****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

信仰の馳せ場を走る

第22日 「信仰の馳せ場を走る」 

信仰の生涯を全うしよう

はじめに

  • 今回は「信仰の馳せ場を走る」と題して、ヘブル人への手紙12章1節のみことばからそれが意味することは何かを共に考えてみたいと思います。「信仰の馳せ場」という言い方をよく教会ではするのですが、この言葉自体は聖書の中にありません。「馳せ場」ということばもありません。「馳せる」(つまり、走ること)ということばは国語辞典にありますが、「馳せ場」という言葉は、国語辞典にもない、教会専用の用語のようです。その意味するところは、走るべき道のり、走るべき道程のことです。
  • 聖書のテキストそのものをみてみましょう。

    こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

  • この1節の最も中心となることばはなんでしょうか。キーワード、メインテーマ、それは「走る」ということばです。「走り続けようではありませんか。」Let’s go ならぬ Let’s run です。
  • 「走り続ける」とは「信仰生活を完走する」、「キリストを信じる生涯を貫く」ということです。信仰の生き方を走り抜くということ、人生の最後まで信仰を貫き通すということです。これは決して容易なことではありません。神の助けがなければ、途中で脱落してしまう危険がいつでもあるからです。
  • 私たちに神を信じるという信仰が与えられているのは、信じている者にとっては当たり前のように思っているかもしれませんが、実は、奇蹟中の奇蹟です。それは人間の力で与えることはできないからです。しかも、ひとたび与えられた信仰の馳せ場を走り抜き、信仰の生涯を全うすることはなおのこと容易なことではないのです。この手紙が書かれた当時は、信仰に入った者たちがさまざまな困難、迫害、試練に会うことによって、信仰の道から離れて行った者が少なくありませんでした。ですから、ヘブル人への手紙の作者は12章1節のように言わなければなりませんでした。もう一度、読んでみましょう。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」
  • オリンピック競技の最終種目はいつでもマラソンです。きわめて過酷なレースで競技場に42.195Kmを走り抜いて戻ってくる。そして、大勢の観客が見守る中で決勝点(ゴール)のテープが切られる。観衆はその姿をたたえるわけです。実は、信仰生活もマラソンと同じです。
  • ところで、聖書が書かれた当時のスポーツと言えば、第一に、「競争」「拳闘」(ボクシング)、そして「レスリング」でした。他もありますが、この三つが主な花形スポーツでした。ですから、新約聖書には信仰をスポーツの競技にたとえている箇所があります。
    (1) キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。(ピリピ3:14)
    (2) 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(Ⅱテモテ第二、4:7)
  • 「競争」のたとえによって教えられている大切な真理は・・・
    ① だれでも決勝点に到達できること。
    ② 到達した者には神からの栄冠が与えられること。
    ③ 途中であきらめてはならない。
    ④ 決勝点に到達することに集中せよ。

1. 「走る」(走り続ける)とは

  • さて、「走る」ということばに抵抗感を示す方がいるかもしれません。足の速い、走ることが得意な人にはなんでもない言葉ですが、走ることが苦手な人である場合、「走ろうではないか」と言われると、そのことばだけで疲れてしまうような人もいると思います。でもご安心ください。聖書の言う「走る」とは、必ずしも動いたり、一所懸命に何かをしたり、働いたりすることではありません。聖書の言う「走る」とは、体を動かすような活動を意味していません。
  • 詩篇119篇には「走る」という動詞が使われている箇所があります。32節です。「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。」
  • ここにある「走ります」(「ルーツ」רוּץ)ということばは、「情熱を傾ける」という意味です。なぜ、情熱を傾けることができるのかと言うならば、それは「あなたが私の心を広くしてくださるからです」と述べています。「心を広くしてくださる」とは、英語で言うと、set my heart free つまり、あなたが私の心を自由にしてくださった、私の心を解放してくださったという「喜び」の発露を表わす表現です。主の教えに従うことが強いられてというのではなく、むしろ喜んでそうしたくなるようにしてくださった。それがここでいう「心を広くしてくださる」という意味です。「広くする」というヘブル語では「ラーハブ」רָחַבという動詞が使われています。前に、遊女ラハブ、太めのラハぶということで、このことばについてお話しました。
  • 心が解き放たれることによって、はじめて情熱を傾けることができるようにされるのです。そのような喜びをもった自発的求道性を表わすことばが「走る」(「ルーツ」רוּץ)ということばが持っている意味です。
  • 情熱をもって生きている人は、なにかしら輝いて見えます。生きる意欲がみなぎっています。精力的です。枯れ果てた姿には見えません。絶えず、何かを求めているからです。そんな「走りの生涯」を私は生きたいと思います。どうせ生きるならば、やっとのことで生きているのではなくて、むしろ輝いて生きたいものです。こうした生き方は、何かをすることによって与えられるものではありません。主イエスとの霊的な命の関係を豊かに保ち続けることによって、つまり自分が神から愛されているという経験を豊かにすることによって生み出されるものだと思います。そのようにして、信仰の馳せ場を走ることができるのではないでしょうか。

