****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想(1)「喜ぶ」

ヨッド瞑想(1) 「喜び」

テキスト | 瞑想(2)」| 瞑想(3)

  • あなたのみおしえが私の喜びだからです。」(77節)にある「私の喜び」に焦点を当ててみたいと思います。詩119篇の作者は、神を求めることにおいて「喜び」を見出しました。それは苦しみを通って得た貴重な宝です。その宝によってものすごいエネルギーが流れているのを作者は感じています。
  • ここで使われている「喜び」の原語は、シャアシュイームשַׁעֲשׁוּעִים(shasuim)で、詩篇では119篇にしかない名詞で(24, 77, 92, 143, 174節の5回)です。動詞のシャーアשָׁעַע(shaa`)も、詩篇では94:19以外はすべて119篇です(16, 47, 70節)。
  • 動詞も名詞も、詩篇119篇の特愛用語といえます。英語ではほとんどdelightと訳されていますが、日本語では「喜び」とも、「楽しみ」(新共同訳、岩波訳)とも訳されています。ある特別なこととしての喜びではなく、日常的な喜び、楽しみを意味することばです。詩篇119篇そのものが、ある意味でことば遊びをしているわけで、誤解を恐れずに言うならば、そこにはまさに神にある究極の「遊び」の世界があるのかもしれません。当為から意欲へ、意欲から遊びの領域へと発展させ、独自のライフスタイルを築いています。
    詩篇119篇の礼拝用語「喜び」を参照
  • 人生には二通りの生き方があります。ひとつは「しなければならないからする」という生き方であり、もうひとつは「自分がしたいからする」という生き方です。前者には「かせ」があります。それを「義務とか責任とかきまり」と言います。しかし後者は「かせ」がありません。自由です。自由があるところには意欲があります。この二つは、本来、結びつきません。したいことだけをしている、とすれば、様々なかかわりは崩れるでしょう。かかわりを円滑にするためには、「しなければならないことをする」ということを避けられません。しかし、いつまでもそこにとどまっているならば、やがて辛くなり、喜びもなく、生きる気力さえ失ってしまいます。ですから、「しなければならないこと」が、「したいこと」と結びつくような道を探求しなければなりません。両立し得る知恵を求めなければなりません。
  • それには時間と意識改革が必要です。自分を閉じ込めている律法主義から自分を解放しなければなりません。そして主にある自由を手に入れなければなりません。そして大切なことは決して希望を失わないことです。
  • 人生には自分を解放してくれるチャンスが必ずあるものでする。それはしばしば破れの経験を通してやってきます。詩119篇の作者の場合は、バビロン捕囚という経験でした。失望、悩み、つまずき、病気、燃え尽きに陥っているときに、そこに深い意味を見出すのは大変です。しかしやがて自分にふっ切る「破れ」の経験をします。大切なことは、苦しみから逃げずに、苦しみをきちんと引き受けることです。自分で気づかなくとも、知らないうちに、「生きる」という大事業をやっているのです。そして、「あなたのみおしが私の喜び」だと作者は告白しています。この告白の背景には、「主よ。・・あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」 (75節)という自覚があります。
  • 自発的な意欲なしには「喜び」は成り立ちません。この「喜び」は御子イエスがもっておられたものです。この「喜び」を、主にある私たちひとり一人にも与えて下さるのと信じます。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional