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瞑想(1)「確証」

מ メム瞑想(1) 愛の確証

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  • このブロックでは愛の確証、つまり神に対する私の愛の確かさとは何かということを考えさせられます。作者は97節で「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中私の思いとなっています。」と述べています。岩波訳では「なんと私は愛していることか」と訳されています。その愛の証拠は、「一日中」(新改訳) 「絶え間なく」(新共同訳) 「ひねもす」(岩波訳) 「終日」(関根訳)、主のみおしえが私の思い(My meditation)となっているということです。要約すると、主を愛することは、絶えず、主が、(あるいは主のみおしえが)私の「思い」となっているということです。
  • 103節の「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。密よりも私の口に甘いのです」という表現も捨てがたい、味わいのある表現です。詩19篇10節にも同じような表現があります。「甘い」とは、美味しいということでしょう。美味しいもの食べ物は私の心を元気にし、力づけます。甘いものを美味しそうに無心で食べている子どもを思い浮かべます。甘いものは、すぐに私たちの体の中でエルネギーに換えられます。「密よりも甘いみことば」を日々味わいながら、神とのスイートな愛(sweet love)の交わりを楽しむ者でありたいと思います。 ⇒詩篇119篇の礼拝用語「甘い」
  • 詩篇には、みことばを知性的な領域だけでなく、感覚的な領域でも味わう表現が多く見られます。それは赤子が母親に抱かれている感覚に近いものだと思います。赤子は母親の愛を、理性ではなく、日々、五感を通して感じとっています。たとえば、視覚を通して母親の眼差しを、聴感を通して母親のやさしい声を、触覚を通して母親の温かいぬくもりを、臭覚を通して母親のにおいを、味覚を通して母親の愛を確かに感じ取っています。
  • 同様に、神の子どもとされた私たちも、視覚によって主のまなざしを見ます。「主の御顔を仰ぎ見る」(詩篇11:7/34:5/黙示録22:4)とは交わりの究極的な表現です。聴覚によって主の御声のささやきを聞き、触覚によっていやしや導きの御手を感じ、臭覚によってキリストのかおりを嗅ぎます。匂いはその人の存在そのものを意味します。また、味覚によってみことばの甘さを味わいます。ストレスを感じるとき、甘いものが食べたくなります。主のみことばが「甘い」という表現は、みことばが私たちを元気づけ、慰め、生かしてくれる即効的な力をもっているからです。
  • 神の子とされた者たちは、神の愛に満ちた懐の中で、五感のすべてを用いて、さらなる神の深い愛を感じ取ることができるのです。


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