2.  信仰の馳せ場を「走る」ための提言

  • そうしていくための提言を、ヘブル人への手紙の作者は、消極的な面と積極的な面の二つの方面から述べています。 

〔A. 提言その1〕  いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる

提言1
  • 走る人にとって必要なことは、身軽になるということです。これがなかなか難しいのです。大きな荷物を持ったままで、抱えたままで、走ることは出来ません。

    (1) 思い煩い

    私たちは、思い煩いという荷物を担ったままで、走ることはできません。使徒ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(5章7節)と述べています。ペテロがこのことばを書いたのは、前後関係を見てみると分かるように、堅く立って悪魔に立ち向かわせるためです。「思い煩い」「心配事」を心にもったままで、悪魔に立ち向かうことはできないからです。

    (2) 自己中心的な願望

    あるいは、自己中心的な願望という荷物を抱えたままでも、走ることはできません。神様が私たちを選んだというならば、神さまのご計画があるのです。そのご計画からはずれて私たちが自分中心的な願望を満たそうとすればするほど、神との軋轢は増し、やがて信仰の道から離れていく危険があります。自分の人生において最高のものを備えてくださる神様にゆだねなければなりません。明け渡さなければ、神が私たちに与えようとしておられる良いものを受け取ることができません。私たちの神は備え主です。My God is provider 私たちの将来も、生きる目的も、幸せも、喜びも、生存と防衛にかかわる一切の保障を備えておられるのです。神のみこころを理解する力も、洞察力も、神の働きをする力も、愛する力も、すべてです。

    「ゆだねることの大切さ」・・神さまの子どもとされても、神の御声が聞こえないという方がいます。一度も聞いたことがないという方もいます。なぜ聞こえてこないのでしょう。私たちの神は語る神さまなのに。その原因は私たちの側にあります。それはその人が神の前に静まり、神からの心の平安を与えられていないからです。自分の考えがあって、それをしっかり握ってそれを手放すことも、変えることもしようとしない状態では、神の御声を聞くことはできませんし、従うこともできません。ましてや、心を尽くして神を尋ね求めるという新しい生き方は起こり得ません。

    (3) 人を恐れる>

    また、人を恐れるというまつわりつく罪が私たちを支配しているかもしれません。人を恐れるとわなに陥るという聖書のことばがあります。神が私を全責任をもって愛し、導いてくださるという確信をもっていないときに、私たちは人を恐れるのです。恐れると言ってもびくびくしているわけではありません。心の仕組みとして、人から疎外されないような態度をとってしまうということです。そのために自分の心を偽り、表面的な心でかかわろうとします。一見、これは罪ではないように思えますが、神に従って人とのかかわりを失うことを恐れる心が隠されています。このような人を恐れる心も、信仰の馳せ場を走ることを難しくしてしまいます。

    他にも、自分の弱さ、悪習慣も「走る」ことを妨げてしまいます。そのようにいろいろな邪魔物に纏(まつ)わり付かれるようであっては、信仰の馳せ場を走ることが出来ません。私たちが、信仰の歩みにおいて、遅々として前に、なかなか進まない場合は、いろいろな重荷を持っているからかもしれません。

