないのです。

●ユダヤの子どもたちの地位は私たち日本人が考えるのとは異なります。日本には、3月3日の「雛祭り」からはじまって、5月5日には「端午の節句」があり、秋には「七五三」といった華やかな祭りが毎年あります。これらは子どもたちの成長を大切にしている証拠でもあります。しかし、ユダヤにはそのような祭りはありませんし、日本に来日したラビは「子どもというのはわがままで、うるさいものだ。少しもじっとしていない」と言っていました。昔も今もイスラエルの子ども観というのは変わっていないのかもしれません。

●弟子たちが「子どもたちを連れて来た人たちを叱った」とあります。「叱った」と訳された「エピティマオー」(ἐπιτιμάω)は「非難して、叱りつける」という厳しいイメージですが、それが当時のユダヤ人の子どもに対する一般的な受けとめ方だったのかもしれません。しかし、イェシュアは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」と言われました。「子どもたちを来させなさい」の原文は「子どもたちをそのままにしておきなさい」となっています。「そのままにする」とは「去らせるな」という意味の「アフィエーミ」(ἀφίημι)のアオリスト命令形です。さらに、「邪魔してはいけません」の「邪魔する」(「コーリュオー」κωλύω)という語彙は現在命令形が使われていることから、「阻み続けてはいけない」という意味で、イェシュアは彼らの考え方を改めるように命じています。つまり、イェシュアにとっては重要な事柄であったのです。

●今回のテキストにある「子どもたち」は、イェシュアのもとに「連れて来られた」のです。「来られた」は受動態です。誰によって連れて来られたのかと言えば、自然に考えるならば、彼らの親だと言えます。子どもたちがイェシュアのもとに連れて来られたのは、子どもたちの上に手(原文は「両手」を意味する「ケイル」 χείρ)を置いて祈ってもらうためでした。「上に手を置いて祈る」ことを、バルバロ訳は「按手して祈る」と訳しています。按手の祈りには二つの意味があります。一つは、「按手するものと按手されるものが一体となる」ことを意味すること。もう一つは、「祝福を受け継ぐ(継承する)」ことを意味します。

●前者の例としては、祭司が自分の罪の清めのために牛の頭に自分の手を置いてほふり、その血を祭壇の上に注ぎました。按手は自分と自分が手を置くものとを同じに見なすことを意味します。ですから、イェシュアが子どもたちに手を置き祈ることは、子どもたちがイェシュアと同じ家族の一員となるという祝福を意味することであったのです。弟子たちはそうとは知らずに、子どもを連れて来た人たちを叱ったのですが、これは人間的な思いから出たものです。かつてイェシュアがエルサレムで殺されるという受難の予告を聞いたシモン・ペテロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずはありません」とイェシュアをいさめたことと同じです。シモンが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白したにもかかわらず、「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と言うことは、「イェシュアはキリストではない」ということを言っているようなものです。そんな弟子たちをイェシュアは忍耐深く指導していかれたのです。

●後者の良い例が創世記48章にあります。按手の祈りは、親も子どもも共に祝福を受けることによって、信仰の祝福を受け継ぐ(信仰を継承する)ことを意味します。そこはヤコブ(イスラエル)がヨセフの二人の息子(マナセとエフライム)の頭に手を置いて祝福を祈る場面です。

【新改訳2017】創世記48章13~16節
13 それからヨセフは二人を、右手でエフライムをイスラエルの左手側に、左手でマナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。そして二人を彼に近寄らせた。
14 ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。
15 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。
16 すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちに受け継がれますように。また、彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」

●13~14節には、ヨセフの父イスラエル(ヤコブ)がヨセフの二人の息子の頭に手を置いて祈ったことにのみ注目したいと思います(手を交差して置いたことは、ここでは省きます)。15節でイスラエルは二人の息子の頭に手を置きながら、「彼はヨセフを祝福して言った」とあります。実際に手を置いているのはヨセフの二人の息子に対してですが、同時に彼らの父ヨセフに対しても祝福して祈っていることが分かります。親が子どもを連れて来なければ成り立たない祈りです。そしてその祈りの内容と言えば、「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ」と呼びかけた後に、「この子どもたちを祝福してくださいますように」と祈っています。そしてその祝福の内容は、「私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちに受け継がれますように。また、彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」です。

