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心を激したダビデ

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13. 心を激したダビデ

【聖書箇所】Ⅰ歴代誌 13章1~14節

ベレーシート

  • 11節の「ダビデの心は激した」と訳されている箇所に注目したいと思います。「心は激した」という訳文の表現は、ここと並行記事であるⅡサムエル記6章8節だけです。ここの動詞は「ハーラー」(חָרָה)で、本来は「怒りに燃える」「ひどく怒る」「いきり立つ」「怒りを発する」「腹を立てる」という意味です。口語訳・新共同訳・関根訳は「怒った」と訳しています。バルバロ訳は「残念に思った」、そして尾山訳は「(主のさばきを見て)恐れおののいた」と訳しています。後者の二つの訳は少々ニュアンスを異にしており、ダビデの品位を貶(おとし)めない訳となっています。
  • しかし、私的には、この箇所にはダビデがかなり激しく怒り、感情を露わにしてしまったように思います。「なんでェ!!」という怒りの感覚です。ヘブル動詞の「ハーラー」が聖書で初めて使われる箇所は、神がカインのささげものではなく、弟アベルのささげものに目を留められたことで、「カインはひどく怒り、顔を伏せた」とあります。主もカインに対して「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか」と問いかけています(創世記4章5~6節参照)。カインにとっては自分が完全に主から否定されたと思ったに違いありません。なぜ目を留めてくれなかったのか、冷静に主に尋ねる心の余裕もなかったのです。
  • 王となる前に、全イスラエルが心を一つにして主に仕えるためにダビデの心に与えられた一つの構想がありました。その実現に向けて指導者たちとの協議をし、合意によって主のみこころだと確信をもって行った神の契約の箱の移動中、ウザの死というダビデの面子が潰されるような出来事が起こりました。それは一見、ダビデがしようとしたことが神から拒絶されたかのように思えたのではないでしょうか。そのためにダビデは激しい怒りの感情に捕えられてしまったと考えます。しかし後に、ダビデは冷静さを取り戻し、事の原因を突き止め、再度、神の箱をエルサレムへと移動させています。そこがダビデのすばらしい所なのです。

1. 神のみこころを尋ね求めようとしたダビデ

  • ダビデはイスラエルの王としての務めを果たしていく上で、それまでないがしろにされていた神の契約の箱を、エルサレムに移すことを考えました。神の契約の箱は、単なる箱ではなく、神の臨在の象徴です。その契約の箱の前で、主を礼拝し、主のみこころを伺い、自分に託された全イスラエルを治めようと考えたのです。
  • ダビデは全イスラエルの指導者たちを集めて、自分に与えられた思い(志)を告げ、皆に動機づけをしています。前任者のサウルは神の契約の箱について「顧みなかった」としています。「顧みなかった」と訳されたヘブル語動詞は、「尋ね求める」を意味する「ダーラシュ」(דָרַשׁ)に、それを否定する「ロー」(לֹא)がついた形です。口語訳・新共同訳も「おろそかにした」と訳しています。尾山訳は「ずっと放ったままになっていた」と訳しています。いずれにしても、神のみこころを尋ね求めなかったことを意味しているのです。
  • 神は、前任者にサウルという名の青年をたまたま選んだわけではありません。「サウル」という名は「神を尋ね求める」という意味です。ところが、サウルは神に伺うことをせず、霊媒師を通して死んだ者の霊に伺いを立てたことにより、神を怒らせました。サウルに代わって王となるべく選ばれたダビデの特徴は、常に、主に伺うという姿勢でした。それは前任者のサウルも認めるところでした。
  • 今やダビデは「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。」と呼びかけています。それは常に、イスラエルのすべての歩みを神に伺って進めて行こうという表明でした。
  • ダビデは全イスラエルの指導者と合議して、主の御旨から出たことなら、全イスラエルに散っている祭司やレビ人を集めようと提案します。そして、神の契約の箱を私たちのもとに持ち帰ろうと訴えたのでした。すでにダビデのうちに新しい礼拝への改革の計画があることを知らされます。しかしそれも全イスラエルの同意をダビデは求めました。そこに神の御旨があるならば、できると確信したからに他なりません。案の定、ダビデの提案は全員一致で承認されました。それはダビデの提案が人々の目にも「正しく、真っ直ぐに、当を得たように(「ヤーシャル」יָשַׁר)見えた」からでした。
  • 「エジプトのシホルからレボ・ハマテに至るまで」の全イスラエルが集められました(5節)。これはイスラエルの最南端から最北端という意味です。「ダンからベエル・シェバまで」という表現も「北から南まで」という意味です。ダビデの神の箱を運ぶというイベントは、全イスラエルを巻き込み、しかも各地から祭司たちやレビ人たちを集めて、神の契約の箱を中心とした新しい礼拝に向けての、大々的な改革の一歩としようとしたのです。