    (4) 不信仰>・・すべての根源にあるもの

    纏わりつくものの中で、一番根底にあるものは不信仰です。神さまを信頼できないということです。不信仰のもたらすしるしは、心の中に平安がないということです。いつもなにかを心配している。将来を心配してしまう、人を恐れてしまう、これが不信仰のしるしです。このような不信仰が心の中を支配していては、前進どころか、かえって後退してしまうに違いありません。

    私たちは、自分自身、振り返ってみて、纏わり付くものはないかを調べ、それを、勇気をもって捨てなければなりません。そうでないと、神によって与えられた祝福への信仰の馳せ場を走り通すことはできません。ましてや、全力を尽くして走ることなど到底できません。不信仰の罪から来るまつわりつく重荷―思い煩い、心配、不安、恐れ―を神のもとに明け渡すことをしながら、私たちは信仰の馳せ場を走って行くのです。

〔B. 提言その2〕見物人の激励を知る

提言2
  • 第二の提言は、「見物人の激励」です。1節に、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから・・・走り続けようではありませんか。」とありました。

    (1)「多くの証人たち」の励まし

    この「多くの証人たち」とは、この前の11章に記録されている信仰の勇者たちのことです。聖書の中に登場する人々の信仰を学ぶことを通して、私たちはいつも信仰の励ましを受けます。

    運動会などで、私たちが走る元気が出るのは見物人の声援です。たとえ、走ることが遅くても、最後まで投げだすことなく完走した人に対して、多くの見物人は拍手するのではないでしょうか。そうした励ましの見物人が、神を信じる人の回りに大勢いるのです。

    さまざまな時代において、さまざまな状況の中におかれた神を信じる者たちが、いかにして信仰の馳せ場を生き抜いたか、その記録が聖書の中に記されています。そうした人々から私たちは学ぶことができます。

    彼らの存在は、すでに信仰の馳せ場を生き抜いた人々であり、かれらの大きな声援を聞くことを通して励ましを受けることができます。ヘブル人の手紙の作者は、11章でそうした人々を取り上げて励ましているのです。
    ①アベル・・・神の喜ぶささげもの、神の心にふれるささげものをしました。
    ②エノク・・・自分の息子が生まれてから、自発的に神とともに歩みました。
    ③アブラハム・・神のヴィジョンである永遠の神の都を待ち望みました。
    ④モーセ・・・この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取りました。
    ⑤遊女ラハブ・異邦人でありながらも、命懸けで神の側につきました。
    ⑥ヨシュア・・信仰によって難攻不落と言われたエリコの町を攻め落としました。
    ⑦ギデオン・・石橋を叩いて渡るような小心者が戦いの戦士として尊く用いられました。

    手本がないと、信じるということがなかなかわかりません。11章にあげられた人々は「多くの証人たち」と記されていますように、彼ら自身、走った経験、信仰生涯を最期まで完走した経験を持っている見物人なのです。つまり、私たちの信仰の手本となるべき人々なのです。そうした人々が、「さあ、私たちが走ったように走れ」と激励してくれているのです。これは、励ましではないでしょうか。私もこれらの人々の信仰を学ぶことによってここまで来れたと信じています。