●ここにある按手の祈りの内容は、
①アブラハムとイサク、ヤコブの名が、ヨセフの二人の息子たちのうちに「受け継がれる」ことです。「受け継がれますように」と訳されていますが、そこで使われている語彙は「呼ぶ」を意味する「カーラー」(קָרָא)です。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブの名が呼ばれ、それが覚えられることを意味し、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた神の約束がヨセフとその二人の息子にも連綿と受け継がれることを意味する祈りなのです。
②「彼らが地の中に増える」ことです。「増える」(「ダーガー」דָּגָה)と訳された語彙はここにしか使われていません。その名詞は「魚」を意味する「ダーグ」(דָּג)です。つまり、「多く」を意味する「ラヴ」(רַב)と一緒に重ねられることで、彼らが「魚のように増え広がる」ことを意味しているのです。これがヨセフの二人の息子に対する祝福の祈りでした。

2. 「トールドート」の秘密

●今回の「イェシュアのもとに連れて来られた子どもたちの上に手を置いて祈ってもらう」という行為は、ヤコブがヨセフの息子のために按手して祈ったイメージと重ね合わせることができます。親から子へ、子からその子へと受け継がれて行く信仰の継承のための祝福の祈りなのです。なぜこの記事がここに置かれているのか、それは文脈として必然性があるのです。

●今回の「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです」というイェシュアのことばによって、「児童伝道」や「幼児教育」の働きに召される方もいるようです。それはそれで良いことだと思いますが、ここでは、「子を生む」ことによって信仰が継続されるという重要性に目を留めたいと思います。このことは次世代に信仰を継承することと関係します。

●マタイ18章1~4節にも「子ども」のことが扱われていました。そこでは「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」、「この子どものように、自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」と教えられていました。つまり、「子どものような心」を持つ者が御国の民の資質としてふさわしいと教えられていました。しかし、今回の19章13~15節では、イェシュアのところに連れて来た親たちによって、子どもたちが按手されたということが強調されているように思われます。つまり、「子どもたちと子どもを連れて来た人たち(親)」がイェシュアと「一体」となるだけでなく、信仰が、「受け継がれる」ための祝福を受けたことが重要なのです。

●結婚した夫婦が子を生むという出来事は当たり前のことのように思われます。しかし、神の世界では当たり前ではありません。「○○が○○を生んだ」という出来事は、そこに継承、流れ、家系、歴史が創られます。歴史を意味する英語「ヒストリー」(History)は、「ヒズ・ストーリー」(His story)と言われるように、御国の民としてつながる系図は、「神の奇蹟的な介入によって造られる歴史」なのです。「系図」ということばのギリシア語は「ゲネシス」(γένεσις)ですが、ヘブル語は「トールドート」(תּוֹלְדוֹת)で、「生む、産む」を意味する「ヤーラド」(יָלַד)がその語源となっています。

※「トールドート」(תּוֹלְדוֹת)は「~の系図」を意味する複数連語形です。その語源は「トーレードート」(תּוֹלֵדוֹת)ですが、この形で使われることはありません。

●新約聖書の最初にあるマタイの福音書、その始まりは「~の系図」で始まっています。日本訳では「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありますが、ギリシア語原文では「ビブロス・ゲネセオース・イェ―スー・クリストゥー」(Βίβλος γενέσεως Ἰησοῦ Χριστοῦ)とあり、直訳すると「イエス・キリストの系図の書」です。一見、私たちには関係ないものとして無視されがちですが、神にとってはとても重要な系図であり、歴史なのです。そこにはアブラハムから始まってイェシュアに至るまでの、連綿と続く神の奇蹟的な出来事が含まれているのです。聖書で最初に「トールドート」(תּוֹלְדוֹת)という語彙が使われているのは創世記2章4節です。そこでは「これは、天と地が創造された経緯である」とあります。新共同訳では「経緯」を「由来」と訳していますが、聖書協会共同訳では「次第」と改訳されました。そのほかも「家系」「系列」「路線」とも訳され、神のご計画における重要な語彙ですが、一つの訳では間に合わない語彙でもあります。

