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王制導入のいきさつ

7. 王制導入のいきさつ

【聖書箇所】  8章1節~22節

はじめに

  • 8章からサムエル記の主題である「王制」がどのような経緯で導入されたかが記されています。すでにこの章において、民が要求した王制の導入の中に人間が抱く本質的な問題が見え隠れしているのです。

1. 王制導入の民の要求

  • 強力な指導者がいるときには安心できていたことが、やがてふさわしい指導者がいなくなることが分かる時、またその後継者に不安要因があるとき、人は不安と恐れの中に突き落とされます。8章は「サムエルは、年老いた」とあります。サムエルは自分の後継者を二人の息子たちにまかせようとしましたが、二人の息子はその器としてふさわしくないことがだれの目にも明らかでした。聖書はそのことを「この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきをまげていた。」(3節)と記しています。
  • イスラエルの長老たちがみな集まって協議し、サムエルのところに来て、「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」と要求します。この要求が意味する真意は、人間としての最も基本的なニーズである「生存と防衛の保障」に対する不安から来ています。この不安が強くなるとき、大切な事が見えなるのです。ここでは、神がイスラエルの真の王であるという事実が見えなくなっているのです。このことが一番大きな問題であることを神はサムエルに次のように語っています。
    「それは・・・彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」(7節後半)

2. 王制導入に対するサムエルの警告

  • サムエルは民が要求する王を立てることによってどんなことが起こってくるかを警告しました。それを一言でいうならば、「あなたがたは王の奴隷となる」ということです。そのキーワードは「取る」(徴用する)という動詞「ラーカハ」(לָקַח)です。サムエルは王を求める民に対して、王が持つことになる「取る」という権威があることを民に警告します。8章10~17節の中に「取る」という動詞が4回も使われています。それは、民の息子たちを取り、娘たちを取り、穀物とぶどうの収穫の十分の一を取り、羊の群れ(財産)の十分の一を取るようになり、そのようにして、王の奴隷となるのだという警告です。
  • しかし、民たちはサムエルの言うことに耳を貸さず、警告を無視しました。民たちは次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰサム
19 「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」

(1) 「ほかのすべての国民のようになり」
「ほかのすべての国民」とは、異邦人と同じくという意味です。ここには神の民としてのアイディティティがすでに喪失しています。聖なる国民となることへの召命の欠如があります。

(2) 「王が、自分たちのをさばき、自分たちの先頭に経ち、自分たちのために戦ってくれるから」
「自分たちのために」という発想そのものが、王が偶像となっています。偶像の神とはあくまでも「自分たちのために」造られます。自分のたちのための都合の良い王、この発想自体がすべて幻想の運命を抱えています。そんな自分に都合の良い王はいないことに気づかないことがずてに大きな問題です。幻想の運命に終わることを知らずにいるのです。むしろ、自分たちのために立てる王は、他の国の王のように「専制君主」となって、王のために民が奴隷となるのです。この危うさは警告しただけではなかなか気づきません。実際にそれを経験してはじめて気づくものです。そのために神は民たちの要求に応じたのでした。

  • 私たちが、自分の生存と防衛の保障のために求めようとするものが幻想に終わることを教えるために、神はあえて民の要求を受け入れられました。歴史は神の警告する真実が立証する舞台となることを私たちは歴史書を通して見る(学ぶ)ことができるのです。

2012.5.23


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