実を結ばなかったぶどうの木へのさばき
エゼキエル書の目次
15. 実を結ばなかったぶどうの木へのさばき
【聖書箇所】 15章1節~8節
ベレーシート
- 聖書ではイスラエルの民がぶどうの木にたとえられています。エゼキエル書にも15章全体と19章10~14節がそうです。新約聖書ではヨハネの福音書15章にそのたとえがありますが、旧約で語られてきたことがその背景にあることはいうまでもありません。はからずも、旧約のエゼキエル書では15章、新約のヨハネの福音書でも15章です(覚えやすいです)。
1. ぶどうの木(ぶどう畑)のたとえの系譜
- エゼキエル書15章の「ぶどうの木のたとえ」は、特に、預言者たちが語っています。イザヤ書では5章1~6節(ぶどう畑)、エレミヤ記では2章21節(ぶどう)について語られています。いずれも新改訳聖書で引用します。
イザヤ書5章1~4節
1 さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
3 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
4 わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。エレミヤ書2章21節
わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、
どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。※イザヤもエレミヤも「なぜ」「どうして」と神が問いかけています。「甘いぶどう」が期待され、「純良種のぶどう」を植えたにもかかわらず、その期待は裏切られ、「酸いぶどう」「質の悪い雑種のぶどう」に変わってしまいました。しかしエゼキエルに至っては、もう問いかけはありません。すでにぶどうに対するさばきが確定したからです。
エゼキエル書では実を結ばなかったぶどうの木の無用性が語られ、神自ら神の民イスラエルから顔をそむけることを決意されました。それは徹底的な審判が下ることを意味しています。
エゼキエル書15章6節
6 わたしはエルサレムの住民を、わたしがたきぎとして火に投げ入れた、森の木立ちの間のぶどうの木のように、火に投げ入れてしまう。
7 わたしは彼らから顔をそむける。彼らが火からのがれても、火は彼らを焼き尽くしてしまう。わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、あなたがたは、わたしが【主】であることを知ろう。
8 彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、わたしはこの地を荒れ果てさせる。──神である主の御告げ──
2. 火に投げ入れられるというさばき
- ユダの民が不信に不信を重ねた(「マーアルー(מָעֲלוּ)・マアル(מַעַל)」がゆえに、エルサレムは火で焼き尽くされ、地は荒廃するという預言が語られます。「見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられる」(4節)、「火に投げ入れてしまう」(6節)とあります。4節の「火が両端を焼き尽くす」とは、一方の端とはすでにB.C.722年に北イスラエルがアッシリヤによるさばきを意味し、もう一方の端とはやがてB.C.576年にバビロンによってなされるさばき、すなわち第二回目の捕囚の出来事です。その中ほどはすでにB.C.597年の第一回のバビロン捕囚を意味しています。すでに「ぶどうの木」は無用の産物となっているのです。ここに絶望と悲しみがあります。
3. 再度、育ててくださいとの祈り
- ぶどうの木は完全に焼き尽くされましたが、捕囚の民となった残りの者たちの中から、神に立ち返る者たちの祈りが生まれてきました。それを記しているのは詩篇80篇14~19節です。
14 万軍の神よ。どうか、帰って来てください。天から目を注ぎ、よく見てください。そして、このぶどうの木を育ててください。
15 また、あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝とを。
16 それは火で焼かれ、切り倒されました。彼らは、御顔のとがめによって、滅びるのです。
17 あなたの右の手の人の上に、御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に、御手がありますように。
18 そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。私たちを生かしてください。私たちは御名を呼び求めます。
19 万軍の神、【主】よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。
- ここには、自分のたちの罪のゆえに焼かれたぶどうの木を、再度、育てて(原語は「パーカド」פָּקַדで「顧みる」の意味)くださいという悔い改めの祈りがあります。主はこうした祈りを見過ごしにはなさらないのです。かつては主が彼らから「顔をそむけ」(エゼキエル15:7)ましたが、今や、神の民が「どうか、帰って来てください」(詩篇80:14/15)と祈っているのです。「帰って」という動詞は「シューヴ」(שׁוּב)です。それは「顔の向きを変える、向き直す」という意味です。この祈りは主に聞かれるのです。そして彼らは再びエルサレムに帰還することができたのです。
4. 「わたしにとどまりなさい」
- 最後に取り上げておかなければならないのは、ヨハネの福音書15章にある「ぶどうの木とその枝のたとえ」です。イエスは言われました。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその中にとどまっているならねそういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
- この箇所は、イエスがエゼキエル書15章を意識して語られたと思われます。エルサレムの滅びの出来事がここでの話の背景になっているということです。イエスは弟子たちに「ぶどうの木」である自分に「とどまる」べきことを繰り返して強調されました。それはひとえに「実を結ぶ」ためです。
- 御父もそのことを願っておられることを1~2節に見ることができます
【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書15章1~2節
1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 - この箇所を読むと、農夫であるイエスの父は一見、冷たく感じます。しかしそれは訳のせいです。父は「実を結ばないものは取り除き」、「実を結ぶものは(もっと多くの実を結ぶために)刈り込みをする」と訳されていますが、ユダヤ的視点から解釈するならば、ここは同義的並行法と見なすことができます。つまり、前者も後者も父の恩寵的行為を別の表現で言い表しているのです。
- 「取り除く」の訳された原語は「アイロー」(αιρω)です。この動詞は「地面から起こす、持ち上げる、支える」という意味があるのです。つまり、イスラエルの野生種のぶどうの木(ぶどうは、つる性の樹木なので「木」と言います)は地面をはうような形でなっています。ですから、農夫はそれを地面から起こして、持ち上げて育てる必要があります。実がなる木の場合にはもっと実がなるように枝を「刈り込み」(「カサイロー」καθαιρω)、剪定します。いずれにしても、農夫はぶどうの木とその枝に対して配慮しておられるのです。したがって、2節をそのような視点で読まなければなりません。文法的な面から見てもそのことが言えるからです。「アイロー」(αιρω)も「カサイロー」(「カサイロー」καθαιρω)も、ここでは現在形が使われています。つまり、御父はぶどう園の農夫として、私たちがキリストにあって実を結ばせるために、愛の配慮を今も継続してなさっておられるということです。このことを信じて、「キリストにとどまり」、豊かな実を結ぶ者とならなければなりません。
2013.5.24
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