●創世記5章1節では「アダムの系図の書」が記されていますが、【新改訳2017】では「トールドート」を「歴史」と訳しています。そこでは、「〇〇○○を生んだ」という定式で記録されていますが、その系図において重要なことは、系図の最後にある人物の名前です。例えば、アダムの系図の中で重要な人物は誰かといえば、それは「ノア」です。10章1節には「ノアの歴史(系図)」が記されていますが、ノアの息子はセム、ハム、ヤフェテの三人です。神はノアと、その息子たちを「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と祝福しています。そして、三人の息子たちのそれぞれの系図が記されています。最初に来るのはヤフェテの子孫、次にハムの子孫、そして最後はセムの子孫です。11章10節には「セムの歴史」があり、その最後に記されているのはアブラハムの父「テラ」です。その「テラ」からアブラハムが登場してくるのです。歴代誌にはアダムから始まってヤコブの12人の各部族の系図が記されています。その中で重要なのはユダの部族で、その行きつく人物と言えばダビデです。聖書の系図では、最も重要な人物が最後に記され、その人物から新たな時代がスタートしていきます。

●新約のマタイの福音書の系図を見るなら、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」となっていて、スポットはイェシュアに当てられています。この間、ニ千年の歴史があります。聖書における歴史の中心はこのイェシュアなのです。旧約における歴史の終わりがイェシュアであることは、イェシュアから新しい歴史が始まることを意味しているのです。まさに神の救いの珠玉のストーリーが込められた「トールドートの極み」ー歴史の中の歴史、歴史の鏡、意味のある歴史、目的のある歴史、価値のある歴史―歴史の極みです。つまり、この神の歴史に比べるなら、他のいかなる歴史も及ばないのです。

●このように、「歴史」、「系図」が神にとって大切なものなら、私たちにとっても大切なものとならなくてはなりません。「トールドート」(תּוֹלְדוֹת)は複数形です。一代では歴史を創ることができません、「人が子を生み、その子が子を生む」という繰り返しを通して歴史は創られていきます。子を生むためには、結婚することは必然ですが、結婚したとしても子が生まれなければ歴史は創られません。アブラハムとサラから約束の子イサクが生まれ、そのイサクの妻としてリベカが与えられることでヤコブへと受け継がれていくという歴史も、神の配剤がなければ全く不可能であったことを思うと、そのような歴史を創り出せるのは神しかいないことを知らされるのです。その歴史の中で一人の人間が神のいのちの路線に参与(貢献)できるのはせいぜい三世代までが限度です。

3. 私たちが取り組むべき課題

●使徒パウロがピリピの看守に言ったことばとして、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)という約束があります。これは自分から始まる新しい信仰の家族に対する約束です。「信じなさい」は主体的・決定的なアオリスト命令形ですが、「救われます」は未来形受動態です。信仰の継承の約束です。まず自分が信仰に立つなら、次の世代に信仰が継続されるという約束です。

●日本のキリスト教会において、クリスチャンホームが出来たとしても単にそれだけでは信仰が継続されるという保証はありません。ですから、「信じる」という主体的な自覚が必要なのです。信仰の継承は簡単なことではなく、むしろ大事業で、神のわざです。戦後の教会では教会学校に子どもが来ることは難しいことではありませんでした。しかし今は違います。子どもが教会に来たとしても、その子どもが熱心になるや否や、未信者の親がそれを簡単に阻止します。また、伝道至上主義の教会ではクリスチャンホームの子どもたちはターゲットに入りません。できるだけ多くの子どもたちを教会に結びつけることが目標だからです。そのような教会学校では子どもたちがたえず流動する(来たり来なかったり、新しい子が加わる)ために、聖書にある神の壮大なご計画を学ぶことができないのです。何よりも救われることが優先されるため、救われた子どもを育てることに全く力が注がれないのです。そうこうしているうちに、教会の体質がまるで大きな幼稚園・保育園状態になってしまうのです。