    (2) 共に生きる信仰の家族

    さらに、かつて走り続けて信仰の馳せ場を完走した信仰者たちの存在だけでなく、今、共に信仰の馳せ場を走ってくれる信仰の家族の存在も、私たちに励ましを与えてくれます。

  • 当教会が開拓した当初、80歳になる姉妹―すでに天に召されていますがー上田季子さんが私たちをとても励ましてくれました。1999年、クリスマスが近づいた12月20日に彼女は天に召されました。その知らせを受けた私は練馬神の教会で行われる葬儀に参列できませんでしたのでFAXを送りました。その文章をお読みしたいと思います。
  • 上田季子姉妹の召天の知らせを聞きました。今年の夏、静岡の御殿場でもたれる牧師会の前に、上田姉妹を訪問してお会いする際に、この地上でお会いできる最後のチャンスかもしれないと思いながら、(鎌倉にある病院の)病室に入りました。その訪問は、私どもの思いを超えた大きな(ある意味で衝撃的な)励ましを与えてくれました。痴呆が進んでいると聞かされていましたので、私のことを本当にわかってくれているのか正直言ってわかりませんでしたが、分かっても分からなくても、彼女が大好きだった讃美歌を一緒に歌おうと思い、家内ともう一人の教会の姉妹(及川姉)との三人で、ベッドの傍らで讃美歌を歌い始めました。そのとき、上田姉妹ははっきりと、しかも綺麗な声でいっしょに歌い始めたではありませんか。・・なんとも表現しえない驚きと感動がその場を支配しました。
  • 多くの人の死をみとったクリスチャンの精神科医が、「人は生きてきたように死んでいく」と話されたのを思い起こします。上田季子姉妹の信仰の歩みは、その若き時代に、自由学園の学園長であった羽仁もと子さんの影響を受けながらも、信仰の目が大きく開かれたのはご主人を亡くされてからのことでした。洗礼を受けてからというもの、生まれた乳飲み子のように、彼女は聖書のみことばを慕い求め続けました。その姿は私ばかりでなく、多くの方々に、「自分が年をとったら、あのような生き方をしたい」と思わせるような良い影響を与えました。北海道での開拓伝道が始まってから、彼女はしばしば空知太の教会を訪れ、また、私ども牧師家庭の家族の一員のように共に過ごして下さいました。彼女は自ら「枯れ木も山の賑わい」と言っておりましたが、彼女の存在は私どもの家族にとってどんなに大きな励ましを与えてくれたことでしょう。また彼女は朝早く起きては、毎朝欠かさず近くの公園に行っては賛美と祈りの時を持っておられました。その主を慕い求める彼女の顔は、モーセが40日間、主との交わりを通して与えられた輝きにも似た光を放っていました。
  • 今ここに、彼女が受洗される際に書き記したあかしの中にしるされた讃美歌の歌詞を紹介したいと思います。彼女の信仰の歩みは、正に、この讃美歌の中に要約されているように思います。

1.  
いつくしみ深き  主の御手に引かれつつ
この世の旅路を  歩むぞうれしき
いつくしみ深き  主の友となりて
御手に引かれつつ 天にのぼりゆかん

2.
世の旅果てなば  死の川波をも
恐れなく進まん  主の助けあれば
いつくしみ深き  主の友となりて
御手に引かれつつ 天にのぼりゆかん

  • このように、私たちが共に生きた信仰の家族、信仰の友、あるいは今共に生きている信仰の家族、信仰の友を通しても励ましを与えられ、励まされているのです。

(3) 忍耐をもって走り続ける

最後の提言は、忍耐をもって走り続けるということです。信仰を与えられたからと言って、自分の思うどおりになるわけではありません。むしろ反対のことが多くなることでしょう。それは私たちにとって最善がなにかを私たちが知っていないからです。

神を信じる信仰の馳せ場を走り抜くためには、確かな希望が必要です。使徒パウロはこういいました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)。

私たちには知らないことが多くあります。わからないことだらけです。しかし、はっきりしていることは、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という事実です。そこに私たちの信仰と希望を置くことによって、私たちを愛してくださった神を、力を尽くして愛していくことができます。希望があるとき人は耐えることができます。そこに何かの意味を見出す信仰があるとき、人はどんな苦しみをも耐えることができるのです。


むすび

  • 今朝のキーワードは「走る」でした。私たちに与えられた信仰の道のり、信仰の馳せ場を走り抜くこと、それは、なにか一所懸命に身体を使って活動したり、成果を上げたりすることに躍起になったりすることではありません。むしろ、それとは逆のこと、つまり、心を尽くして、神のうちにとどまるという求道性を意味します。
  • しかし、それを阻むものがあります。それは、思い煩いという重荷であり、自分本位の罪、不信仰な罪といったものです。それをひとつひとつ私たちの心から捨て去らなければなりません。放っておくならば「走る」ことができなくなります。
  • 信仰の励ましを聖書を通して学び、また身近な人の信仰から謙虚に学ぶことです。最終的には、私たちの主イエス・キリストから学ばなければなりませんが、それについては、次回にゆずりたいと思います。今朝は、「私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって、走り続けよう」という決意を新たにすることです。そして神がそのことを助け、導いてくださるように祈りましょう。いつも神に望みを置く歩みができるように。また信仰の持つ力が私の日々の歩みの中に現わされるように祈りましょう。

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