2. ウザの割り込みを神が打ち壊された

  • 神を尋ね求めようとするダビデの提案を全員一致で決定した神の箱の移動は、まさに大イベントであったはずです。8節には「ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。」とあります。ところが、神の箱の運び方が問題でした。そこが主のみこころと異なっていました。神の箱を運ぶのはレビ人で、しかもケハテ族の担当であることが神の律法によって定められていましたが、ダビデはそのことを知らずにいたのです。新しい牛車を用意し、それによって運ぶことにしました。ところが、運んでいるうちに神の箱がひっくり返りそうになったその時、牛を御していたウザ(עֻזָּא)が手を伸ばして箱を押さえたときに、主の怒りがウザに燃え上がり、ヴザを打ちました。彼は死んだのです。

最後に

  • ダビデの怒りも理解できます。決して思い付きでしたことではなく、慎重に、そして合議のもとに、全イスラエルを集めて決行したのです。ダビデは「万全だ」と思ったに違いありません。ところがウザの死でそれが続けられなくなってしまったことに、ダビデは耐えられなかったのだと思います。
  • どんなに動機が良いものであったとしても、また、合議で決定したことであっても、実施される段階で、神のみこころと異なった方法でなされるならば、やがて大きな損失を招くことをこの出来事は示しています。聖書を知ること(トーラーに対する知識)が無くては、神の民を正しく治めていことはできません。この一件は、ダビデがこれから王となっていくための最初の厳しいテストであったと言えます。その意味では、ウザの死はダビデにとって尊い価値ある死であったと言えます。

    2014.1.10


「キルヤテ・エアリム」についての預言的意義

  • 聖書における人物の名前、あるいは場所(地名)には、神の隠された秘密があります。それはヘブル語でなければ見つけられません。ここで取り上げる「キルヤテ・エアリム」という地名もそのひとつです。それは、ダビデによって見出されるべく待っていた預言的な場所なのです。
  • ダビデは全イスラエルの中心としてエルサレムに主の箱を置くことを計画します。そのために、主の契約の箱が置かれていた場所とエルサレムにそれを移動することのすべてのプロセスについて、ダビデは主に尋ね求めていたのです。詩篇132篇にそのことが記されています。

【新改訳改訂第3版】詩篇132篇2~6節
2 彼は【主】に誓い、ヤコブの全能者に誓いを立てました。
3 「私は決して、わが家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。
4 私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。
5 私が【主】のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」
6 今や、私たちはエフラテでそれを聞き、ヤアルの野で、それを見いだした

  • 5節でダビデは「私が【主】のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」とあります。ここでの「一つの場所」、すなわち、主の「御住まい」とはエルサレムのことです。しかしそこに主の臨在の象徴である「契約の箱」がなければまったく意味がありません。それがどこにあるのかをダビデは尋ね求めていました。そして6節にあるように、その情報を「エフラテでそれを聞き」、それが「ヤアルの野」にあることを見いだしたのです。「ヤアル」(יַעַר)とは「イェアーリーム」(יְעָרִים)の単数形です。「ヤイル」は「茂み、林」を意味し、その複数形は「森」という意味になります。つまり、「ヤアルの野」とは「森のある場所」ということになります。そこに「契約の箱」があったのです。
  • 下図を見ると、ペリシテ人によって奪われた「契約の箱」が、回りまわって「キルヤテ・エアリム」にたどり着いていることが分かります。

画像の説明

  • 聖書によれば、「契約の箱」は20年もの間、「キルヤテ・エアリム」に安置されていました。その場所について、ダビデはエフラテでその情報について聞き(知り)、「キルヤテ・エアリム」にそれがあることを見出したのです。そして、全イスラエルの大イベントとして、「キルヤテ・エアリム」から「エルサレム」へと運び込もうとしたのです。
  • ダビデにとって、全イスラエルの一致の象徴であるエルサレムとそこに置かれる契約の箱、この二つがなければ象徴とはなり得ません。その二つの出合いはまさに奇蹟的です。
  • 「キルヤテ」(新共同訳は「キルヤト」と表記しています)は、「都、町」を意味する語彙ですが、語源となる動詞の「カーラー」(קָרָה)には、「出会う、選定する、見だされる」という意味があり、まさにこの町はダビデによって見だされるべく運命にあったと言えます。ダビデは「私たちの神の箱を私たちのもとに持ちかえろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(Ⅰ歴代誌13:3)と述べています。「顧みなかった」とは、そのことを「尋ね求めなかった」ことを意味します。つまり、神のことについて関心がなかったことを意味しているのです。その意味で、「キルヤテ・エアリム」はまさにダビデによって見いだされたことに、「キルヤテ・エアリム」の預言的意義があると言えます。神ご自身を尋ね求めることを、神は何よりも喜びとされるのです。神である主がエルサレムをご自身の住む町として選ばれたことも預言的です。なぜなら、そこにはだれよりも神を愛し、神を求め、神に尋ね求める者がいるからです。その一人であるダビデの名前が「神に愛される者」という意味であることも預言的と言えます。2017.2.3

2014.1.10


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