●次の世代をしっかりと育成して、大人に成長させていくためには、聖書の一部分でなく、全体を学ぶ必要があります。しかも神のご計画の全体像を体系的に教えていく必要性があります。パウロはエペソの教会を三年半の間、手塩にかけて建て上げようとしましたが、神の恵みの福音だけでなく、御国の福音をあますところなく常に語っていたことが分かります。御国の福音とは、聖書における神のご計画の全体像を教えることを意味します。部分ではなく、全体です。そうした視点を身に着けさせるのが次世代に対する責任です。この取り組みは、神道の「七五三」にあやかって、子どもの成長を願って持たれる教会の「成長感謝会」とは全く異なります。次世代の育成は一つのイベントで出来るようなものではありません。普段からの地道な取り組みが重要なのです。その意味において、今日のテキストにある、イェシュアに手を置いて祈ってもらうために、子どもたちを主のみもとに連れて来る親たちの存在がとても重要なのです。

●クリスチャンホームの子どもたちが育って健全な神の歴史が創られていくためには、子どもではなく、むしろ子どもたちの親の意識改革が不可欠です。とは言え、これは私たちの努力でできることではありません。そのためには様々な多くの出来事、そして多くの人たちのかかわりが必要です。使徒パウロはこう述べています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章28~29節
28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

●28節のみことばは有名ですが、この28節が29節と密接につながっていることになかなか私たちは気づきません。その理由は訳の問題にあります。29節の冒頭のことばとして理由・目的を示す接続詞「ホティ」(ὅτι)があるにもかかわらず、それが十分に訳されていないために、つながらないのです(29節の終わりにある「~となるためです」でそのつながりが理解できると良いのですが)。つまり、28節の「益となる」とは、私たちが「御子のかたちと同じ姿になる」ことと同義なのです。「御子のかたちと同じ姿になる」とは、朽ちることのないからだのことを言っていますが、同時に、私たちも人を祝福していく長子とされることをも意味しているのです。

●詩篇2篇7節に「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。・・』」とあります。これは御子が御父の定めを代弁している預言のことばです。「わたしが今日、あなたを生んだ」とは、神の定めた日に「復活する」ことを「生んだ」(「ヤーラド」יָלַד)と言っています。イェシュアから新しい歴史が始まっているのです。そして、私たちが、「長子」として生まれた(復活された)御子のかたちと同じ姿にあずかることが、「トールドートの秘密」なのです。

ベアハリート

●繰り返して言いますが、信仰の継承は教会における大事業であると同時に、難事業です。私たちが信仰による「いのちの路線(トールドート)」を担うのは神のご計画においてはごく一部であるかもしれません。とはいえ、それは教会にとって最も優先されるべき大事業です。イェシュアのもとに子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちのようになってはならないのです。イェシュアが言われたことば「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たち(子どもたちだけでなく、その親たちも含まれる)のものなのです」を心に留めたいと思います。

●最後に、心に留めるべき三つのみことばを銘記しておきたいと思います(いずれも【新改訳2017】)。

(1) 詩篇127篇3節「見よ。子どもたちは主の賜物」(賜物には責任が伴います)
(2) ヨシュア記24章15節「私と私の家(家族)は主に仕える」(家庭における父権の確立)
(3) 箴言4章4節「父は私を教えて言った。『私のことばがおまえの心を支えるように。私の命令を守って生きよ。』」(継承の使命)

●特に最後の箴言のみことばは、自分が父親から受けたことばを自分の子に語っているのです。その内容は実に明確です。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」と父から教えられたことを、そのまま自分の子どもたちに伝えようとしているのです。つまり、そこには「父から子へ、子からまたその子へ」という信仰の継承の熱い思いが伝わって来ます。教会の課題としてはとても重いものですが、主の導きと助けをいただいて、明確な方向をもって主に仕えていきたいと思います。

2020.8.30
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