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御座における礼拝のヴィジョン(4, 5章)

本論 4. 御座における礼拝のヴィジョン(黙示録4章、5章)

1. 黙示録4章、5章の鍵語

(1)「見る

①  ヨハネは自分が「見た」すべてのことを書き記した。それが黙示録である。

  • a. 栄光のキリストのヴィジョン(1章12~20節)
  • b. 御座における礼拝のヴィジョン(4章~5章)
  • c. これから起ころうとする出来事(6章以下)

② 「見る」ことの重要性

  • 目に見える現実ではなく、霊的な現実を見ることは私たちの生き方に大きな影響を与える。
  • a. 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4章18節⇒同、5章4節、ピリピ1章23節)
  • b. Ⅱ列王記6章の預言者エリシャが見たもの・・神とその御使いの軍勢
  • c イザヤ書6章1節イザヤは「高くあげられた王座に座しておられる主」を見た。
  • d. エゼキエル書1章の天の光景のヴィジョン
  • e. その他 「天が開かれるのを見た」記事・マタイ3章16節、使徒7章56節、使徒10章11節。

(2)「御座」

  • このことばは黙示録の中で40回以上も用いられている。4章、5章だけでも17回ある。聖書では「天の御座」「神の御座」「栄光の御座」「恵みの御座」「大能者の座」「ケルビムの上の座」「大きな白い御座」、あるいは、王座(イザヤ6章1節)、玉座とも訳されている。詩篇には「天の御座についておられる方」とある。御座は黙示録の中心であり、宇宙の中心である。
     
    画像の説明

①「御座」とは・・・天における神の王座である。神の栄光と支配、神の聖なる臨在を意味することばである。そこにおいて神は、絶対的な主権をもってこの全世界、全歴史、全宇宙をとこしえに支配し、治めておられる。

② 御座の〔中央付近〕・・・御座の〔中央〕には父なる神が座しておられる(4章2節)。しかし、ヨハネが見たのは神ご自身ではない。神は描くことのできる方ではない。ただその方は碧玉(白く輝くダイヤモンド)、赤めのうのように見えたのである。その御座の〔中央の回り〕には緑玉の虹がある。また、そこには御座の中央に上る四方の階段があり、その〔階段の中央〕には、前も後ろも目で満ちた「四つの生き物」がいる。そして〔御座の周り〕には24の座と白い衣を着、金の冠をかぶった24人の長老たちがいる。そして〔その外回り〕には多くの御使いたち(5章11節)、〔さらにその外側〕には全宇宙の中の他のすべての被造物(13節)がいる。

③ 御座の中央と御座の周りにいる24人の長老たちとの〔間〕そこには「ほふられたと見える小羊」が立っている。

④ 御座の〔前〕「七つの燃えるともしび」「神の七つの御霊」があり、また御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。

⑤ 御座と小羊との〔前〕・・・そこには、白い衣を着、しゅろの枝を持って立っている、数え切れないほどの「大勢の群衆」、および全被造物がいる。

⑥ 御座と四つの生き物、長老たちとの〔前〕。

⑦ ガラスのような海の〔ほとり〕・・・そにには、神の立琴を手にして立っている「獣・・に打ち勝った人々」がいる。

(3)「ひれ伏す」

① 「礼拝」を表わす旧約聖書の主要なことばは、もともと「ひれ伏す」というへブル語の動詞ハーワーから来ている。主の前にそのような動作をする場面が旧約のみならず、新約にも多く見られる。「ひざをかがめる」こと、「ひざまずく」こと、「ひれ伏す」ことは、感謝と服従とへりくだりという内面の態度を外に表わそうとするものである。文化的にも民族的にもその振る舞い方は異なる。頭を下げたり、ひれ伏す行為は、中近東の文化圏に多く見られる行為であるが、主の前において「ひざをかがめ」「ひれ伏す」ことは、文化を越えた事柄である。なぜなら、聖書は将来、すべてのものが栄光の主の前に「ひざをかがめ」、イエス・キリストは主であると告白する時が来ると述べているからである。⇒ピリピ2章10~11節。

② 天上の礼拝では以下のように「ひれ伏して」礼拝している。

  • a. 24人の長老たち(4章10節、5章14節、11章16節)
  • b. 四つの生き物と24人の長老たち(5章8節、19章4節)
  • c. 御使いたち(7章11節)

(4)「ふさわしい」worthy (4章11節、5章2節、4節、9節、12節)

worthy】
-英語のWORTHYは「尊敬に価する。立派な、・・するに価値がある」という意味である。今日、ワーシップということば(WORSHIP)がよく使われるが、このWORSHIPは、WORTHYのWORとそれに付け加えられたSHIP(~に価する、適当である)という二つのことばからできている。礼拝を受ける価値のある、ふさわしい方を私たちが知ることこそ重要なのである。

①「ふさわしい」とは、似合っているとか、バランスがとれている、釣りあっているという意味である。黙示録では「(神は)・栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と繰りかえし賛美されている。その地位、品性、能力において礼拝を受けるに適性を有しておられるという意味である。

②「(小羊は)・・封印を解くのにふさわしい方」「小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方」とされている。そのふさわしさは、万物にいのちを与え、とりわけ私たちをご自身の喜びのゆえに創造されたからである。また、小羊は、罪深い私たちのためにご自身の尊いいのちをささげてくださったからである。

2. 礼拝の対象

(1)「御座におられる方」(黙示録では父なる神という表現はない)。特に、4章では創造者なる方として賛美と礼拝を受けている。

(2)「ほふられたとみえる小羊」(黙示録では、御子、子なる神という表現はない)。特に、5章で賛美と礼拝を受け取られる。

3. 絶えることのない礼拝

  • 御座を中心にして、秩序正しく、賛美と礼拝がささげられている。その特徴は「昼も夜も絶え間なく」であり、疲れ果てることは決してない。また「大声で」「叫び続け」ながら、賛美したり、それはエコーや雷鳴のようなサウンドであったり、また態度も「自分の冠を御座の前に投げ出し」たり、「ひれ伏し」たり、「立って」と忙しい。

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